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'''逢蒙'''(ほうもう、Féng Méng)は、中国神話に登場する人物。[[羿]](ゲイ)の弓射の弟子兼家僕。好色な野心家である。別名は蓬蒙、逢門、龐蒙、厖蒙、蠭蒙、蠭門、逢門子、蜂門。逢氏は『路史』夷羿傳によると[[[[炎帝神農|炎帝]]]]の末裔<ref>『路史』夷羿傳「逢蒙論衡作龐門。是子即逢門也。孟子作逢蒙或作蠭蒙、蠭門。炎帝之後」</ref>であるとされるが、『路史』国名紀では[[黄帝]]の末裔として説明される<ref group="私注">「黄帝」と「炎帝」の両方の子孫である、という伝承があるところに逢蒙の性質の2重性が表現されてるように思う。</ref>。
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'''逢蒙'''(ほうもう、Féng Méng)は、中国神話に登場する人物。[[羿]](ゲイ)の弓射の弟子兼家僕。好色な野心家である。別名は蓬蒙、逢門、龐蒙、厖蒙、蠭蒙、蠭門、逢門子、蜂門。逢氏は『路史』夷羿傳によると[[炎帝神農|炎帝]]の末裔<ref>『路史』夷羿傳「逢蒙論衡作龐門。是子即逢門也。孟子作逢蒙或作蠭蒙、蠭門。炎帝之後」</ref>であるとされるが、『路史』国名紀では[[黄帝]]の末裔として説明される<ref group="私注">「黄帝」と「炎帝」の両方の子孫である、という伝承があるところに逢蒙の性質の2重性が表現されてるように思う。</ref>。
  
弓の技を羿に学び、その弓の技を習得する。自らが天下一の弓の名手になろうと考え、羿を射殺しようとするが失敗。しかし後に[[モモ|桃]]の木の棒で撲殺することに成功し、羿を殺害してしまう<ref> [[袁珂]] 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、[[青土社]]、1993年 322-325頁</ref>。
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弓の技を羿に学び、その弓の技を習得する。自らが天下一の弓の名手になろうと考え、羿を射殺しようとする桃の木の棒で撲殺することに成功し、羿を殺害してしまう<ref> 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 322-325頁</ref>。
  
 
鴻超(こうちょう)という弟子がいたという。
 
鴻超(こうちょう)という弟子がいたという。
  
 
== 別の伝承 ==
 
== 別の伝承 ==
『芸窓私志』(『[[説郛|重較説郛]]』巻31に収録、『[[淵鑑類函]]』巻431・兔2にも載せる)に引かれている伝承では、羿がとても大きな[[ウサギ]]を捕まえるが、そのウサギは山の神の化身であり、夢の中でその神は羿に対して「なぜ我を辱めた、逢蒙の手をかりる」と告げたという。羿が逢蒙によって殺害されたのは次の日であったという<ref>[[南方熊楠]] 『十二支考 上』 [[岩波書店]] [[岩波文庫]] 1994年 100頁</ref>。また、羿に射ち落とされてしまった9の太陽([[三足烏|三足火烏]])が転生し、羿に対する報復として逢蒙の前に9人の仙女となって現われ、逢蒙を利用して羿を殺させたともいわれている。
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『芸窓私志』(『重較説郛』巻31に収録、『淵鑑類函』巻431・兔2にも載せる)に引かれている伝承では、羿がとても大きな'''ウサギ'''を捕まえるが、そのウサギは山の神の化身であり、夢の中でその神は羿に対して「なぜ我を辱めた、逢蒙の手をかりる」と告げたという。羿が逢蒙によって殺害されたのは次の日であったという<ref>南方熊楠 『十二支考 上』 岩波書店 岩波文庫 1994年 100頁</ref>。また、羿に射ち落とされてしまった9の太陽(三足火烏)が転生し、羿に対する報復として逢蒙の前に9人の仙女となって現われ、逢蒙を利用して羿を殺させたともいわれている。
  
 
『列子』湯問には「逢蒙は始め甘蠅に習う」との記述がある<ref> 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 440頁</ref>。{{読み仮名|'''甘蠅'''|かんよう}}は羿と同様に弓の名手として知られる古代中国の人物である。
 
『列子』湯問には「逢蒙は始め甘蠅に習う」との記述がある<ref> 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 440頁</ref>。{{読み仮名|'''甘蠅'''|かんよう}}は羿と同様に弓の名手として知られる古代中国の人物である。
  
 
古代の神々や人物を上上から下下までの九つに分類した『[[漢書]]』の[[古今人表]]では、后羿や玄妻、后夔などと同じページに'''逢門子'''という名で「下の中」に分類されている。少なくとも[[班固]]は逢蒙を[[夏 (三代)|夏]]の時代に実在した人物として認識していたことがわかる。
 
古代の神々や人物を上上から下下までの九つに分類した『[[漢書]]』の[[古今人表]]では、后羿や玄妻、后夔などと同じページに'''逢門子'''という名で「下の中」に分類されている。少なくとも[[班固]]は逢蒙を[[夏 (三代)|夏]]の時代に実在した人物として認識していたことがわかる。
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== 関連項目 ==
 
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2022年9月30日 (金) 23:01時点における最新版

逢蒙(ほうもう、Féng Méng)は、中国神話に登場する人物。羿(ゲイ)の弓射の弟子兼家僕。好色な野心家である。別名は蓬蒙、逢門、龐蒙、厖蒙、蠭蒙、蠭門、逢門子、蜂門。逢氏は『路史』夷羿傳によると炎帝の末裔[1]であるとされるが、『路史』国名紀では黄帝の末裔として説明される[私注 1]

弓の技を羿に学び、その弓の技を習得する。自らが天下一の弓の名手になろうと考え、羿を射殺しようとする桃の木の棒で撲殺することに成功し、羿を殺害してしまう[2]

鴻超(こうちょう)という弟子がいたという。

別の伝承[編集]

『芸窓私志』(『重較説郛』巻31に収録、『淵鑑類函』巻431・兔2にも載せる)に引かれている伝承では、羿がとても大きなウサギを捕まえるが、そのウサギは山の神の化身であり、夢の中でその神は羿に対して「なぜ我を辱めた、逢蒙の手をかりる」と告げたという。羿が逢蒙によって殺害されたのは次の日であったという[3]。また、羿に射ち落とされてしまった9の太陽(三足火烏)が転生し、羿に対する報復として逢蒙の前に9人の仙女となって現われ、逢蒙を利用して羿を殺させたともいわれている。

『列子』湯問には「逢蒙は始め甘蠅に習う」との記述がある[4]テンプレート:読み仮名は羿と同様に弓の名手として知られる古代中国の人物である。

古代の神々や人物を上上から下下までの九つに分類した『漢書』の古今人表では、后羿や玄妻、后夔などと同じページに逢門子という名で「下の中」に分類されている。少なくとも班固は逢蒙をの時代に実在した人物として認識していたことがわかる。

私的注釈[編集]

  1. 「黄帝」と「炎帝」の両方の子孫である、という伝承があるところに逢蒙の性質の2重性が表現されてるように思う。

関連項目[編集]

  • 羿
  • 祝融を焼き殺した「火の神」
  • 寒浞 - 別の伝説において羿を殺害したとされる人物。『路史』において関係性が指摘されている。

参照[編集]

  1. 『路史』夷羿傳「逢蒙論衡作龐門。是子即逢門也。孟子作逢蒙或作蠭蒙、蠭門。炎帝之後」
  2. 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 322-325頁
  3. 南方熊楠 『十二支考 上』 岩波書店 岩波文庫 1994年 100頁
  4. 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 440頁