佐保姫

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佐保姫(さほひめ)は、春をつかさどる女神である。秋の女神である龍田姫(立田姫、たつた姫)と対置される[1]

春は佐保姫(さほひめ)、夏は筒姫(つつひめ)、秋は竜田姫(たつたひめ)、冬は宇津田姫(うつたひめ)と四季に女神を例えた概念があったと思われる[2]

概要[編集]

『古事記]』の狭穂姫命との関係について、『古事記伝』の伊邪河宮(開化天皇)の条にある沙本毘賣命の記述には「後世の歌に、佐保姫と云ことあり」等の記述があり、春をつかさどるとされる佐保姫との関連性を指摘している[1]

元は佐保山の神霊であり、948年の『陽成院一宮姫君歌合』では秋の歌に登場している。

五行説では春は東の方角にあたり、平城京の東に佐保山(現在の奈良県法華寺町法華町)があるためにそこに宿る神霊佐保姫を春の女神と呼ぶようになった。白く柔らかな春霞の衣をまとう若々しい女性と考えられる。この名は春の季語であり和菓子の名前にも用いられている。

秋の歌枕「たつた」に対比する形で春の歌枕「さほ」は設定されたと考えられている[1]

竜田姫が裁縫や染めものを得意とする神であるため、対となる佐保姫も染めものや機織を司る女神と位置づけられ古くから信仰を集めている。古来その絶景で名高い竜田山の紅葉は竜田姫が染め、佐保山を取り巻く薄衣のような春霞は佐保姫が織り出すものと和歌に歌われる。

有名な詩歌[編集]

  • 佐保姫の糸染め掛くる青柳を吹きな乱りそ春の山風 平兼盛『詞花集』

(佐保姫が染めた糸を掛けた柳の枝を吹き乱さないでおくれ春の山風よ)ここでは柳の瑞々しい若葉を佐保姫の染めた糸にたとえている。

  • 佐保姫の霞の衣ぬきをうすみ花の錦をたちやかさねむ 後鳥羽院『後鳥羽院御集』

(佐保姫の霞の衣は横糸が少ない(薄織りにしている)ので、花でできた錦を重ね着するのだろうか)ここでは春霞を軽くやわらかな薄織りの絹に譬えている。

  • 霞の衣裾は濡れけり佐保姫の春立ちながらしとをして 山崎宗鑑『新撰犬筑波集』

霞の下の方を衣に譬えて「霞の裾」と言う。「しと」は尿のこと。霞のたなびく中、地面に近いところが湿っぽくなった、それを佐保姫が立ちながら粗相をしたためと見立てている。「立ち」は霞が立つと佐保姫が立つとの掛詞。

四季の女神達[編集]

筒姫[編集]

一説には「筒姫の”筒”は井戸から生じた名前。筒姫とは、水の恵みを具現化した神様」と言われてますが、詳細不明な謎多き女神である。五行思想で夏は南ですが、平城京の南にそれらしい場所や伝承は今のところ発見されていない、とのこと[3]

宇津田姫[編集]

他に「黒姫」もしくは「白姫」とも。「黒姫」は五行思想で冬は黒にあたることからきているのではないかと言われている[4][5]

祀る神社他[編集]

  • 佐保姫神社(奈良県奈良市西包永町)

佐保川天満宮[編集]

奈良時代に、聖武天皇陵のある多聞山に「雷神」、即ち「天の神」として祀られたのが始まりである。山の守護神として、「天神の宮」或いは「天満宮」として近在の人々の信仰を集めていたようだ。松永弾正久秀が、1560年に多聞山に城を築いた際に、山上に祀られていた「佐保姫明神」と共に現在地に移され、後に「佐保姫明神」が他の地に移されてからも、天満宮の周辺には人家がなかったので「草天満」と呼ばれていたようだが、その後、菅原道真も祀られようになり、「佐保川天満宮」と呼ばれて人々に親しまれている[6]

佐保姫神社(天棚織姫神社)・桜七所明神社[編集]

