「豊受大神」の版間の差分

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前半:<blockquote>昔、多門院の黒部に、姉をおまつ、妹をおしもという姉妹がいた。おまつ、おしもの二人は、いつも与保呂の奥山へ草刈りに出かけていた。そこには美しく澄み切った'''池'''があった。おまつはそこで美しい若者と出会い、恋におちて逢い引きを繰り返すようになった。<br>おまつに縁談が上がったが、娘はそれを嫌った。ある日、山でおまつは妹に「私は今日限り家に帰らぬから、あんた一人で帰っておくれ」と言い出し、どうしても帰ろうとしなかった。そして、あっという間もなく身を踊らせて、池の中へ飛び込んでしまった。同時に、空がにわかに曇って雨がざあっと降り出した。今まで静かだった池の水が波立ち、そこに池いっぱいになった大蛇の姿が忽然と現れ、おしもの方を見たあと、池底深く姿を消してしまった。<brおしもは、急いで家に帰り、一部始終を父親に告げた。父親は、どうしても娘の姿を見ずにおられない」と、与保呂奥の池畔まで駆けつけ娘の名を呼びながら泣くと、池の水が騒ぎ立っておしもが見た通りの大蛇が現れた。大蛇は父親をうらめしく見てそのまま池の中へ消えた<ref>[https://ameblo.jp/keith4862/entry-12608822733.html 丹後の原像【22. 「蛇切岩」伝説 (舞鶴市与保呂) ~前編】]、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-22)</ref>。</blockquote>
 
前半:<blockquote>昔、多門院の黒部に、姉をおまつ、妹をおしもという姉妹がいた。おまつ、おしもの二人は、いつも与保呂の奥山へ草刈りに出かけていた。そこには美しく澄み切った'''池'''があった。おまつはそこで美しい若者と出会い、恋におちて逢い引きを繰り返すようになった。<br>おまつに縁談が上がったが、娘はそれを嫌った。ある日、山でおまつは妹に「私は今日限り家に帰らぬから、あんた一人で帰っておくれ」と言い出し、どうしても帰ろうとしなかった。そして、あっという間もなく身を踊らせて、池の中へ飛び込んでしまった。同時に、空がにわかに曇って雨がざあっと降り出した。今まで静かだった池の水が波立ち、そこに池いっぱいになった大蛇の姿が忽然と現れ、おしもの方を見たあと、池底深く姿を消してしまった。<brおしもは、急いで家に帰り、一部始終を父親に告げた。父親は、どうしても娘の姿を見ずにおられない」と、与保呂奥の池畔まで駆けつけ娘の名を呼びながら泣くと、池の水が騒ぎ立っておしもが見た通りの大蛇が現れた。大蛇は父親をうらめしく見てそのまま池の中へ消えた<ref>[https://ameblo.jp/keith4862/entry-12608822733.html 丹後の原像【22. 「蛇切岩」伝説 (舞鶴市与保呂) ~前編】]、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-22)</ref>。</blockquote>
  
後半:<blockquote>それから池の主の大蛇がなんの恨みがあったか、付近に仇するとの噂が伝わってきた。与保呂村の人々はいろいろと相談の結果、'''大蛇は殺してしまうほかはない'''、ということになった。しかし、その手段がなくて困っていたところ、一人の村人が「自分が見事に退治してみせる」といい、'''モグサで大きな牛の形を造り、その中に火を点じておいて池の中へ投げ込んだ'''。大蛇は好餌とばかりこのモグサの大牛を一口に呑み下した。モグサの火は次第に牛の体一面に広がり、大蛇が苦しみ出すと、空がにわかにかき曇り、'''豪雨が沛然と降り出した'''。大蛇が苦しんでもがき回り、のたうち回るにつれて池の水は次第に増し、洪水となって流れ出した。<br>大水の中に、大蛇の死体が見つかった。それが下手の岩の所に突き当たり、大蛇の体は三つに切断された。これは、おまつの化身だ、おまつの祟りだ、ということで、三つに切れた大蛇の頭部は奥の村の日尾神社('''日尾池姫神社''')に、胴のところは行永の橋付近の田んぼの中にあるどう田の宮に、尻尾は大森神社に祭った。そして大蛇の当たって切れた岩を蛇切岩と言った。
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後半:<blockquote>それから池の主の大蛇がなんの恨みがあったか、付近に仇するとの噂が伝わってきた。与保呂村の人々はいろいろと相談の結果、'''大蛇は殺してしまうほかはない'''、ということになった。しかし、その手段がなくて困っていたところ、一人の村人が「自分が見事に退治してみせる」といい、'''モグサで大きな牛の形を造り、その中に火を点じておいて池の中へ投げ込んだ'''。大蛇は好餌とばかりこのモグサの大牛を一口に呑み下した。モグサの火は次第に牛の体一面に広がり、大蛇が苦しみ出すと、空がにわかにかき曇り、'''豪雨が沛然と降り出した'''。大蛇が苦しんでもがき回り、のたうち回るにつれて池の水は次第に増し、洪水となって流れ出した。<br>大水の中に、大蛇の死体が見つかった。それが下手の岩の所に突き当たり、大蛇の体は三つに切断された。これは、おまつの化身だ、祟りだ、ということで、三つに切れた大蛇の頭部は奥の村の日尾神社('''日尾池姫神社''')に、胴のところは行永の橋付近の田んぼの中にあるどう田の宮(堂田神社)に、尻尾は大森神社([[弥加宜神社|彌加宜神社]])に祭った。大蛇の当たって切れた岩を蛇切岩と言った。<br>以来幾百星霜、与保呂村の境内に限って松の木が一本もない。それから日尾神社向こう側の山(宮山)の一部だけには、松の木がどうしても生えない。蛇切岩の割れ目の所に必ず姫蛇がいる。それがちょうど、天気予報のように、天候によって色を変える。晴れの日にはきわだって色が白く、雨の日には茶褐色を帯びるという。</blockquote>
 
