「竹野神社」の版間の差分

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創立年月は不明だが、『延喜式神名帳』によると竹野郡「竹野神社大」と記され、竹野郡中唯一の'''大社'''の格を誇っている。室町時代には武将の保護厚く、江戸時代も宮津藩・出石藩主並びに久美浜代官所から崇信を受けていたとされる。本社、末社などは享禄3年(1530年)10月に火災で焼失したが、文政13年(1830年)3月に社殿を再建したとされる<ref>寺社建築物調査報告書, 京丹後市教育委員会, 2011</ref>
 
創立年月は不明だが、『延喜式神名帳』によると竹野郡「竹野神社大」と記され、竹野郡中唯一の'''大社'''の格を誇っている。室町時代には武将の保護厚く、江戸時代も宮津藩・出石藩主並びに久美浜代官所から崇信を受けていたとされる。本社、末社などは享禄3年(1530年)10月に火災で焼失したが、文政13年(1830年)3月に社殿を再建したとされる<ref>寺社建築物調査報告書, 京丹後市教育委員会, 2011</ref>
  
== 特徴 ==
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竹野神社は三方を塀に囲まれており、塀には全て白い二本線が入っている。天皇家にゆかりがないと白い線を入れることは出来ないとされており、天皇家にゆかりのある格式の高い神社は京丹後市の神社では竹野神社のみと言われている<ref>丹後思い出散歩あのころへ, 中江忠宏, 2013, p48</ref>。
 
竹野神社は三方を塀に囲まれており、塀には全て白い二本線が入っている。天皇家にゆかりがないと白い線を入れることは出来ないとされており、天皇家にゆかりのある格式の高い神社は京丹後市の神社では竹野神社のみと言われている<ref>丹後思い出散歩あのころへ, 中江忠宏, 2013, p48</ref>。
  
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=== 矢崎神社 ===
 
=== 矢崎神社 ===
 
竹野神社の末社。一の鳥居近くにある。祭神は宇賀能魂神、稚産霊神、保食神である。この辺りは竹野弥生遺跡地にある。近くには丹後三大古墳の一つ「神明山古墳」がある。
 
竹野神社の末社。一の鳥居近くにある。祭神は宇賀能魂神、稚産霊神、保食神である。この辺りは竹野弥生遺跡地にある。近くには丹後三大古墳の一つ「神明山古墳」がある。
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== 伝承 ==
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=== 依遅ヶ尾の大蛇 ===
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伝承地 竹野郡丹後町矢畑
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<blockquote>昔、依遅ケ尾に大蛇が棲んでいた。矢畑の村の人々は時々この大蛇を見た。<br>この大蛇が、ある日、斎神社の神姫を見て、一目惚れをした。大蛇は牧の谷まで下りてきたが、斎神社の神威に打たれて神社の森に入ることができなかった。<br>斎神社の神は大蛇がかわいそうになって、雪がたくさん積もったある日、大蛇に「二百十日の巳の刻に斎神社の松縄手にあるお旅所へ行け。そうすればお前の恋をかなえてやろう。」と告げた。やがて、春が来て雪が解け、夏が過ぎ秋になった。斎神社の神姫にも「二百十日の巳の刻、とてもよいことがあるので、縄手のお旅所へ行くように」と'''天照大神'''のお告げがあった。<br>二百十日になり、神姫は斎神社のお旅所にお参りして祝詞をあげていた。午後一時ごろになると、一天にわかにかき曇り、大雨が竹野川に降って、みるみるうちに田も畑も海のようになってしまったが、お旅所だけは少し小高いところにあったので、水のなかにぽっかりと浮いたようになった。神姫は宮へ帰ることができず、何度も祝詞をあげていた。午後二時ごろになると、依遅ヶ尾から'''炭のような真黒い雲'''が下りてきた。この雲に乗って、依遅ヶ尾の大蛇が神姫に逢いに来たのだった。しかし、姫に近寄ろうとしても、斎神社の威光に打たれ、神社に近づくことができなかった。それから何千年もの間、大蛇は二百十日の午後二時ごろ、依遅ヶ尾から炭のような黒雲に乗って、後の立岩の沖へ出てくる。年をとったのか、二百十日を間違えて二、三日早く来たり、四、五日遅れて来たりするようになった。(『丹後の民話』第三集)</blockquote>
  
