アドーニス
アドーニス (Ἄδωνις, ラテン文字表記:Adōnis)は、ギリシア神話に登場する、美と愛の女神アプロディーテーに愛された美少年。フェニキアの王キニュラースとその王女であるミュラーの息子[1]。
長母音を省略してアドニスとも表記される[1][2]。彼の名は、美しい男性の代名詞としてしばしば用いられる[3]。
目次
解説
アドーニスという名はセム語起源で、旧約聖書のマソラ学者による読みであるアドナイ(ヤハウェの呼び名「主」)と関係があるとされる。さらに神話の舞台となる場所がギリシア以外であり、元来は非ギリシア系の神話の人物である[1]。元はビュブロスとパポスにおいて信仰されていた[2][4]フェニキア神話の植物の神であった。アドーニスは収穫の秋に死んで、また春に甦って来る。アプロディーテーが冥府の女王ペルセポネーとアドーニスを頒つのは、植物の栄える春夏と、枯れて死ぬ冬との区別である[5]。
神話
禁忌破りの婚姻
キニュラースの家系は代々、アプロディーテーを信仰していた。しかし、王女ミュラーはとても美しく、一族の誰かが「ミュラーは女神アプロディーテーよりも美しい」と言ってしまった。これを聞いたアプロディーテーは激怒し、ミュラーが実の父であるキニュラースに恋するように仕向けた。父親を愛してしまい、思い悩んだミュラーは、自分の乳母に気持ちを打ち明けた。
彼女を哀れんだ乳母は、祭りの夜に二人を引き合わせた。顔を隠した女性が、まさか自分の娘だとは知らないキニュラースは、彼女と一夜を共にした。しかし、その後、明かりの下で彼女の顔を見たキニュラースは、それが自分の娘のミュラーだと知ってしまった。怒った彼はミュラーを殺そうとしたが、彼女はアラビアまで逃げ延びた。彼女を哀れに思った神々は、ミュラーをミルラ(没薬)の木に変えた。
アドーニスの誕生と成長
やがて、その木に猪がぶつかり、木は裂け、その中からアドーニスが生まれた。そのアドーニスにアプロディーテーが恋をした。やがてアプロディーテーは赤ん坊のアドーニスを箱の中に入れると、冥府の王ハーデースの妻で、冥府の女王のペルセポネーの所に預けた。彼女はペルセポネーに、けっして箱の中を見るなと注意しておいた。しかし、ペルセポネーは好奇心に負け、箱を開けてしまった。すると、その中には美しい男の赤ん坊のアドーニスが入れられていて、彼を見たペルセポネーもアドーニスに恋してしまった。こうしてアドーニスはしばらくペルセポネーが養育することになった。
アドーニスが少年に成長し、アプロディーテーが迎えにやって来た。しかし、ペルセポネーはアドーニスを渡したくなくなっていた。2人の女神は争いになり、ついに天界の裁判所に審判(ゼウスあるいはカリオペー)を委ねることにした。その結果、1年の3分の1はアドーニスはアプロディーテーと過ごし、3分の1はペルセポネーと過ごし、残りの3分の1はアドーニス自身の自由にさせるということとなった。
しかし、アドーニスは自分の自由になる期間も、アプロディーテーと共に過ごすことを望んだ。ペルセポネーは、アドーニスのこの態度に、大いに不満だった。
アドーニスの死
アドーニスは狩りが好きで、毎日狩りに熱中していた。アプロディーテーは狩りは危険だから止めるようにといつも言っていたが、アドーニスはこれを聞き入れなかった。アドーニスが自分よりもアプロディーテーを選んだことが気に入らなかったペルセポネーは、アプロディーテーの恋人である軍神アレースに、「あなたの恋人は、あなたを差し置いて、たかが人間に夢中になっている」と告げ口をした。これに腹を立てたアレースは、アドーニスが狩りをしている最中、猪に化けて彼を殺してしまった。
アプロディーテーはアドーニスの死を、大変に悲しんだ。やがてアドーニスの流した血から、アネモネの花が咲いたという。
アネモネについて
語源はギリシア語で「風」を意味する Άνεμος (anemos) から。ギリシア神話中に、美少年アドニースが流した血よりこの植物が産まれたとする伝説があり、稀にアドニスと呼ぶこともある。なお、adonisはフクジュソウ属の学名である。
アドーニスの園
古代ギリシャでは, アテネでアドニス祝祭が女性により壮厳に行なわれた。それが, いまもギリシャの所々でアドニス・ガーデンの風習として生き続け, とくにセェレェー村では復活祭にこの行事が盛んである。文献によればアドニス祝祭は紀元前5世記に遡る。美男アドニス神の若い逝去を悼んで, 若い女性らが, こわれたエムプラ (ギリシャの壺) を逆にして, なかに土を埋め草花を栽培した。草花の枯死はアドニス神の死と復活を象徴するもので, 植物の再生と成長を促進する呪術的な行為とされた。とくに注目すべきことは, こわれたエムプラの残りを逆さにして, それを鉢として使用した点である。この風習はギリシャ人の生活に深くしみ込み, 形こそ変わったが, いまでもいたるところでアドニス・ガーデンがみられるし, ポット・ガーデンのオリジンとみることもできる。なおアドニス・ガーデンは豪華な造園ではなく, 庶民の情緒的な小庭園であるところに, 大きな意味があると思われる。(アドニス園について、金 龍沫、1979(最終閲覧日:24-12-07))
