「塗山氏女」の版間の差分
ナビゲーションに移動
検索に移動
(ページの作成:「'''塗山氏女'''(とざんしのむすめ)は、夏の禹の妃で、啓の母。名は女嬌<ref>『史記索隠』夏本紀所引『系本』</ref>、女趫<r…」) |
|||
4行目: | 4行目: | ||
695年(証聖元年)、武則天により塗山氏は玉京太后と追号された<ref>『旧唐書』礼儀志三</ref>。 | 695年(証聖元年)、武則天により塗山氏は玉京太后と追号された<ref>『旧唐書』礼儀志三</ref>。 | ||
+ | |||
+ | == 「楚辞」による伝承 == | ||
+ | 夫の禹が「轘轅山」の治水工事を行う際、難工事だったので「太鼓を叩くから、太鼓の音が聞こえたら食事を持ってくるように」と女嬌に求めた。 | ||
== 関連項目 == | == 関連項目 == |
2022年9月30日 (金) 13:17時点における版
塗山氏女(とざんしのむすめ)は、夏の禹の妃で、啓の母。名は女嬌[1]、女趫[2]、女憍[3]ともいう。
塗山氏の長女[4]として生まれた。塗山は寿春の東北にあった国という[5]。禹は辛の日に塗山氏をめとったが、4日後の甲の日には黄河の治水のために家を出てしまい、帰ってこなくなった。啓が生まれても、禹は子育てに協力しようとしなかった[6]。塗山氏はひとりで家の留守を預かり、啓を教育した[4]。
695年(証聖元年)、武則天により塗山氏は玉京太后と追号された[7]。
「楚辞」による伝承
夫の禹が「轘轅山」の治水工事を行う際、難工事だったので「太鼓を叩くから、太鼓の音が聞こえたら食事を持ってくるように」と女嬌に求めた。