石見天豊足柄姫命
天豊足柄姫命(あめのとよたらしからひめのみこと)は島根県浜田市の天豊足柄姫命神社(石神社)の祭神。
目次
内容
石見国を開いて衣食の道を授けたとされる。神社境内の碑文の解説として「その伝によると神が石と化した事は根拠がなくて信ずる事が出来ない」とある。石と化したという伝説は下記の八色石の伝説に由来する。
八色石の伝説
邑智郡邑南町八色石の龍岩神社に天豊足柄姫命にまつわる伝説が残されている。
浜田古事抜粋に曰、八束水臣津野命あもりましゝ時、ひとりの姫神(御名ハ石見天豊足柄姫命)あらはれて、告げていはく、此国ニ八色石あり。山をから山となし。川を乾川となし。蛇と化て、常に来て民をなやますと、命国蒼生の為に之を亡さばやと、おもほして、姫神のたつきのまにまに、其所に到り、其石を二段に切たまへば、其首、飛去て邑智の郡龍石となり、其尾は裂て、這行美濃郡角石となる。是より国に禍なしとて、姫神いたく喜悦て、やがて吾廬にいざなひて種々に、もてなしつ。かれ命いなみあへで廬にやどりて、夜明て見たまへば、其姫神忽然にかはりて、一の磐となりき。命訝しくおもほして、此はあやしきいはみつる哉と、のりたまひき。かれいはみといふと。(独酔園独醒、石見海底能伊久里)
天下った出雲の八束水臣津野命の前に女神(天豊足柄姫命)が現れ、この国に八色石という巨岩があり、山河は枯れ、蛇と化して民を悩ませていると告げた。命は青民草のためにこれを滅ぼそうと思召した。姫に手引きされた八束水臣津野命が赴き、八色石を二段に切った。その首は飛び去って邑智郡の龍石となり、その尾は美濃郡の角石となった。これで災いがなくなったと姫はいたく喜んで庵に誘ってもてなした。八束水臣津野命は庵に宿をとったが、夜が明けて見たところ、その姫は忽然と岩に変わっていた。命はこれは不思議な岩を見たことだと訝しく思った。[1]
那賀郡誌
『那賀郡誌』松陽新報社 1916年 に掲載されたものでは、
石見の国は天豊足柄姫命によって開拓され豊かに足らされた。民草は満ち足りていたとき、荒ぶる神が現れ、長大な蛇の姿となって民草を襲った。今ぞ危急という秋、姫は出雲より八束水臣津野命の救援を得て大いに撃って蛇を三分にし衰亡に終わらしめた。かくして凱旋の宴で八束水臣津野命の将兵をねぎらったが、その夜、姫はみまかって石となり給うたと伝える。姫の身はみまかったといえど、その功績は盤石のものとなって伝わるであろう。[2]
『那賀郡誌』が刊行されたのは大正時代だが、時代が下るにつれて勇壮な筋へと変わっている。新作神楽では八束水臣津野命と共に戦い、大蛇の瘴気に当たって亡くなるという筋立てのものがある。
天豊足柄姫命神社
別名、石神社。天豊足柄姫命を祭神とし、豊受姫命を配祀する。創建の由緒は不詳である。祭神の事績は明らかでないが、衣食の道を教えた女神として崇敬している。 旧島根県史は天豊足柄姫命について「石神は畢竟一代の御霊代に過ぎずして祭神は天豊足柄姫命なり」と論じている。式内社で栄えたことが窺えるが、中世以降戦乱が続き廃れ数百年が経った。明治時代に入り、廃藩置県となり新たに社殿をお祭りし、明治六年県社になり、明治八年七月郷社になった。境内社の亀山神社は歴代の浜田藩主を祀る。
- 文明十八年(1486)社殿を改築する。
- 元和六年(1620)、古田重治が伊勢国松坂より浜田に入部、浜田城を構築、城郭内に鎮座し奉る。
- 明治七年(1874)に本殿・拝殿共に建築。
石神は石見の天豊足柄姫命を御祀りしてある神でありその伝によると神が石と化した事は根拠がなくて信ずる事が出来ない推測する処では神は石見国をお開きになって民に功徳を与えられたので民はその徳をお慕い尊んで御殿を造ってお祭りしたものであったその位式内にのっているのを観ると当時の御殿がいかに大きくしかもお祭りが厳粛で栄えたことを知る中古以来禍乱が相続いてお祭りも出来ず廃れたことが数百年明治の世になって藩を廃し県が置かれ信寛この地方を治める事になって朝廷に敬神の念あるを申し上げ石神の由縁のある処となってその後復興に萌え茲に新しく御殿を造ってお祭りをし県社とすることを議り県民をして末永く尊崇するようにしむけた。この事をしるす為に石に刻みつけた。明治七年一月(浜田県県令正六位 佐藤信寛撰、碑文の解説)
私的考察
信仰の形態と伝承から、この女神は「燃やされた女神」「吊された女神」「養母としての女神」の三相を含んだ女神と考える。ただし、天豊足柄姫命神社の別名が石神社であることから、「石と化した女神」という概念がやや強いのかな、と感じる。
