「竹野神社」の版間の差分
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<blockquote>昔、依遅ケ尾に'''三頭五尾'''の大蛇が棲んでいた。矢畑の村の人々は時々この大蛇を見た。<br>この大蛇が、ある日、斎神社の神姫を見て、一目惚れをした。大蛇は牧の谷まで下りてきたが、斎神社の神威に打たれて神社の森に入ることができなかった。<br>斎神社の神は大蛇がかわいそうになって、雪がたくさん積もったある日、大蛇に「二百十日の巳の刻に斎神社の松縄手にあるお旅所へ行け。そうすればお前の恋をかなえてやろう。」と告げた。やがて、春が来て雪が解け、夏が過ぎ秋になった。斎神社の神姫にも「二百十日の巳の刻、とてもよいことがあるので、縄手のお旅所へ行くように」と'''天照大神'''のお告げがあった。<br>二百十日になり、神姫は斎神社のお旅所にお参りして祝詞をあげていた。午後一時ごろになると、一天にわかにかき曇り、大雨が竹野川に降って、みるみるうちに田も畑も海のようになってしまったが、お旅所だけは少し小高いところにあったので、水のなかにぽっかりと浮いたようになった。神姫は宮へ帰ることができず、何度も祝詞をあげていた。午後二時ごろになると、依遅ヶ尾から'''炭のような真黒い雲'''が下りてきた。この雲に乗って、依遅ヶ尾の大蛇が神姫に逢いに来たのだった。しかし、姫に近寄ろうとしても、斎神社の威光に打たれ、神社に近づくことができなかった。それから何千年もの間、大蛇は二百十日の午後二時ごろ、依遅ヶ尾から炭のような黒雲に乗って、後の立岩の沖へ出てくる。年をとったのか、二百十日を間違えて二、三日早く来たり、四、五日遅れて来たりするようになった。(『丹後の民話』第三集)</blockquote> | <blockquote>昔、依遅ケ尾に'''三頭五尾'''の大蛇が棲んでいた。矢畑の村の人々は時々この大蛇を見た。<br>この大蛇が、ある日、斎神社の神姫を見て、一目惚れをした。大蛇は牧の谷まで下りてきたが、斎神社の神威に打たれて神社の森に入ることができなかった。<br>斎神社の神は大蛇がかわいそうになって、雪がたくさん積もったある日、大蛇に「二百十日の巳の刻に斎神社の松縄手にあるお旅所へ行け。そうすればお前の恋をかなえてやろう。」と告げた。やがて、春が来て雪が解け、夏が過ぎ秋になった。斎神社の神姫にも「二百十日の巳の刻、とてもよいことがあるので、縄手のお旅所へ行くように」と'''天照大神'''のお告げがあった。<br>二百十日になり、神姫は斎神社のお旅所にお参りして祝詞をあげていた。午後一時ごろになると、一天にわかにかき曇り、大雨が竹野川に降って、みるみるうちに田も畑も海のようになってしまったが、お旅所だけは少し小高いところにあったので、水のなかにぽっかりと浮いたようになった。神姫は宮へ帰ることができず、何度も祝詞をあげていた。午後二時ごろになると、依遅ヶ尾から'''炭のような真黒い雲'''が下りてきた。この雲に乗って、依遅ヶ尾の大蛇が神姫に逢いに来たのだった。しかし、姫に近寄ろうとしても、斎神社の威光に打たれ、神社に近づくことができなかった。それから何千年もの間、大蛇は二百十日の午後二時ごろ、依遅ヶ尾から炭のような黒雲に乗って、後の立岩の沖へ出てくる。年をとったのか、二百十日を間違えて二、三日早く来たり、四、五日遅れて来たりするようになった。(『丹後の民話』第三集)</blockquote> | ||
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+ | === 蛇の息子 === | ||
+ | 語り手・小倉たつ枝(丹後町・鞍内) | ||
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=== 鬼退治伝説 === | === 鬼退治伝説 === |
2024年12月19日 (木) 21:50時点における版
竹野神社(たかのじんじゃ)は、京都府京丹後市丹後町宮にある神社。式内社(式内大社)で、旧社は府社。
通称、斎宮(いつきのみや)と呼ばれている。桜井氏の子孫が代々宮司を勤め、現在の宮司は第59代目。
目次
社名
社名の由来には諸説あり、「たけの」がなまって「たかの」になったとする説や、竹野媛(たかぬひめ)から「たかの」とする説などがある。
歴史
創立年月は不明だが、『延喜式神名帳』によると竹野郡「竹野神社大」と記され、竹野郡中唯一の大社の格を誇っている。9代開化天皇の妃となった「竹野媛」が晩年帰郷した際に「天照皇大神」を祀って創建したといわれる。