 
以来幾百星霜、今なお不審なのは、与保呂村の境内に限って松の木が一本もない。それから日尾神社向こう側の山(宮山)の一部だけには、松の木がどうしても生えない。それから今一つは、蛇切岩の割れ目の所に必ず姫蛇がいて、優しい姿を見せている。それがちょうど、天気予報のように、天候によって色を変える。晴れの日にはきわだって色が白く、雨の日には茶褐色を帯びるというのである。</blockquote>
 
  
 
=== 堂田神社・舞鶴市八反田南町 ===
 
=== 堂田神社・舞鶴市八反田南町 ===

2024年12月22日 (日) 10:01時点における版

トヨウケビメは、日本神話に登場する神である[1]

豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神として知られている[1]。『古事記』では豊宇気毘売神[1]と表記される。『日本書紀』には登場しない。別称、豊受気媛神[2]、登由宇気神[1]、豊岡姫[1]、等由気太神[1]、止与宇[3]可乃売神[1]、大物忌神、とよひるめ、等々。

京都の眞名井原に初めてまつられた。

籠神社の「真名井原縁起」には『豊受大神鎮マリ給フ 大神ハ宇宙ノ一氣発スル大元(たいげん)ノケ(※)ノ神ニシテ 時ニ月神ニ化シ或ハ海神トモ現ジテソノ働キ変幻ス』とあるとのこと[4]

神話での記述・古事記

『古事記』では伊邪那美命(いざなみ)から生まれた和久産巣日神(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている[1]神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である[1]。後に、他の食物神の大気都比売神(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(宇迦之御魂神)(うかのみたま)と習合し、同一視されるようになった[2]

伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる御饌の神、等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、外宮に祀るようになったとされている[1]。即ち、元々は丹波の神ということになる[2]

『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として次のような話が掲載されている[1]。丹波郡比治里の比治山頂にある真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住み万病に効く酒を造って夫婦を富ましめたが、十余年後に家を追い出され、漂泊した末に奈具村に至りそこに鎮まった[5]。この天女が豊宇賀能売命(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという[1]

尚、『摂津国風土記』逸文に、 止与宇可乃売神は、一時的に摂津国稲倉山(所在不明)に居たことがあったと記されている。丹後国比治里に住むより以前に摂津にいて摂津稲倉山から丹後へきたというのは誤解であり、原文には丹後に『還』ったとある。[1]。また、豊受大神の荒魂(あらみたま)を祀る宮を多賀宮(高宮)という(外宮境内社)。

信仰・祭祀

丹波、但馬の地名の起源として、豊受大神が丹波で稲作をはじめられた半月形の月の輪田、籾種をつけた清水戸(せいすいど)が京丹後市峰山町(比沼麻奈為神社がある)にあることから、その地が田庭と呼ばれ、田場、丹波へと変遷したという説がある。 付近の久次嶽中腹には大神の杜があり、天の真名井の跡とされる穂井の段(ほいのだん)がある。また、神社の縁起は、大饗石(おおみあえいし)と呼ばれる直方体のイワクラであると言われている。

