== 考証 ==
『古事記』では「葛城長江曾都毘古」の名で見えるほか、『紀氏家牒』逸文では大倭国葛城県長柄里(現・奈良県[[御所市]]名柄か)に住したので「葛城長柄襲津彦宿禰」と名づけたとあり、葛城地方の長柄(長江)地域との深い関係が指摘される{{Sfn|『古事記』では「葛城長江曾都毘古」の名で見えるほか、『紀氏家牒』逸文では大倭国葛城県長柄里(現・奈良県御所市名柄か)に住したので「葛城長柄襲津彦宿禰」と名づけたとあり、葛城地方の長柄(長江)地域との深い関係が指摘される<ref>葛城襲津彦(古代氏族)|, 2010年}}{{Sfn|</ref><ref>葛城襲津彦(国史)}}</ref>。また襲津彦の子孫のうち、仁徳皇后の[[磐之媛命]]が履中・反正・允恭を産んだと見えるほか、襲津彦男子の[[葛城葦田宿禰|葦田宿禰]]の娘のが履中・反正・允恭を産んだと見えるほか、襲津彦男子の葦田宿禰の娘の'''[[黒媛]]'''も履中の妃となった見えており、5世紀代における天皇家外戚としての葛城勢力の繁栄が推測されている{{Sfn|<ref>葛城襲津彦(国史)}}</ref>。
『日本書紀』では襲津彦に関する数々の朝鮮外交伝承が記されているが、『百済記』所載の「沙至比跪」の記載の存在から、実在モデル人物を基にソツヒコ伝承が構築されたとする説が有力視されている{{Sfn|<ref>葛城襲津彦(古代氏族)|, 2010年}}</ref>。一方、襲津彦という人物の実在性には慎重な立場から、あくまでも葛城勢力により創出された伝承上の人物に過ぎないとする説や{{Sfn|<ref>小野里了一|, 2015年}}</ref>、朝鮮に派遣された葛城地方首長層の軍事的活動を基に人物像が構築されたとする説もある{{Sfn|<ref>葛城襲津彦(古代史)|, 2006年}}</ref>。
神功紀は伝承的かつ複雑な性格が強く、実年代が決定しにくいが、神功紀の記載は干支三運加算の修正が妥当だとすれば壬午年は[[442年]]に相当する。親新羅的な立場の[[允恭天皇]]に比定される倭王[[済]]が[[451年]]の中国への遣使ではじめて加羅を含む六国諸軍事号を申請していることと対応する。442年に葛城襲津彦に比定される沙至比跪が大加羅国(高霊)を征討したが失敗したことを示している。新羅を討ちたい天皇と加羅を討った「沙至比跪」との立場の違いや、「天皇」は百済の将・[[木羅斤資]]により加羅国を救援させたという伝承からは、新羅神功紀は伝承的かつ複雑な性格が強く、実年代が決定しにくいが、神功紀の記載は干支三運加算の修正が妥当だとすれば壬午年は442年に相当する。'''親新羅的な立場'''の允恭天皇に比定される倭王済が451年の中国への遣使ではじめて加羅を含む六国諸軍事号を申請していることと対応する。442年に葛城襲津彦に比定される沙至比跪が大加羅国(高霊)を征討したが失敗したことを示している。新羅を討ちたい天皇と加羅を討った「沙至比跪」との立場の違いや、「天皇」は百済の将・木羅斤資により加羅国を救援させたという伝承からは、新羅-葛城氏と百済-木羅斤資-ヤマト王権の対立関係を読み取ることができ、有力氏族の独立性と独自の交通の可能性を指摘できる。襲津彦は加羅に長期滞在し、新羅・百済・加羅という多方面の外交窓口となっており、自己の配下に渡来系氏族を編成していたことがうかがわれる。新羅の人質・[[未斯欣|微叱己知]]を送還する使者に葛城襲津彦が任命されていることを重視するならば、新羅から人質がやってきた五世紀前半の状況に適合するヤマト王権の対立関係を読み取ることができ、有力氏族の独立性と独自の交通の可能性を指摘できる。襲津彦は加羅に長期滞在し、新羅・百済・加羅という多方面の外交窓口となっており、'''自己の配下に渡来系氏族を編成していた'''ことがうかがわれる。新羅の人質・微叱己知を送還する使者に葛城襲津彦が任命されていることを重視するならば、新羅から人質がやってきた五世紀前半の状況に適合する<ref>{{cite journal|和書|author=仁藤敦史 |year=, 2019 |title=, 倭・百済間の人的交通と外交 : 倭人の移住と倭系百済官僚 (第1部 総論) |url=, http://id.nii.ac.jp/1350/00002461/ |journal=, 国立歴史民俗博物館研究報告 |publisher=, 国立歴史民俗博物館 |volume=, 217 |pages=29, p29-45 |, ISSN=:0286-7400}}</ref>。
[[田中史生]]は、沙至比跪(葛城襲津彦)の[[伽耶|大加耶]]攻撃が[[済|倭王済]]の意図に反しており、[[済|倭王済]]は「[[百済]]との友好関係を前提に[[宋 (南朝)|宋]]に通じ、大加耶などの軍政権を要求し、百済とともに沙至比跪ら加耶南部や[[新羅]]と通じた葛城の有力首長を牽制したとみられる」と指摘するが、[[済|倭王済]]が[[宋 (南朝)|宋]]に対して「[[伽耶|加羅]]」(=大加耶)の軍政権を要求していることからみて、倭王は大加耶に対して関心を持ち続けていたと考えられるから、沙至比跪(葛城襲津彦)の大加耶進出はそうした情勢をふまえたものであったと理解できる、とする指摘がある田中史生は、沙至比跪(葛城襲津彦)の大加耶攻撃が倭王済の意図に反しており、倭王済は「百済との友好関係を前提に宋に通じ、大加耶などの軍政権を要求し、百済とともに沙至比跪ら加耶南部や新羅と通じた葛城の有力首長を牽制したとみられる」と指摘するが、倭王済が宋に対して「加羅」(=大加耶)の軍政権を要求していることからみて、倭王は大加耶に対して関心を持ち続けていたと考えられるから、沙至比跪(葛城襲津彦)の大加耶進出はそうした情勢をふまえたものであったと理解できる、とする指摘がある<ref>{{Cite book|和書|author=井上直樹|authorlink=井上直樹|date=, 2018-03-30|title=, 百済の王号・侯号・太守号と将軍号 : 5世紀後半の百済の支配秩序と東アジア|series=, 国立歴史民俗博物館研究報告 211|publisher=[[, 国立歴史民俗博物館]]|page=136}}, p136</ref>。
== 参考文献 ==