 
== 文化財 ==
 
== 文化財 ==

2024年12月19日 (木) 16:53時点における版

竹野神社(たかのじんじゃ)は、京都府京丹後市丹後町宮にある神社。式内社(式内大社)で、旧社は府社。

通称、斎宮(いつきのみや)と呼ばれている。桜井氏の子孫が代々宮司を勤め、現在の宮司は第59代目。

社名

社名の由来には諸説あり、「たけの」がなまって「たかの」になったとする説や、竹野媛(たかぬひめ)から「たかの」とする説などがある。

歴史

創立年月は不明だが、『延喜式神名帳』によると竹野郡「竹野神社大」と記され、竹野郡中唯一の大社の格を誇っている。室町時代には武将の保護厚く、江戸時代も宮津藩・出石藩主並びに久美浜代官所から崇信を受けていたとされる。本社、末社などは享禄3年(1530年)10月に火災で焼失したが、文政13年(1830年)3月に社殿を再建したとされる[1]

== 特徴 ==ll 竹野神社は三方を塀に囲まれており、塀には全て白い二本線が入っている。天皇家にゆかりがないと白い線を入れることは出来ないとされており、天皇家にゆかりのある格式の高い神社は京丹後市の神社では竹野神社のみと言われている[2]

本殿の真後に依遅ヶ尾山がある。

斎宮神社

竹野神社の摂社。竹野神社の隣にある。祭神は竹野媛命、日子坐王命、建豊波豆羅和気命である。

矢崎神社

竹野神社の末社。一の鳥居近くにある。祭神は宇賀能魂神、稚産霊神、保食神である。この辺りは竹野弥生遺跡地にある。近くには丹後三大古墳の一つ「神明山古墳」がある。

伝承

依遅ヶ尾の大蛇

伝承地 竹野郡丹後町矢畑

昔、依遅ケ尾に大蛇が棲んでいた。矢畑の村の人々は時々この大蛇を見た。
この大蛇が、ある日、斎神社の神姫を見て、一目惚れをした。大蛇は牧の谷まで下りてきたが、斎神社の神威に打たれて神社の森に入ることができなかった。
斎神社の神は大蛇がかわいそうになって、雪がたくさん積もったある日、大蛇に「二百十日の巳の刻に斎神社の松縄手にあるお旅所へ行け。そうすればお前の恋をかなえてやろう。」と告げた。やがて、春が来て雪が解け、夏が過ぎ秋になった。斎神社の神姫にも「二百十日の巳の刻、とてもよいことがあるので、縄手のお旅所へ行くように」と天照大神のお告げがあった。
二百十日になり、神姫は斎神社のお旅所にお参りして祝詞をあげていた。午後一時ごろになると、一天にわかにかき曇り、大雨が竹野川に降って、みるみるうちに田も畑も海のようになってしまったが、お旅所だけは少し小高いところにあったので、水のなかにぽっかりと浮いたようになった。神姫は宮へ帰ることができず、何度も祝詞をあげていた。午後二時ごろになると、依遅ヶ尾から炭のような真黒い雲が下りてきた。この雲に乗って、依遅ヶ尾の大蛇が神姫に逢いに来たのだった。しかし、姫に近寄ろうとしても、斎神社の威光に打たれ、神社に近づくことができなかった。それから何千年もの間、大蛇は二百十日の午後二時ごろ、依遅ヶ尾から炭のような黒雲に乗って、後の立岩の沖へ出てくる。年をとったのか、二百十日を間違えて二、三日早く来たり、四、五日遅れて来たりするようになった。(『丹後の民話』第三集)

文化財

京都府登録文化財

  • 有形文化財
    • 竹野神社 3棟(建造物) - 1985年(昭和60年)5月15日登録。
      • 本殿 - 文政13年(1830年)造営。
      • 末社斎宮神社本殿 - 文政13年(1830年)造営。
      • 中門 - 文政年間頃の造営。
    • 竹野神社紙本著色斎明神縁起(絵画) - 江戸時代、17世紀頃の作。京都国立博物館寄託。1991年(平成3年)4月19日登録。
    • 竹野神社紙本著色等楽寺縁起(絵画) - 桃山時代、16世紀頃の作。京都国立博物館寄託。1991年(平成3年)4月19日登録。
  • 無形民俗文化財
    • 竹野のテンキテンキ - 1992年(平成4年)4月14日登録。

京丹後市指定文化財

  • 有形文化財
    • 竹野神社紙本著色斎明神縁起(絵画) - 京都府登録文化財に同じ。1986年(昭和61年)5月19日指定。
    • 竹野神社紙本著色等楽寺縁起(絵画) - 京都府登録文化財に同じ。1986年(昭和61年)5月19日指定。

参考文献

脚注

  1. 寺社建築物調査報告書, 京丹後市教育委員会, 2011
  2. 丹後思い出散歩あのころへ, 中江忠宏, 2013, p48