室町時代には武将の保護厚く、江戸時代も宮津藩・出石藩主並びに久美浜代官所から崇信を受けていたとされる。本社、末社などは享禄3年(1530年)10月に火災で焼失したが、文政13年(1830年)3月に社殿を再建したとされる[1]
特徴
竹野神社は三方を塀に囲まれており、塀には全て白い二本線が入っている。天皇家にゆかりがないと白い線を入れることは出来ないとされており、天皇家にゆかりのある格式の高い神社は京丹後市の神社では竹野神社のみと言われている[2]。
本殿の真後に依遅ヶ尾山がある。
斎宮神社
竹野神社の摂社。竹野神社の隣にある。祭神は竹野媛命、日子坐王命、建豊波豆羅和気命である。
竹野神社には神に仕える斎女が選ばれた。斎女は市場村(現熊野郡久美浜町)から出た。神の子が生まれると、その家に白羽の矢が立ったと伝える。今、市場には斎宮大明神と呼ばれる小祠が祀られている竹野神社(たかのじんじゃ)・斎宮神社(いつきのみやじんじゃ)、丹後の地名・地理資料集(最終閲覧日:24-12-19)。
矢崎神社
竹野神社の末社。一の鳥居近くにある。祭神は宇賀能魂神、稚産霊神、保食神である。この辺りは竹野弥生遺跡地にある。近くには丹後三大古墳の一つ「神明山古墳」がある。
依遅神社
京都府京丹後市丹後町遠下風穴にある神社。現在の祭神は豊受比賣神。もとは、依遲ケ尾山上に鎮座していたが、中世、氏子等の移動に伴って、現在地に遷座、とのこと。京丹後市丹後町「平(へい)」と「上野」の境界に注ぐ「宇川」の中流域、その支流の小川沿いに鎮座する。由緒に関しては
「丹後舊事記」には、「此の所昔 霊蛇有て竹野の宮に通ひ神女を取る久敷 金丸といふ人退治すと伝ふ」とあるとのこと。
伝承
依遅ヶ尾の大蛇
伝承地 竹野郡丹後町矢畑
昔、依遅ケ尾に三頭五尾の大蛇が棲んでいた。矢畑の村の人々は時々この大蛇を見た。
この大蛇が、ある日、斎神社の神姫を見て、一目惚れをした。大蛇は牧の谷まで下りてきたが、斎神社の神威に打たれて神社の森に入ることができなかった。
斎神社の神は大蛇がかわいそうになって、雪がたくさん積もったある日、大蛇に「二百十日の巳の刻に斎神社の松縄手にあるお旅所へ行け。そうすればお前の恋をかなえてやろう。」と告げた。やがて、春が来て雪が解け、夏が過ぎ秋になった。斎神社の神姫にも「二百十日の巳の刻、とてもよいことがあるので、縄手のお旅所へ行くように」と天照大神のお告げがあった。
二百十日になり、神姫は斎神社のお旅所にお参りして祝詞をあげていた。午後一時ごろになると、一天にわかにかき曇り、大雨が竹野川に降って、みるみるうちに田も畑も海のようになってしまったが、お旅所だけは少し小高いところにあったので、水のなかにぽっかりと浮いたようになった。神姫は宮へ帰ることができず、何度も祝詞をあげていた。午後二時ごろになると、依遅ヶ尾から炭のような真黒い雲が下りてきた。この雲に乗って、依遅ヶ尾の大蛇が神姫に逢いに来たのだった。しかし、姫に近寄ろうとしても、斎神社の威光に打たれ、神社に近づくことができなかった。それから何千年もの間、大蛇は二百十日の午後二時ごろ、依遅ヶ尾から炭のような黒雲に乗って、後の立岩の沖へ出てくる。年をとったのか、二百十日を間違えて二、三日早く来たり、四、五日遅れて来たりするようになった。(『丹後の民話』第三集)
蛇の息子
語り手・小倉たつ枝(丹後町・鞍内)
むかしあるところに、お爺さんとお婆さんとが住んでいて、お爺さんがある日に畑打ちにいったら、かわいげな卵が出てきたそうな。ほで、「これはまあなんの卵だ知らんけど、きれいなんだし」思って、持ってもどって、いろりのふちにちょっと置いといた。そいたら、それがポカンと割れて、かわいげな蛇が出た。ほで、お爺さんとお婆さんはその蛇を、子供もにゃあし、子供みたいに大事にしてふじいう名をつけた。ほで山からもどると、「ああふじや、もどったで」言うて、食べ物やっては大きいしとっただそうだ。
そいたら、だんだんだんだん大きくなって、もう、いろりのふちにおられんようになって、からだを床下に入れて、首だけ出やて食べ物むらってばおったそうだ。ほいからあまりに大きなるもんで、ふじに
「これはもう、これにはおれんが、どこに行く」言うたら、「依遅ガ尾いうとこに大きな池がある。ほいで、依遅ガ尾の沢行く」言うて。
「そうならまあ、依遅ガ尾の沢へ連れていったろう」言うて、その大きな池へ連れて放すだった。
