日置氏

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日置氏(ひきし)とは、日本の古代氏族の一つである。太陽に関する祭祀や占いと行った氏族と思われる。天甕津日女命を鎮める役目を負った「建岡の君」は日置氏の祖とされる。浦島太郎も日置部の住人と伝えられ、日置氏と関連すると思われる。

「埼玉苗字辞典」より

日置

日置部は神霊を迎える聖火の材料を製作したり、剣など武器鍛造の際に聖なる火を作るために炭焼に従事した集団である。また、ヒキ蛙のように天を仰ぎ雨乞い祈願をしたり、日招きをしたりして、暦を作成した。ヒオキ、ヘキとも称した。忌部(いんべ)・斎部(いんべ)と同流にて、忌部は朝廷神殿際祀に要する諸物の用具を整える職である。神代紀に「忌部の遠祖太玉命が布刀御幣を奉りし」。天太玉命の子天櫛耳命、其子天富命は、神武天皇朝に「天富命が神物を調ふ」と。姓氏録・未定雑姓・和泉の部に「日置部、天櫛玉命の男天櫛耳命の後てへり、見えず」とあり。和泉国は当初河内国に含まれていた。日置庄(ひき)は大阪府堺市日置荘町にて、鋳物支配頭の仁安二年斎部真継文書に「河内国丹南郡狭山郷内日置庄鋳物師等」と見ゆ。和名抄に肥後国玉名郡日置郷(へき)あり、延喜式に玉名郡疋野神社(熊本県玉名市立願寺字疋野)を載す。日置(ひき)氏の守護神なり。玉名郡菊水町江田の三宝寺発見銅版墓誌(延暦頃)に「玉名郡権擬少領日置郡公」あり。当所は有名なる朝鮮系の遺物を多く含む江田船山古墳がある。疋石野大明神由来(肥後国誌)に「昔、小岱山麓に炭焼きをして渡世する者がいたが、その頃内裏の姫君に、肥後国小岱山の炭焼別当を夫にすれば将来繁昌するとの観世音菩薩の夢告があり、姫君は女房や侍に供奉されて別当を訪れ、別当の言葉をきかず妻となったといい、別当はこの地方に製鉄業を起こし、石野大長者となり、立願寺村内に長者屋敷を構えたと云う」と見ゆ。有名なる玉名郡の小代鍛冶師にて、疋野神社は渡来系日置部の奉斎神なり。また、和名抄に能登国珠洲郡日置郷は比岐(ひき)と註す。大和国葛上郡日置郷は比於支(ひおき)、伊勢国壱志郡日置郷は比於支、越後国蒲原郡日置郷は比於木(ひおき)、但馬国気多郡日置郷は比於岐(ひおき)と註す。  東国では安房国長狭郡日置郷あり、鴨川市二子字比岐(ひき)に比定す。延喜式に信濃国更級郡日置神社を載す、筑摩郡日岐郷上生坂村に日置神社あり。ヒキと称す[1]

長野市信州新町にも日置神社がある。

比企

和名抄に武蔵国比企郡を載せ、比岐と註す。日置部の居住地なり。埼玉郡尾ヶ崎村(岩槻市)勝軍寺安永九年供養塔に比企組と見ゆ。○茨城県新治郡八郷町二十五戸、真壁郡明野町十四戸。○神奈川県平塚市二十五戸。○新潟県北蒲原郡紫雲寺町十一戸、新津市十二戸あり。  

安房国出身の比企氏

 和名抄に安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していた。延喜式の安房坐神社(館山市大神宮)は忌部の祖天太玉命を祭神とす。安房忌部と同族の日置氏一族は武蔵国比企郡にも土着し、地名を比企と称した。両国は古代から密接な関係があった。相模国の三浦和田一族は安房国に所領を持っており、吾妻鑑・和田合戦の条に「和田義盛の子朝夷名三郎義秀、海浜に出で、船に棹して安房国に赴く、其勢五百騎、船六艘」と見ゆ。安房国朝比奈村(千倉町)は此氏の出身地なり。愚管抄(著者慈円は九条兼実の弟)に「ヒキノ判官能員阿波国ノ者也、ト云者ノムスメヲ思テ、男子ヲウマセタリケルニ、六ニ成ケル、一万御前ト云ケル。(中略)。其外笠原ノ十郎左衛門親景、渋河ノ刑部兼忠ナド云者ミナウタレヌ、ヒキガ子共、ムコノ児玉党ナド、アリアイタル者ハ皆ウタレニケリ、コレハ建仁三年九月二日ノ事ナリ。(中略)。ヒキハ其郡ニ父ノタウトテ、ミセヤノ大夫行時ト云者ノムスメヲ妻ニシテ、一万御前が母ヲバマウケタルナリ、其行時ハ又児玉タウヲムコニシタル也」と見ゆ。安房国の能員の妻は秩父党の児玉氏流片山行時の娘なり。吾妻鑑巻十七に「建仁三年九月、能員の二歳の男子等は好あるに依りて、和田義盛に預けて、安房国に配す」と。能員は安房出身の出稼衆で三浦党和田氏一族である。平家物語巻八に「征夷将軍院宣の御使は中原泰定にて、三浦介義澄して請取り奉るべし。三浦介義澄も家子二人郎等十人具したりけり。二人の家子は和田三郎宗実、比企藤四郎能員なり。郎等十人をば、大名十人して、一人づつ俄に仕立てられけるとぞ聞えし」。また、吾妻鑑巻十二に「建久三年七月二十六日、勅使中原康定等、征夷大将軍の除書を持参す。三浦義澄は比企右衛門尉能員・和田三郎宗実ならびに郎従十人を相具し、かの状を請け取る」と見ゆ。能員は三浦氏の家子であるが、比企系図等には一切記載が無い。後世の系図作成者は安房国出身とか三浦党を無視している。似たような系図には、丹党の創設者である上野国小野郷中村出身の出稼衆小野氏を無視しており、児玉党は創設者の下野国都賀郡出身の富野氏を無視している。年貢徴収者で村人の嫌われ者である武士は出稼衆で地元出身者はいない。比企氏は比企郡より、丹党は丹之庄より、児玉党は児玉郡より発祥して、其の地の出身者と考えられたが、この説は大きな誤りである。