福知山市大江町には元伊勢豊受大神社がある[1]。元伊勢内宮より南方の船岡山に鎮座する社で、藤原氏の流れである河田氏が神職を代々継承している。崇神天皇の御世、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)が天照大神の御杖代として各地を回るときに、最初の遷座地が丹後であった。その比定地はいくつか存する。

伊勢神宮外宮(三重県伊勢市)[1]奈具社(京都府京丹後市)[1]、籠神社(京都府宮津市)奥宮天真奈井神社[1]、比沼麻奈為神(京都府京丹後市)、十市御縣坐神社(奈良県橿原市)で主祭神とされているほか、神明神社の多くや[2]、多くの神社の境内社で天照大神とともに祀られている。また、穴守稲荷神社(東京都大田区)のようにトヨウケビメを祀っている稲荷神社もある[2]

中世に入り外宮の神職である度会家行が起こした伊勢神道(度会神道)では、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神であって、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は内宮よりも立場が上であるとしている。

比沼麻奈為神社

京都府京丹後市峰山町久次宮谷510にある神社。主祭神は豊受大神。他

  • 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
  • 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
  • 天太玉命(あめのふとだまのみこと)

を祀る。式内社 丹波郡の「比治真名井神社」と比定される。

主祭神の豊受大神は、現在の京丹後市峰山町五箇の磯砂山(いさなごさん)に天降り、神社由緒には『遠き神代の昔、此の真名井原の地にて、田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、また、蚕を飼って衣食の糧となる技を始められた』とあり、丹後地方にはじめて稲作の指導をした神とされる。『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として次のような話が掲載されている。丹波郡比治里の比治山頂にある真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人が和奈佐老夫(わなさおきな)、和奈佐老婦(わなさおみな)という老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住み万病に効く酒を造って夫婦を富ましめた。それでその里を土形の里(ひぢかたのさと)と呼ぶようになった。しかし、天女は十余年後に家を追い出され、荒鹽の村(あらしほのむら)に至った。よって、その村を比治里の荒鹽村という。また、天女は丹波の里の哭木の村(なききのむら、峰山町内記)に至り、槻木(つきのき)にもたれて哭いた。故にそこは、哭木村という。それから天女は竹野の郡(たかののこほり)の船木の里(ふなきのさと、弥栄町船木の里とされる)の奈具の村(なぐのむら)に至りそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売命(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという。日本農業発祥の地とも伝えられ、峰山町五箇の苗代地区に現在も残る「月の輪田」などがその遺跡と伝わる[6]。京丹後市に今も残る絹織物産業(丹後ちりめん)に関連する記述もあることから、当社が養蚕や絹織物発祥にも所縁ある社であることがうかがえる[7][8]

一般に、丹後地方における羽衣伝承の発端とされる「比治山の真名井」は、磯砂山の女池と考えられている。

荒鹽神社

京都府京丹後市大宮町周枳にある神社。『大宮町誌』に荒塩神社、周枳小字左坂、祭神は不詳とされているが、享和二年(一八○二)一○月勧請、「丹哥府志」に荒塩大明神として、風土記の天女八人の一なりとある。

阿良須神社・舞鶴市

舞鶴市小倉にある神社。現在の祭神は豊受大神。相殿に多岐都姫命、市杵島姫命、多紀理姫命。殿内秘座に木花咲夜姫命(二宮神)。神崇神天皇の御代、丹波道主命が青葉山の土蜘蛛、陸耳御笠を征伐のさい加護をうけた天神地祇を柳原の森にまつったのを起源としている、とのこと。

『丹後旧事記』に、阿良須神社。小倉村。祭神は大宮売大明神若宮売大明神。延喜式竝小社。当国周枳村より将軍旦波道主命うつし奉る。旦波道主命者崇神天皇仕景行天皇至三代良臣也。とあるとのこと[9]

東舞鶴の東部外れ、「青葉山」を源流とする「志楽川」中流域沿いに鎮座する社。社前は若狭への幹線道路。布留山神社が隣接して鎮座している。「志楽郷」五村の総氏神であり郷社。「一ノ宮」とも称されていたようだ。他に「大森社」という記述も見られる[10]

異伝1:

