「手研耳命」の版間の差分
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また同書によると、神武天皇の崩御後、手研耳命は異母弟の[[神八井耳命]]・皇太子神渟名川耳尊(のちの第2代綏靖天皇)を害そうとした([[手研耳の反逆]])が、これを知った神八井耳・神渟名川耳兄弟により、己卯年<ref group="注" name="己卯年"/>11月に、手研耳は片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か<ref>手研耳命(古代氏族), 2010年</ref>)の大窨(おおむろ)に臥せっていたところを襲われ、討たれたという。 | また同書によると、神武天皇の崩御後、手研耳命は異母弟の[[神八井耳命]]・皇太子神渟名川耳尊(のちの第2代綏靖天皇)を害そうとした([[手研耳の反逆]])が、これを知った神八井耳・神渟名川耳兄弟により、己卯年<ref group="注" name="己卯年"/>11月に、手研耳は片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か<ref>手研耳命(古代氏族), 2010年</ref>)の大窨(おおむろ)に臥せっていたところを襲われ、討たれたという。 | ||
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* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E7%A0%94%E8%80%B3%E5%91%BD 手研耳命](最終閲覧日:24-12-31) | * Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E7%A0%94%E8%80%B3%E5%91%BD 手研耳命](最終閲覧日:24-12-31) | ||
− | ** | + | ** 2010, 手研耳命, 日本古代氏族人名辞典 普及版, 吉川弘文館, isbn:978464201458 |
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2024年12月31日 (火) 17:10時点における版
手研耳命(たぎしみみ の みこと、『古事記』では多芸志美美命、? - 己卯年[注 1]11月)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
二人の弟に対する反逆(タギシミミの反逆)を起こしたとされることで知られる。
名称
「耳(みみ)」については、犬神を標識する合い言葉のようなものと管理人は考える。同じ言葉に「葦」がある。
系譜
『日本書紀』によれば、神武天皇(初代天皇)の第1皇子]]である。母は吾平津媛。同書によれば、異母弟に神八井耳命および神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇(第2代天皇))がいる。
- 妻:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ の みこと、伊須気余理比売命)
- 手研耳命の父である神武天皇の皇后。なお、この婚姻は『古事記』のみの所伝である。
記録
『日本書紀』によると、手研耳命は神武東征に従っていたという。
また同書によると、神武天皇の崩御後、手研耳命は異母弟の神八井耳命・皇太子神渟名川耳尊(のちの第2代綏靖天皇)を害そうとした(手研耳の反逆)が、これを知った神八井耳・神渟名川耳兄弟により、己卯年[注 1]11月に、手研耳は片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か[1])の大窨(おおむろ)に臥せっていたところを襲われ、討たれたという。
『古事記』でも同様の説話が記されるが、多芸志美美命が殺害を計画する対象は、日子八井命(神八井耳命の同母兄)を含めた3人となっている。また、3人が多芸志美美命の計画を知ったのは、3人の母親である伊須気余理比売命の歌によると記されている。
参考文献
- Wikipedia:手研耳命(最終閲覧日:24-12-31)
- 2010, 手研耳命, 日本古代氏族人名辞典 普及版, 吉川弘文館, isbn:978464201458
注釈
脚注
- ↑ 手研耳命(古代氏族), 2010年