私的解説
禁忌破りの婚姻について
アドーニスは、両親の「禁忌の結婚」から誕生したことが分かる。これは近親婚という禁忌でもあるし、神話的な「見るな」の禁忌でもある。父親のキニュラースは、妻を追いかけて殺そうとするので祝融型神、母親のミュラーは吊された女神と考える。父親が母親を追いかけるところに伏羲・女媧型神話の名残が見える。ミュラーはミルラの木に変化するので、これは結局彼女の死を意味すると考える。
アドーニスの誕生
ミルラの木に、イノシシがぶつかってアドーニスが生まれる。この場合、ミルラの木はやはり吊された女神だし、イノシシが祝融型神といえる。イノシシはキニュラースの別の姿ともいえるのではないだろうか。
アドニースの成長
アドニースには二人の養母が存在する。アプロディーテーとペルセポネーである。アプロディーテーは不死の女神なのだがアドニースを箱に入れて、ペルセポネーのところに預けた。これは育てる、というよりも
- アドニースを人身御供として箱に入れ埋葬した
- アドニースの死と引き換えに、何か植物のようなものが再生することを期待した
ものと言えないだろうか。そうすると、アプロディーテーは人身御供というものを肯定している女神ということで、「吊された女神」ということになる。一方のペルセポネーは冥界の女神で、現世にはたやすく戻ってこれない存在で、死者でもある。彼女が冥界に掠われた経緯から見れば、こちらも「吊された女神」といえる。彼女たちは、どちらも元は同じ「吊された女神」なのだが、二つに分けて、存在場所をそれぞれ現世と、冥界に分けたと思われる。それは「植物神が現世と冥界の間を非常識に行ったり来たりする話」が、物語として破綻しないためになされた工夫ではないだろうか。
ともかく、アドーニスは冥界で、現世に再生されても良い状態まで育つ。そのため、最終的にアプロディーテーの働きかけで再生するが、1年のうち1/3は冥界で過ごす定めになる。人間の生活としては奇妙だが、植物らしい運命とはいえる。
アドニースの死
アドニースは狩の最中にアレースが化けたイノシシに襲われて死ぬ。本物語では、イノシシはアドニースが生まれた際にも登場する。このイノシシもキュニラースの別の姿といえないだろうか。なぜキュニラースは息子を産ませ、そして殺してしまうのだろう。彼の故郷がフェニキアなのであれば、幼児供犠がすぐに思い浮かぶところなので
- なにがしかの豊穣や安寧を得るために、神に子供を捧げた。
という理由がまず挙げられるように思う。もしかしたら、近親相姦で子を成したというタブーに対する神の怒りを裂けるためにそうしたのかもしれない。あるいはフェニキア人らしく、アドニースの死と引き換えに、他の家族の安寧を願ったのかもしれない。
そして、他の理由としては、やはりエンリルとニンリル的な話になってしまうのだが、キュニラースは何らかの理由ですでに死んでいるか、あるいはイノシシの姿に変えられてしまって人間ではないので、蘇るか、あるいは人間の姿に戻るために、人型の生け贄を一人必要としていたのではないだろうか。アドニースは、元々キュニラースが生まれ変わるために冥界か、それに近い環境で作った子供であって、チャンヤン神話のチャンヤンが蛾王の生まれ変わりのような状態なのと同じ存在だったと考える。
そこに「植物神の再生を促す人身御供」という要素が加わったので、アド-ニスは自らが祭主となることなく、人身御供となる方向に進むことになったのではないだろうか。本物語の場合、植物神の再生を促す祭りを主催するのはアプロディーテーとペルセポネーである。
参考文献
- Wikipedia:アドーニス(最終閲覧日:24-12-07)
- 松村一男、平藤喜久子、山田仁史編, 2013-02, 神の文化史事典, 白水社, 978-4-560-08265-2
- マルタン, ルネ監修、松村一男訳, 1997-07, 図説ギリシア・ローマ神話文化事典, 原書房, 978-4-562-02963-1
- コッテル, アーサー, アーサー・コットレル, 左近司祥子、宮元啓一、瀬戸井厚子、伊藤克巳、山口拓夢、左近司彩子訳, 世界神話辞典, 1993-09, 柏書房, 978-4-7601-0922-7
- Wikipedia:アネモネ(最終閲覧日:24-12-07)