丹後国風土記逸文

「與謝郡日置里、この里に筒川村あり」とし、その村の筒川嶼子(つつかわのしまこ)は、容姿と風流が際立ち、別名「水江浦嶼子」といい、日下部首(くさかべのおびと)の先祖だとしている[2]

長谷(はつせ)の朝倉宮の御世、つまり雄略天皇の時代。嶼子(島子)が一人船で海に出るが、3日間魚は釣れず、五色の亀が取れる。船で寝入る間に亀は美女の姿に変わっている。いきなり現れた女性の素性を訪ねると、「天上の仙(ひじり)の家」の者だとの返答。島子と語らいたくなってやって来たという。舟を漕いで女性の住む「蓬山」[3]を訪れるが、海上の島であった。門に立つと、7人の童子、ついで8人の童子に「亀比売(かめひめ)の夫がいらした」と出迎えられるが、これらは昴七星畢星の星団であった。浦島は饗宴を受け、女性と男女の契りを交わす。
三年がたち、島子に里心がつくと、女性は悲しむが、彼女との再会を望むなら決して開けてはならない玉匣(たまくしげ)(箱)を授けて送りだす。郷里を訪ねると家族の消息は得られず、水江の浦の島子という人が300年前に失踪したと伝わる、と教えられる。約束を忘れて箱を開けると、何か美しい姿が雲をともない天上に飛び去って行った。そこで島子は女性と再会できなくなったことを悟るのである[4]

神奈川県横浜市神奈川区に伝わる話

神奈川県にある通称「浦島寺」と結びつく伝説は次のようなものである:

昔、相模国三浦に浦島太夫とよばれる人がおり、彼は仕事のため丹後国に赴任していた。その息子である太郎は、亀が浜辺で子供達にいじめられているところに出会う。(全国版と同じなので中略)竜宮の乙姫から授かった玉手箱と観音像を持って太郎が丹後に帰ると、そこに両親のゆかりの跡はなく、太郎は両親の墓は武蔵国白幡(現・横浜市神奈川区の東部)にあると聞かされる。
老人となった太郎は、白幡の峰に行き、両親の墓を探したが、なかなか見つけられない。それを見かねた乙姫は、松枝[5]に明かりを照らして場所を示した。やっとのことで墓を見つけた太郎はその地に庵を結び、観音像を安置した。太郎の死後、その庵は観福寺(浦島院観福寿寺)となった[6][7]

長野県木曽の浦島伝説

長野県木曽の山中に、浦島太郎がここに住んでいたという伝説が、室町後期から江戸時代の頃に成立している。

創作であるが、古浄瑠璃『浦嶋太郎』では、舞台を上松の宿場の界隈として、浦島太郎の民話を作り変えている。すなわち信濃国に住む子宝に恵まれない夫婦が戸隠明神に祈願して授かったのが主人公の浦嶋太郎とする。その相手も、もとは「うんのの将監」の娘の「玉より姫」で、浦嶋と恋仲になるが現世では添い遂げられず、伊奈川(木曽川の支流)に身投げするが、超自然的な女性に生まれ変わる。彼女は亀に案内され、竜宮界の館のきんなら王に仕える「とうなんくわ女」となるのである。拝領した「うろこの衣」は、これを脱げば亀の姿から人間に戻るという霊物だった。姫は亀の姿となって伊奈川にいるところを浦嶋太郎に釣られ、再会を果たす。浦島は姫の船に乗り、竜宮へ案内される[8]


参考文献

関連項目

私的注釈


参照

  1. 比企郡 名前の由来、古社への誘い 雑記帳(最終閲覧日:24-12-08)より転載。
  2. 與謝郡日置里此里有筒川村此人夫日下部首等先祖名云筒川嶼子爲人姿容秀美風流無類斯所謂水江浦嶼子者也..(沢瀉久孝 編, 上代文学選. 上, 三省堂, 1941, NDLDC:1456581/61, 2015-07-15)
  3. 挿入歌では「とこよ(等許余)」と見える。
  4. 蘆屋, 1936, p183-187: 丹後国風土記逸文の読み下し
  5. 乙姫が枝に光を照らしたとされる龍燈の松は、鉄道開通時に伐られたとされる
  6. 萩坂昇, よこはまの民話, むさしの児童文化の会, 1976, 神奈川の民話, p97-103
  7. 小島瓔礼, 武相昔話集: 神奈川|, 岩崎美術社, 1981, p71
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