大和国添上郡奈良市にある神社。狹穗姫を祀る、という説[7]と佐保姫を祀る、という説[8]があるようである。佐保川のほとりにある。

かつて「多聞山」に鎮座していた「佐保姫神社」が、多聞城を築くため「西包永町」の佐保川天満宮の地に遷座し、さらに遷座されたのが当社であろうと推定される、とのこと。

狹岡神社[編集]

奈良県奈良市法蓮町にある神社。祭神は若山咋之神、若年之神、若沙那賣神、彌豆麻岐之神、夏高津日之神、秋比賣之神、久々年之神、久々紀若室葛根之神である。

社伝によると、 霊亀二年(716)、藤原不比等が国家鎮護し藤原氏繁栄のため、自宅の丘上に創祀したという。大伴安麻呂を佐保大納言と呼ぶように、大伴氏と関連の深い地域だ。

祭神は、大年神天知迦流美豆比売神の子である羽山戸神と大気都比売神の間に出来た御子神八柱。祭神が、天神八座となったのは、佐保姫神を若沙那賣神に付会したためであり、本当の祭神は佐保姫神とする説もある。

参道階段左手に、「佐保姫旧跡保存地」という鏡池と呼ばれた窪地があり、旱魃に雨乞いをしたという[9]。鏡池の名は、佐穂姫がその姿を「佐保の池」に映して見たことによるという[10]

黒髪山稲荷神社[編集]

祭神は保食神[11]。黒髪山神社の祠の左には白瀧神社が祀られており、白瀧大神の神岩がいくつか見られる。黒髪山のクロカミは、「クラオカミ」の転じた言葉だとされる[12]

別の説として、

第11代垂仁天皇の皇后だった狭穂(さほ)姫は兄の狭穂彦が謀反を起こした時、皇子を出産。狭穂姫は皇子を天皇方に渡して逃げようとし、追っ手に捕まらないよう髪を切り、この山に埋めたという。

という伝承がある[13]

漢國神社[編集]

奈良県奈良市にある神社。式内社(小、論社)で、旧社格は県社。

推古天皇元年(593年)2月3日、勅命により大神君白堤(オオミワノキミ シラツツミ)が園神を祀ったのに始まると伝える[14][15]。その後、養老元年(717年)11月28日、藤原不比等が韓神二座を相殿として合祀したという。かつては春日率川坂岡神社あるいは園韓神社と称していたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」という社名になったと伝える[14]。「大神分身類社鈔并附尾」(昭和三年)や「大三輪神三社鎮座次第」(昭和七年)には、漢國神社を「狭加岡神社」「坂岡神社」と記す[16]

主祭神:園神(そのかみ)として大物主命、韓神(からかみ)として大己貴命・少彦名命を祀る[14]

率川神社[編集]

率川神社(いさがわじんじゃ)は、奈良県奈良市本子守町にある神社。大神神社の境外摂社で、正式名称を率川坐大神御子神社といい[17]、また子守明神とも呼ばれる[18]。『延喜式神名帳』に「率川坐大神神御子神社 三座」と記載される式内小社。

推古天皇元年(593年)2月3日、大三輪君白堤が勅命により神武天皇の[皇后である媛蹈韛五十鈴姫命を祭神として奉斎したとされ[17]、奈良市最古の神社という[18]。後に元正天皇によって本殿の右側には媛蹈韛五十鈴姫命の父神である狭井大神を、左側には母神である玉櫛姫命が祀られるようになった。

私的考察[編集]

大和における佐保姫の本来の機能は、三輪山(おそらく本来の名は佐比売山あるいは三比売山)の女神かつ佐保川(大和川)の女神であり、かつ田の虫除けなどの厄除けの女神だったと考える。そして「母と二人の娘」という三女神の習合体でもあったと考えられる。大和を初期に開拓したのが物部氏系の氏族だったとすれば、広瀬大社の饒速日命が彼女の夫であり、父であったと考える。現在の祭神である若宇加能売命は娘神としての性質を強調している、といえる。現在の神名から、「母神」としての性質が強調されている女神を挙げるとすれば、村屋坐弥冨都比売神社の弥富都比売神なのではないだろうか。