古老伝えて曰ふのに、「当社の祭神は伊奘諾尊の御孫稚彦霊神の御子豊宇気大神にましまして、崇神天皇の十年丹波道主王の勅を奉じて此の国を治め給ふに当り、霧が立ち篭めてあやめも分からずなり人生に害があらうと思召されたので、親しく天神地祇に祈誓せられた所、三更(23時~翌1時)に至って大神柳原に(字田中の地内と言ふ)現はれ給ふたから、御子八乎止女をして其の地に神籬を建て神霊を斎き奉り年穀豊穣蒼生安穏を祈らしめられたのに、翌日になって天始めて晴れ生民も豊になることが出来た故に、此地方を日下村と言ひ亦神座府の名称(加佐の語源といふ伝説がある)も此の地から出たのである」

異伝2:

古老神話伝説曰神代の昔、大己貴命少彦名命、 国造座の時、此春日部里柳の原は木根樹立険しき深山たりければ、谿間々の沼地より昼夜霧立罩めて、晴明の時なく名にし負ふ霧の海の凄まじさ言はかりなかりき、神話によれば地主神を覓めしと産霊二柱神、琴浦浜に遊幸座し時、冨士の高根より天降り座す木花開耶姫命、産霊二柱大神の御前に参り会給ひて、茲に年久敷住せ給ひて浅からさりける契を結びて、地主神咲耶姫は豊受大神三女神等を斎祀りて此地を領有した。

異伝3:

「舞鶴市内神社資料集」所収「阿良須神社記」より。
(大己貴命・少彦名命が地主神を 尋ねていると)魚井の原より神光海原を照し、白糸浜の十二月(しはすぐり)の神の森に着き、たちまち月が浦の御崎にあたかも月光とも物とも見ゆる物現り出でたり。これすなわち幽契によりて、魚井の大神(豊受大神)が降臨し賜えるなり。この時、天火明命出でて大神を田中の威光山に迎え、天道姫命をして、国家鎮護の大神として親しくこれを祭らしめ賜ひき。これより一天心よく晴れ渡り、命等勇んでこの国土を経営し、強暴の神を征服し、邪鬼の者等を払い、天香語山命に大神の神饌の為に、月代の神田を柳原に定め、水田陸田を開き、天道姫命に大神の五穀の稲穂を乞い求め、広く生民に施し、耕耘種芸の法を教え、衣食の仕方を授け、又摂生療病の方法を示し、功なるや、二神(大己貴命・少彦名命)高志の国に至り、天火明命を召して「汝、此の国を領知すべし」と詔り給ひき。崇神天皇即位十年秋、丹波将軍道主王 勅を奉じて、青葉山の土ぐも陸耳御笠を征伐するに当り、天神地祇を祭りて神意を伺われると、神霊たちまち王によいお告を下された。それを倭得王に命じ、たやすく賊首を征服し国土を平定し、鎮撫の結果を天皇に奏せられた。又、天火明命の孫 笠津彦笠津姫に、柳原の神並の森に神社を建てて、豊受大神、三女神、木花開夜姫命を祭らしめ給う。これが当社の起りである。

異伝4:

天武天皇白鳳十年辛巳、北国大地震の為青葉山崩壊し、大神鎮座の霊域を失った。同年秋九月三日夜、里長春部のむらじ青雲別が独り、その境内の探し求めの苦慮を五人の神は見られて、五つの重ねの唐衣。緋の御裳、おすべらかしにひかげのかずらをつけ、美しい天女五人の姿をして柳原へ天降られ、その娘水長姫に夢枕に立ち「朝日輝く柳ケ原は昔、大己貴命少彦名命の国造りの初めより深い縁の地故に、神霊永くここに止まるべし」と申された。里長は神の仰せに従い、柳原の大森を大宮処と定め、宮居を造営し五柱の神霊を奉祭し、春部の里の氏神・豊受皇阿良須神社と崇め奉った。即ち当社の基礎で万代不変の神地である。同十一年、大友皇子により天武との戦が始まる。この時越前のあすはの里に逃れられた高市皇子は、左中将清忠外従臣等と共に当国に下られ、同年七月七日夕暮柳原の宮に入り給ふて四方を眺められた時、美しい乙女に会われて不審に思われ、いましは誰ぞと問い給ふと、われは青雲別の子水長姫と答え申す。皇子は更に、大宮に祭れる神は何れの大神にましますかと問われると、国の鎮めとなる豊受大神と、三女神及び木花開夜昼命と謹しみ申し上げる。皇子は清流に身を清め、心を静められて神垣に入らせ給う。みずから琴を弾き、水長姫に御神楽を神前に奏せしめられ、長い祈念を続けられた。この祈誓の神に通じたのか、わた立つ威光の峯の綾雲は、大森の宮居へ流れて来て、その中に見えかくれしつつ、やがて五人の天女が秘曲に合わせて袖ひるがえし舞いを始めた。

