「阪泉の戦い」の版間の差分
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− | 『史記』五帝本紀によれば、神農氏の世が衰えたとき、諸侯が互いに侵略しあって百姓を虐げた<ref>以下この段落の説明は『史記』「五帝本紀第一」による。吉田賢抗注『史記』一の29- | + | 『史記』五帝本紀によれば、神農氏の世が衰えたとき、諸侯が互いに侵略しあって百姓を虐げた<ref>以下この段落の説明は『史記』「五帝本紀第一」による。吉田賢抗注『史記』一の29-31頁。管理人が加筆したものは、「史記Ⅰ、司馬遷著、小竹文夫・小竹武夫訳、筑摩世界文學大系6、筑摩書房、1971、p5」による。</ref>。神農氏はこれを納めることができなかった。このとき軒轅は干戈を習い、帝に貢ぎ物を献上しない諸侯を征した。そこで[[蚩尤]]らを除く諸侯は神農氏に従うようになった。その後、[[炎帝]]が諸侯を侵略しようとしたので、諸侯は軒轅のもとに集まり、[[炎帝]]に対抗した。軒轅は徳を修め、兵を振るわし、五気を治め、五種を植え、万民を撫で、四方を度り、熊・羆・貔(伝説上の猛獣。貅・貙も同じ)・貅・貙・虎を調教した。それから起きたのが、阪泉の戦いである。軒轅と[[炎帝]]の両軍は阪泉の野で3回戦い、最終的に軒轅が勝利した。軒轅はこのあと蚩尤との[[涿鹿の戦い]]に勝って天子に推戴された。 |
'''黄帝を含めた五帝等の話は、もともと各地の様々な神話・伝説であったものを、戦国時代の人が時代順に並べる形式に整えて歴史にしたと考えられている'''<ref>堀敏一『古代の中国』29-33頁。加上説も参照。</ref>。学問的に実在したことが知られるのは殷(商)以降であるから、それよりはるか以前の阪泉の戦いは史実であるかは不明である。 | '''黄帝を含めた五帝等の話は、もともと各地の様々な神話・伝説であったものを、戦国時代の人が時代順に並べる形式に整えて歴史にしたと考えられている'''<ref>堀敏一『古代の中国』29-33頁。加上説も参照。</ref>。学問的に実在したことが知られるのは殷(商)以降であるから、それよりはるか以前の阪泉の戦いは史実であるかは不明である。 | ||
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**堀敏一『古代の中国』(「世界の歴史」第4巻)、講談社、1977年。 | **堀敏一『古代の中国』(「世界の歴史」第4巻)、講談社、1977年。 | ||
**吉田賢抗『史記』一(本紀)(新釈漢文大系)、明治書院、1973年。 | **吉田賢抗『史記』一(本紀)(新釈漢文大系)、明治書院、1973年。 | ||
+ | * 史記Ⅰ、司馬遷著、小竹文夫・小竹武夫訳、筑摩世界文學大系6、筑摩書房、1971 | ||
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2022年8月26日 (金) 16:34時点における版
阪泉の戦い(はんせんのたたかい)は、古代中国の伝説上の戦いで、軒轅(後の黄帝)が炎帝を破った会戦である。
『史記』五帝本紀によれば、神農氏の世が衰えたとき、諸侯が互いに侵略しあって百姓を虐げた[1]。神農氏はこれを納めることができなかった。このとき軒轅は干戈を習い、帝に貢ぎ物を献上しない諸侯を征した。そこで蚩尤らを除く諸侯は神農氏に従うようになった。その後、炎帝が諸侯を侵略しようとしたので、諸侯は軒轅のもとに集まり、炎帝に対抗した。軒轅は徳を修め、兵を振るわし、五気を治め、五種を植え、万民を撫で、四方を度り、熊・羆・貔(伝説上の猛獣。貅・貙も同じ)・貅・貙・虎を調教した。それから起きたのが、阪泉の戦いである。軒轅と炎帝の両軍は阪泉の野で3回戦い、最終的に軒轅が勝利した。軒轅はこのあと蚩尤との涿鹿の戦いに勝って天子に推戴された。
黄帝を含めた五帝等の話は、もともと各地の様々な神話・伝説であったものを、戦国時代の人が時代順に並べる形式に整えて歴史にしたと考えられている[2]。学問的に実在したことが知られるのは殷(商)以降であるから、それよりはるか以前の阪泉の戦いは史実であるかは不明である。
参考文献
- Wikipedia:阪泉の戦い(最終閲覧日:22-08-25)
- 堀敏一『古代の中国』(「世界の歴史」第4巻)、講談社、1977年。
- 吉田賢抗『史記』一(本紀)(新釈漢文大系)、明治書院、1973年。
- 史記Ⅰ、司馬遷著、小竹文夫・小竹武夫訳、筑摩世界文學大系6、筑摩書房、1971