ただし、三輪山の主神が大物主命に変更されると、それまで山の女神とされていた物部氏系佐保姫に代わって、大物主命の「妻神」として賀茂氏系活玉依毘売が「山の女神」的な地位に入り込んできたように思える。夫婦そろって「疫神」である。三輪山伝説に登場する活玉依毘売、勢夜陀多良比売、倭迹迹日百襲姫はいずれも「同じ女神」として扱われており、倭迹迹日百襲姫が悲劇的な最後を遂げたことから、「怨霊扱い」で鎮めなければならない女神、とされていると考える。

それに併せて、本来の祭神だった佐保姫も、狭穂姫命のように悲劇的な死を遂げた女神と習合させ組み合わせることで、「怨霊扱い」で鎮めなければならない女神、という姿が強調されているように思う。要するに、物部氏系氏族は佐保姫を「厄払いの女神」として扱っていたが、賀茂系氏族は逆に「疫神」として扱って鎮花祭で鎮めなければならない女神として扱ったのだ。佐保川(大和川)は地理的要因により、長雨などで大和盆地に洪水を起こす川だったので、容易に「祟り神」に変換しやすかったし、そのために奈良盆地は選ばれたのではないか、とすら思える。

また佐保姫は藤原氏の手によって、若沙那賣神という須佐之男命系の女神にも変換されているように思う。奈良盆地で重要な女神だったので、有力な各氏族が取り込んで女神の利用を試みたものと考える。

飛鳥には治水に関して、「亀岩」という岩があり、これは干ばつと関連しており、佐保姫のトーテムと考える。

参考文献[編集]

  • Wikipedia:佐保姫(最終閲覧日:24-12-13)
  • Wikipedia:漢國神社(最終閲覧日:24-12-13)
  • Wikipedia:率川神社(最終閲覧日:24-12-13)

関連項目[編集]

  • 三穂津姫:同じ女神と考える。
  • 竜田姫
  • 亀岩
  • 伊豆能売:大和佐保川に関する女神とした場合、佐保姫の別名で、天目一箇神を夫とする場合、この名前の女神になると考える。

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 奥村恒哉, http://id.nii.ac.jp/1430/00000813/ , 歌枕序説 : 起源と前史, 鹿児島県立短期大学紀要 人文・社会科学篇, volume40, 鹿児島県立短期大学, 1989, p13-20, CRID:1050282812956920960
  2. 文月 「空」、OSOTO web(最終閲覧日:24-12-12)
  3. 四季を司る女神、一ノ口二山 (最終閲覧日:24-12-13)
  4. 四季を司る女神、一ノ口二山 (最終閲覧日:24-12-13)
  5. 夏=南ですから、佐保川下流の筒井(つつい)かもしれないし、冬=北ですから京田辺の打田(うつた)かもしれない、という考察があったので付記しておく。(大和国の佐保めぐり⑮ ~佐保姫神社~、NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~、最終閲覧日:24-12-13)
  6. 佐保川天満宮、佐保のかはず(最終閲覧日:24-12-12)
  7. 佐保姫神社(天棚織姫神社)・桜七所明神社、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-12)
  8. 大和国の佐保めぐり⑮ ~佐保姫神社~、NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~(最終閲覧日:24-12-12)
  9. 狹岡神社、玄松子(最終閲覧日:24-12-13)
  10. 狭岡神社、かむながらの道 ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-13)
  11. 黒髪山稲荷神社、かむながらの道 ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-13)
  12. 黒髪山稲荷神社!奈良阪町に残る龍神信仰、奈良の宿 料理旅館大正楼(最終閲覧日:24-12-13)
  13. 黒髪山にまつわるドラマチックな悲話/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第97回、tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」(最終閲覧日:24-12-13)
  14. 14.0 14.1 14.2 奈良市史 社寺編, 奈良市史編集審議会, 吉川弘文館, 1985, p179, isbn:4642015493
  15. 「大三輪三座鎮座次第」によると、大神君白堤が勅を奉じて春日邑率川・坂岡の両所を奉斎した
  16. 狭岡神社、かむながらの道 ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-13)
  17. 17.0 17.1 奈良市史 社寺編 p.181
  18. 18.0 18.1 公式サイトより