異伝5:「加佐郡誌」では主祭神を豊受大神、相殿神を瓊瓊杵命、天児屋根命、天太玉命としている。

異伝6:「京都府地誌」(明治八年)には「小倉神社」として掲載され、往古は「小倉神社」と称していたと伝えている[11]


福地山市の阿良須神社についてはこちら→神阿多都比売

冨留山神社・舞鶴市

阿良須神社の隣にある神社。背後は「布留山」。祭神は須佐之男命、経津主命、武御雷命。

「小倉村 郡村誌」に

往昔 青葉山中ニ陸耳御笠(クガミミノミカサ)ナル者アリ 強悍暴戻壇ニ良民ヲ剽掠シ上命ニ従ハス 是ニ於テ日子坐王勅ヲ奉シ討伐セラル 是時ニ当テ軍勝ヲ賽セン為メ清浄ノ地ヲ撰ミ素戔嗚命 経津主命 建御雷命ヲ祀リ号シテ布留ト称ス

とあるとのこと。

当社にはかつて存在したという「大倉木神社」ではないかとする説があるようだ。
「丹後國風土記」殘缺(江戸末期)には加佐郡志楽郷の「春部村」の項に、「大倉木社」という社名が見える「大倉木社 祭神國造 (以下3行虫喰)」とのこと。
大倉岐命は「先代旧事本紀」国造本紀に、成務天皇の御宇に尾張連同祖の建稻種命四世孫 大倉岐命を丹波国造(当時はまだ丹後国は丹波国から分離独立していない)に定めたとある。また「尾張氏系図」には天火明命十一世孫 淡夜別命の子として記されている。
「志楽郷」について「丹後國風土記」殘缺に『以て志楽と號くる所は●●●(三字虫食い)彦名命大穴持命 巡り覧て天下を治る時に當りて 而して悉く行きて此國を巡り畢へ 更に高志國に到りし之時 天火明神を召して汝が知ろしめす此國は領める可くと命じることを詔す 火明神大いに歡喜びて永き母也靑雲乃志良久と曰く 故に志楽と云ふ也[12]

山口神社・舞鶴市堂奥

祭神は天道日女命、大山祇命。

当社は元は一村であった「堂奥村」「多聞院村」両村の氏神であったとされる。「多聞院村」には天蔵神社(祭神は天道日女命の子神・天香語山命)が鎮座する。
当地は天道日女命が老後に暮らしたとされる。「勘注系図」には「天道姫命 亦たの名 屋乎止女命(ヤヲトメノミコト)、亦たの名 高光日女たこひめ命(タコヒメノミコト)、亦たの名 祖母命也」とある。
「丹後國風土記」残闕の「高橋郷 本字高梯」に以下のようにある。『「高橋郷」と名付けられた所以は、天香語山命が「倉部山」山頂に神庫(ほくら)を造り種々の神宝を収蔵し、長梯を掛けていたので「高梯」と云う。峰(倉部山)の頂に天蔵と称する神祠があり天香語山命を祭る。またその山口●●国に祠があって祖母祠と称する。この国に天道日女命と称する者があって、歳老いて此の地に来居まして、麻を績ぎ蚕を養ひ、人民に衣を製する道を教えたので山口坐御衣知祖母(やまぐちにますみそしりそぼ)祠と云ふ也』[13]

日尾池姫神社・舞鶴市与保呂

祭神は、天日尾神、国日尾神、天月尾神、国月尾神。式内社・笶原神社の論社か。「丹哥府志」に「笶原神社は今池姫大明神と称す」と、あるとのこと。(舞鶴市紺屋にある笶原神社の祭神は天照大神、豊受大神、月夜見神である。)蛇頭松姫大神の祠がある。

「丹後国風土記」残闕には、

豊宇気大神の教えに依り伊去奈子嶽に天降った天村雲命が、豊宇気大神を祀ろうとしたが、泥水で神饌を炊くことができなかった。ここは豊宇気大神の坐します国であるから、清地を定めて大神を斎い奉らなければならないと言って母の天道姫命(天道日女命)が子の天香語山命に矢を授けた。そして矢を放ち留まったところが清き地である大神の神託があった。その矢は矢原山に到ったので、神籬を立てて豊宇気大神を遷し墾田を定めた(大意)[14][15]

