塗山氏女
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塗山氏女(とざんしのむすめ)は、夏の禹の妃で、啓の母。名は女嬌[1]、女趫[2]、女憍[3]ともいう。
塗山氏の長女[4]として生まれた。塗山は寿春の東北にあった国という[5]。禹は辛の日に塗山氏をめとったが、4日後の甲の日には黄河の治水のために家を出てしまい、帰ってこなくなった。啓が生まれても、禹は子育てに協力しようとしなかった[6]。塗山氏はひとりで家の留守を預かり、啓を教育した[4]。
695年(証聖元年)、武則天により塗山氏は玉京太后と追号された[7]。
「楚辞」天問による伝承
夫の禹が「轘轅山」の治水工事を行う際、難工事だったので「太鼓を叩くから、太鼓の音が聞こえたら食事を持ってくるように」と女嬌に求めた。禹は熊に変身して工事を行ったが、足で蹴飛ばした石が太鼓に当たり音を立てた。禹は工事に夢中でそのことに気づかなかったが、太鼓が鳴る音を聞いた女嬌は禹に昼食を届けに出かけた。女嬌は熊を見て夫とは思わず逃げ出したが、禹の方もあわてて熊の姿のままで妻を追いかけてしまった。熊に追いかけられた女嬌は恐れてますます逃げた。そして、ついにからだを一ゆすりすると彼女は石と化してしまった。これを見て怒った禹が「わしの子供を返せ」と叫んだところ、石は北の方に割れ「啓」という子供を生んだ。啓とは「割れる」という意味である[8]。
参考文献
- 中国の神話伝説 上、袁珂, 1993, 青土社, page350-351