ほうしたところ、それが大きな大蛇になって、通んなる人を飲むですわ。ほで、だあれもそれをよう殺さんですし、お殿さんから、ふれが出て
「依遅ガ尾の大蛇を殺した者にはほうびをやる」言うて。ほで、あっちもこっちも行くんですけど、みな飲まれてしまって、だあれもよう討たなんだ。その話をお爺さんが聞いて
「これぁ、われぁもうほっておけん」言うことで、その池のふちい行って、コーンコーンと手を叩いて、「ふじやあ」いうて呼んだそうだ。そいたら、大きな大蛇がのろのろと出てきた。ほで
「お前はわしに討たれるか」言うたら
「うん」言うて、こう、うなずいたそうな。それで、お爺さんは鉄砲で.ハァーンと撃ったら、その蛇の死体がそこいぱあつと上がった。ほで、そいでお殿さんからものすごいごほうびをもらって、お爺さんとお婆さんは安楽に暮らしたそうだ。(『京都の昔話』(昭58・京都新聞社))[3]
鬼退治伝説
推古天皇のころ、丹後の国三上ヶ嶽(現在の大江山)では英胡・軽足・土熊(土車)の3匹の鬼が首領となり、人々を苦しめていた。朝廷は用明天皇第三皇子(聖徳太子の異母弟)の麻呂子親王を大将軍に任命し、鬼の討伐に向かわせた。その道中、戦勝祈願のため大社に立ち寄ると、伊勢の神の化身である老人がどこからともなく現れて、「この犬が道案内をいたします」と白い犬を差し出した。
やがて鬼との合戦が始まった。『斎宮大明神縁起絵巻』には鬼に斬りかかる親王の姿や、鬼に噛みつく犬の姿が描かれている。鬼は山の奥深くに逃げ込んだが、白い犬が持っていた鏡が鬼たちを照らし見つけ出し、英胡と軽足は官軍に討ち取られ、土熊は現在の竹野で生け捕りにされ、末代の証拠として丹後の岩に封じ込められた。その岩が現在の立岩だと伝えられていう。親王は鬼の平定は神仏のご加護によるものだと深く感謝し、七体の薬師如来像を彫刻し、七つの寺に納めたということだ。
祭祀
毎年、12月の丑の日に行われる奇祭。この祭りは竹野神社の神主とその下社家(宮衆)だけが行い、その祭りを見てしまうと3年以内に死んでしまうという言い伝えがあった。討伐した鬼を鎮める祭りだという事だが鬼については殺してばらばらにして埋める、生かして閉じ込めたなど諸説あり、誰も見たことのない祭りなので謎が多い。鬼をばらばらにして埋葬したところに建てた「鬼神塚」と書かれている石が近くの集落にいくつか置いてある[4]。
神明山古墳の後ろの牧ノ谷集落に、鬼神塚と刻した丸長の石が、集めておいてある場所がある。麻呂子親王に討伐された鬼の身体を、三十数体にバラバラにし、それぞれを塚(墓)にしたといわれており、その墓が一基見つかったが、他は皆壊れ、江戸時代に鬼神塚と刻した丸石七個が、新たにここに集められたものをまとめたそうだ。それが今の鬼神塚だそうです。12月の丑の日には、竹野神社に伝わる神事であり奇祭である鬼祭りが行われ、今でも鬼の供養が続けられている[5]。
文化財
京都府登録文化財
- 有形文化財
- 竹野神社 3棟(建造物) - 1985年(昭和60年)5月15日登録。
- 本殿 - 文政13年(1830年)造営。
- 末社斎宮神社本殿 - 文政13年(1830年)造営。
- 中門 - 文政年間頃の造営。
- 竹野神社紙本著色斎明神縁起(絵画) - 江戸時代、17世紀頃の作。京都国立博物館寄託。1991年(平成3年)4月19日登録。
- 竹野神社紙本著色等楽寺縁起(絵画) - 桃山時代、16世紀頃の作。京都国立博物館寄託。1991年(平成3年)4月19日登録。
- 竹野神社 3棟(建造物) - 1985年(昭和60年)5月15日登録。
- 無形民俗文化財
- 竹野のテンキテンキ - 1992年(平成4年)4月14日登録。
京丹後市指定文化財
- 有形文化財
- 竹野神社紙本著色斎明神縁起(絵画) - 京都府登録文化財に同じ。1986年(昭和61年)5月19日指定。
- 竹野神社紙本著色等楽寺縁起(絵画) - 京都府登録文化財に同じ。1986年(昭和61年)5月19日指定。
参考文献
- Wikipedia:竹野神社(最終閲覧日:24-12-19)
- 竹野神社(たかのじんじゃ)・斎宮神社(いつきのみやじんじゃ)、丹後の地名・地理資料集(最終閲覧日:24-12-19):伝承はこちらから写させて頂いています。
- 竹野神社、京丹後ナビ(最終閲覧日:24-12-19)
- 依遅神社、玄松子(最終閲覧日:24-12-19)
- 依遅神社、かむながらの道 ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-19)
関連項目
- 早太郎:長野県の犬神