とあるとのこと。

私的考察

天日尾神:天照大御神・天道姫命、(国日尾神:天火明神)、天月尾神:月夜見神・天香語山命、国月尾神:豊受大神として良いかと思う。天火明神は物部氏の饒速日尊と解している。国日尾神と天月尾神は同じ神として差し支えないのだが、敢えて太陽女神を月夜見神の上位(姉ではなく母親)としているところが海部氏のこだわりであろうか。豊受大神の夫神が天香語山命と想定されているのであれば、籠神社の奥宮である真名井神社の境内に天香語山命の石碑があるのも納得がいく。(確か昔見た記憶がある。)ということは、浦島太郎も暗に天香語山命である、という意図があるのだろうか。そして池とは地面にあるものなので、今池姫とは豊受大神のことなのだと考える。

蛇切岩神社・舞鶴市字与保呂

祭神は、蛇切岩。

「舞鶴市史」より引用

前半:

昔、多門院の黒部に、姉をおまつ、妹をおしもという姉妹がいた。おまつ、おしもの二人は、いつも与保呂の奥山へ草刈りに出かけていた。そこには美しく澄み切ったがあった。おまつはそこで美しい若者と出会い、恋におちて逢い引きを繰り返すようになった。
おまつに縁談が上がったが、娘はそれを嫌った。ある日、山でおまつは妹に「私は今日限り家に帰らぬから、あんた一人で帰っておくれ」と言い出し、どうしても帰ろうとしなかった。そして、あっという間もなく身を踊らせて、池の中へ飛び込んでしまった。同時に、空がにわかに曇って雨がざあっと降り出した。今まで静かだった池の水が波立ち、そこに池いっぱいになった大蛇の姿が忽然と現れ、おしもの方を見たあと、池底深く姿を消してしまった。<brおしもは、急いで家に帰り、一部始終を父親に告げた。父親は、どうしても娘の姿を見ずにおられない」と、与保呂奥の池畔まで駆けつけ娘の名を呼びながら泣くと、池の水が騒ぎ立っておしもが見た通りの大蛇が現れた。大蛇は父親をうらめしく見てそのまま池の中へ消えた[16]

後半:

それから池の主の大蛇がなんの恨みがあったか、付近に仇するとの噂が伝わってきた。与保呂村の人々はいろいろと相談の結果、大蛇は殺してしまうほかはない、ということになった。しかし、その手段がなくて困っていたところ、一人の村人が「自分が見事に退治してみせる」といい、モグサで大きな牛の形を造り、その中に火を点じておいて池の中へ投げ込んだ。大蛇は好餌とばかりこのモグサの大牛を一口に呑み下した。モグサの火は次第に牛の体一面に広がり、大蛇が苦しみ出すと、空がにわかにかき曇り、豪雨が沛然と降り出した。大蛇が苦しんでもがき回り、のたうち回るにつれて池の水は次第に増し、洪水となって流れ出した。
大水の中に、大蛇の死体が見つかった。それが下手の岩の所に突き当たり、大蛇の体は三つに切断された。これは、おまつの化身だ、祟りだ、ということで、三つに切れた大蛇の頭部は奥の村の日尾神社(日尾池姫神社)に、胴のところは行永の橋付近の田んぼの中にあるどう田の宮(堂田神社)に、尻尾は大森神社(彌加宜神社)に祭った。大蛇の当たって切れた岩を蛇切岩と言った。
以来幾百星霜、与保呂村の境内に限って松の木が一本もない。それから日尾神社向こう側の山(宮山)の一部だけには、松の木がどうしても生えない。蛇切岩の割れ目の所に必ず姫蛇がいる。それがちょうど、天気予報のように、天候によって色を変える。晴れの日にはきわだって色が白く、雨の日には茶褐色を帯びるという。

堂田神社・舞鶴市八反田南町

祭神は不明。「与保呂川」が大きく湾曲する地点にある[17]。南町の隣に「亀岩町」という町名が見える。かつては川の中に「亀岩」という岩があったと思われる。

磯砂山

京都府京丹後市峰山町と京丹後市大宮町にまたがる山。丹後半島の付け根に位置する[18]。標高は661mであり、大江山と太鼓山に次いで丹後地方で3番目に高い山とされる[19]。「京都の自然200選」に選定されている。かつては霊山として崇められており、女池(めいけ)より上は女人禁制だったとされる[18]

現在は磯砂山(いさなごさん[20])という名称が用いられることが多いが、クジラの古名である「いさな」の子に形状が似ているからだとする説がある[21]