「養母としての女神」の相
「衣食の道を教えた女神」とのことで、生きて人々の産業や生活のすべに関わった女神としての性質は「養母としての女神」のものと考える。
龍岩神社の伝承
干ばつを起こす悪しき蛇神と対立する女神は、「燃やされた女神」・「吊された女神」・「養母となる女神」の三者に共通する性質である。
「燃やされた女神」の場合、対立する相手は「炎帝型神」となり、これを倒すために黄帝型神の支援を受けたり、逆に黄帝型神を援助するのが女神の役割となる。本神話では、女神は八束水臣津野命に支援を求める。八束水臣津野命が黄帝型神に相当する。その結果、悪神は倒され、八束水臣津野命は女神の家に招かれるのだから、この部分は婚姻譚の一種といえる。
「吊された女神」・「養母となる女神」の場合、対立する相手は祝融型神となり、神話的に女神と干ばつの神は、兄妹や夫婦の関係として語られることが多い。出雲を舞台として
という神話が古事記に見えるので、おそらく元はこれに近い伝承が石見天豊足柄姫命と干ばつの蛇神との間にあって、女神が疫神を追い回す、というよりは、共に戦って相打ちになった、という神話があったのではないか、と考える。川の中に「夫婦石」があったりするのは、夫婦が戦って相打ちし、共に亡くなって石になった、という神話の名残かと思う。
近い話に、長野県篠ノ井有旅の犬石にまつわる伝承がある。
こちらでは、産土神(おそらく女神)が疫神である犬神を「諭した」とあるが、犬が石に変じてしまっているのだから、本来は殺してしまった話と思われる。こちらの話では、女神は死んではいないが、疫神と戦ったために傷つけられている。女神の傷が深ければ、亡くなってしまうという展開にもなり得よう。篠ノ井有旅は古代において布施氏という氏族の活動範囲であったので、女神としては彼らの女神であった伊豆能売が想定される。
付加された八束水臣津野命
よって、八束水臣津野命が助っ人的に女神の援助をし、彼女と婚姻する神話は、後から付加されたものなのだと考える。ただ、これがいつ付加されたのかははっきりとは分からない。韓国の「龍女(肥長比売の項を参照のこと)」のように、石見天豊足柄姫命には戦う相手の他にも夫がいる、という最初からそういう話だったのかもしれないし、それは分からない。もしかしたら、古くは石見天豊足柄姫命は出雲の天甕津日女命のように夫が二人いる女神だったかもしれない。
ともかく、八束水臣津野命との婚姻後の女神の石への変化は、メリュジーヌ的な失踪譚があって、それが「女神が逃げ去る」のではなくて、「石になる」という形に変化しているのだと考える。婚姻に際し、八束水臣津野命が何か禁忌を犯したので、女神が亡くなってしまったと思われるが、その「禁忌」の部分が抜け落ちていると推察される。そして、「禁忌を犯して妻を失踪させてしまう」場合には、神話的には夫神は「祝融型神」となる。八束水臣津野命は、石見天豊足柄姫命の家に泊まった時点を境として、まるでスイッチを切り替えるかのように黄帝型神から祝融型神へと変化してしまうのだ。
参考文献
- Wikipedia:石見天豊足柄姫命(最終閲覧日:24-12-06)
- 工藤忠孝編『石見国名所和歌集成』 石見地方未刊資料研究会、1977年、53頁。 ※独酔園独醒『石見海底の伊久里』収録
- 那賀郡共進会展覧会協賛会編『那賀郡誌(復刻版)』 臨川書店、1986年、71頁。
- 大島幾太郎『那賀郡史』 大島韓太郎 1970年 120-121頁。
- 石見地方未刊行資料刊行会編『角鄣経石見八重葎』 石見地方未刊行資料刊行会、1999年、5-6頁。八色石伝説の元となった伝承が採録されている。
- 千代延尚壽「石見に頒布せる石神について」『島根評論 第4巻上 第6号(通巻第33号)』島根評論社、1936年、2-13頁。
- Wikipedia:天豊足柄姫命神社(最終閲覧日:24-12-06)
関連項目
- 八束水臣津野命:神話的に父神あるいは夫神と思われる。
脚注
- ↑ 浜田古事抜粋より独酔園独醒『石見海底能伊久里』に引用されたものを要約した。
- ↑ 『那賀郡誌』に記載された内容を要約した。
- ↑ 長野県長野市篠ノ井有旅の犬石、狼やご神獣の、お姿を見たり聞いたり民話の舞台を探したりの訪問記 -主においぬ様信仰ー(最終閲覧日:24-11-26)
- ↑ 長野市立博物館だより、第12号、1988-10-1