別称として、比治山(ひじやま)[22]真名井岳/真名為岳(まないだけ)、足占山(あしうらやま)[22]比沼山[22]伊佐山[22]白雲山[22]鳶尾山[22]などがある。

「比治の天女」降臨の地とされ、比治山伝説(羽衣天女伝説)で知られる。三保松原(静岡県静岡市清水区)、伊香小江(滋賀県長浜市木之本町)と並んで、羽衣天女に関する「三大伝説の地」とされることもある[23][24]。現在、比治山伝説にまつわる地名が京丹後市峰山町や京丹後市大宮町に数多く残る。『丹後国風土記』逸文や『丹後旧事記』に記される真名井は、東麓の「女池」(めいけ)をさす[20]。真名井には八人の天女が舞い降りて身を清めていたという[25]

西麓の京丹後市峰山町鱒留小字大路と大成の間に乙女神社があり、この神社には天女の3人の子供の一人が祀られていて(丹後きゅう(くさかんむりにふるどりの下に臼)事記)[26]、お参りすると美女が授かると言われる。[27]

女池には、水旱の時、沼をかきまわすと雨が降るという伝承があり、江戸時代には神宮・僧侶がここで雨乞の祈祷を行ったという。今は小さな泥沼となっている[28]

乙女神社

祭神は豊宇賀能賣神。

比治山に八人の天女が舞い降り、水浴びをしていた。三右衛門(さんねも)という猟師が一人の天女の衣を家に持ち帰った。羽衣を返して欲しいと天女が懇願するも「家宝にする」と言って返さない。天女はとうとう諦め、さんねもの妻となり三人の娘をもうけた。
天女は美しいばかりでなく、蚕飼いや機織り、米作りや酒造りを教え、村は豊かになり人々は幸せに暮らした。ところが天女は天が恋しくてたまらず、ある日隠してあった羽衣を見つけ三人の娘を残して天に帰った。悲しむさんねもに「七日七日に会いましょう」と天女は言い残したが、様子を窺っていた天邪鬼が「七月七日に会いましょう」とさんねもに教えた。それでも嘆き悲しむさんねもに、天女は夕顔の種を渡した。種を蒔くと、つるは天にまで伸び、さんねもはつるを登った。そこは天上の世界、天女はせっかく来てもらったのだから、「天の川に橋をかけて下さい」とさんねもに請う。「ただしその間、私のことを思い出さないで下さい。そうでないと一緒に暮らすことはできません」と。さんねもは一生懸命に橋をつくり、もう少しで完成というとき嬉しさのあまり、天女の姿を頭に思い浮かべてしまった。すると天の川は氾濫し、さんねもは下界に押し流されてしまった

「磯砂山」の麓に乙女神社が鎮座。天女が産んだ三人娘の一人が祀られているとも、天女(豊宇賀能売命、=豊受大神)が祀られているとも。また麓には伝説の「比沼麻奈爲神社」の候補社の一、藤社神社も鎮座している。さらに「磯砂山」の麓の民家である安達家は、「さんねも」の子孫であるとされている[29]

乙女神社にはその天女が産んだ三人娘の一人が祀られていると社頭案内にはある。掲げらているご祭神は豊宇賀能賣命である。

これに対し「丹哥府志」は乙女大明神とし、天女八人の一人の豊宇賀能売命とする。また母と娘を祀るとも。他多くの古書は豊宇賀能賣命または保食神(豊受大神と同神)としている。さらに豊宇賀能売命の分霊を3ヵ所に祀ったというものも(残り2ヶ所は多久神社と奈具神社へ)。詳細は判然としていない[30]


管理人は、三右衛門(さんねも)というのは、三穂津彦命が民間伝承化した姿ではないか、と考える。駿河御穂神社の御穂津姫命は天女のように現され、乙女神社の豊宇賀能賣神と性質が一致する。「天女が産んだ娘が3人」というのは、「三穂」にかけているのではないだろうか。

多久神社(丹後)

京丹後市峰山町丹波にある神社。主祭神は豊宇賀能売命(豊受大神)。別名、「天酒(あまさか)大明神」。

伝承によれば豊宇賀能売命は『丹後国風土記』逸文にいう比治山の天女(羽衣天女)と比定され、天に帰りそびれてこの地(比治の真名井[31])に住み、稲作を行い、万病を癒す酒を作り出した[32]。このため、明治時代までは「天酒大明神」ともよばれた[33]

また、湧田山の山裾から酒が湧き出したとの伝説もあり[33]、「矢田や丹波郷の天酒さまの、お下とおるもありがたや」なる里歌が伝わる[34]

丹後(宮津市由良宮ノ上)には豊宇賀能賣命の終焉の地とされる奈具神社が存在する。奈具神社は竹野川の下流域に位置する。

関連項目

  • 保食神:丹後乙女神社では同一の神とみなされていたようである。月夜見尊に殺される女神である。
    • 真名井御前:仏教説話化した豊受大神と考える。
    • 若宇加能売命:大和広瀬大社の祭神。豊受大神と同一視される。大和川の女神的な神か。
    • 若宮賣神(わかみやめのかみ:丹後二宮・大宮売神社の祭神。神社では、豊受大神と同一視する。
    • 三穂津姫:豊受大神と同じく天女として現される場合がある。
  • 月の輪田
  • 大宜都比売

「ウケ」に関する神

参考文献

外部リンク

  • 登由宇気神 - 國學院大學 古事記学センターウェブサイト

参照

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 薗田稔、茂木栄 『日本の神々の事典 神道祭祀と八百万の神々』 学研、68,69頁。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 戸部民夫 『八百万の神々 日本の神霊たちのプロフィール』 新紀元社、91,109-111頁。
  3. この字は正確には「口偏に宇」と書く
  4. 丹後の原像【10. 「真名井原縁起」 (前編)】、かむながらの道 ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-22)
  5. 川口謙二『日本の神様読み解き事典』柏書房、1999年、174頁。
  6. 峰山郷土史 上, 臨川書店, 1963, p5
  7. 比沼麻奈為神社:常世ニ降ル花 和奈佐薄月篇 05、偲フ花(最終閲覧日:24-12-11)
  8. 日本最古の羽衣伝説|丹後に伝わる2つの羽衣伝説と天女が舞い降りた女池と男池(最終閲覧日:24-12-11)
  9. 周枳(すき)京丹後市大宮町周枳、丹後の地名・地理資料集(最終閲覧日:24-12-11)
  10. 阿良須神社 (舞鶴市小倉)(改定)、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-21)
  11. 阿良須神社 (舞鶴市小倉)(改定)、かむながらのみち、~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-21)
  12. 布留山神社 (冨留山神社)(改定)、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-22)
  13. 山口神社 (舞鶴市堂奥)(改定)、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-22)
  14. 日尾池姫神社、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-22)
  15. 笶原神社 (改訂)、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-22)
  16. 丹後の原像【22. 「蛇切岩」伝説 (舞鶴市与保呂) ~前編】、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-22)
  17. 堂田神社 (どうたの宮)、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-22)
  18. 18.0 18.1 松本寅太郎『磯砂山の昔ばなし』映人社、2004年、65頁
  19. 羽衣伝説の磯砂山整備 峰山町 頂上にレリーフやモニュメント, 朝日新聞, 1990-10-02
  20. 20.0 20.1 「角川日本地名大事典」編さん委員会, 角川日本地名大事典 26 京都府 上巻, 角川書店, 1982, p117
  21. 松本寅太郎『磯砂山の昔ばなし』映人社、2004年、72頁
  22. 22.0 22.1 22.2 22.3 22.4 22.5 ナカニシヤ出版 (2016)、32-33頁
  23. "羽衣コーナー"開設 峰山町立図書館 文献30冊を整理、抜粋, 京都新聞, 1990-11-22
  24. ものがたりと出会う 羽衣伝説 磯砂山, 京都新聞, 1998-09-13
  25. 丹後みねやま羽衣伝説, 京都府峰山町, 1998年, p1
  26. 松本寅太郎, 磯砂山の昔ばなし, 松本孝二, 2004.12, p80
  27. 木之下繁 他, 分県登山ガイド25京都府の山, 川崎深雪, 2017.4, p22
  28. 五箇(ごか)京丹後市峰山町五箇(最終閲覧日:24-12-08)
  29. 京丹後の二つの「羽衣伝説」 (改定)、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-08)
  30. 乙女神社 (改定)、かむながらのみち ~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-08)
  31. 「聖(ひじり)」の語源は「日知り(日を知る者)」という意味である、と言われるが「比治」の語源はどうなのだろうか?(管理人)
  32. https://www.city.kyotango.lg.jp/top/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/3/1/1/3405.html , デジタルミュージアムF10多久神社本殿 , 京丹後市 , 2020-09-21
  33. 33.0 33.1 丹後新風土記 , 丹後広域観光キャンペーン協議会 , 2008 , page239
  34. 峰山郷土史 上 , 峰山町 , 1963 , page460