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'''后稷'''(こうしょく)は、伝説上の周王朝の姫姓の祖先。中国の農業の神として信仰されている。姓は姫、諱は弃、号は稷。不窋の父。
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'''后稷'''(こうしょく)は、伝説上の周王朝の'''姫姓'''の祖先。中国の農業の神として信仰されている。姓は姫、諱は弃、号は稷。不窋の父。
また、彼はもともと奔('''捨てられし者''')という名であったが、農業を真似するものが多くなってきたため、帝舜が、農業を司る者という意味の后稷という名を与えたとされている。
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また、彼はもともと奔<ref>史記, 卷004</ref>('''捨てられし者''')という名であったが、農業を真似するものが多くなってきたため、帝舜が、農業を司る者という意味の后稷という名を与えたとされている。
 
彼の一族は引き続き夏王朝に仕えたが、徐々に夏が衰退してくると、おそらくは匈奴の祖先である騎馬民族から逃れ、暮らしていたという。
 
彼の一族は引き続き夏王朝に仕えたが、徐々に夏が衰退してくると、おそらくは匈奴の祖先である騎馬民族から逃れ、暮らしていたという。
  
『史記』周本紀によれば、帝嚳の元妃(正妃)であった姜嫄が、野に出て'''巨人'''の足跡を踏んで妊娠し、1年して子を産んだ。姜嫄はその赤子を道に捨てたが牛馬が踏もうとせず、林に捨てようとしたがたまたま山林に人出が多かったため捨てられず、氷の上に捨てたが飛鳥が赤子を暖めたので、不思議に思って子を育てる事にした。弃と名づけられた<ref>后稷は獣には良く懐かれていた。</ref>。弃は棄と同じ意味の字である。『山海経』大荒西経によると、帝夋(帝嚳の異名とみなす説が有力)の子とされる。
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『史記』周本紀によれば、帝嚳の元妃(正妃)であった'''[[姜嫄]]'''が、野に出て'''巨人'''の足跡を踏んで妊娠し<ref>犬の足跡ではなくて?</ref>、1年して子を産んだ。[[姜嫄]]はその赤子を道に捨てたが牛馬が踏もうとせず、林に捨てようとしたがたまたま山林に人出が多かったため捨てられず、氷の上に捨てたが飛鳥が赤子を暖めたので、不思議に思って子を育てる事にした。弃と名づけられた。弃は棄と同じ意味の字である。『山海経』大荒西経によると、帝夋(帝嚳の異名とみなす説が有力)の子とされる。
  
 
弃は成長すると、農耕を好み、麻や菽を植えて喜んだ。帝の舜に仕え、農師をつとめた。また后稷<ref>農事を司る官名で、これが諡号とされた。</ref>の官をつとめ、邰<ref>周の領地。現在の中国陝西省。</ref>に封ぜられて、后稷と号した。『山海経』には、中国南部にある食物神・后稷の'''墓の周り'''には、'''穀物が自然に生じている'''との記述がある。
 
弃は成長すると、農耕を好み、麻や菽を植えて喜んだ。帝の舜に仕え、農師をつとめた。また后稷<ref>農事を司る官名で、これが諡号とされた。</ref>の官をつとめ、邰<ref>周の領地。現在の中国陝西省。</ref>に封ぜられて、后稷と号した。『山海経』には、中国南部にある食物神・后稷の'''墓の周り'''には、'''穀物が自然に生じている'''との記述がある。
  
 
死後、子の不窋が後を嗣いだ。
 
死後、子の不窋が後を嗣いだ。
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后稷の父'''嚳'''(こく)は、上古中国神話上の帝王。帝夋、帝舜、夔と同一人物とされる<ref>『山海經海經新釋卷九 山海經第十四 大荒東經1』郭璞云:「言此國中惟有黍穀也。蔿音口偽反。」珂案:蔿國或當作嬀國。嬀、水名、舜之居地也。史記陳世家:「舜為庶人、堯妻之二女、居於嬀汭、後因為氏。」嬀國當即是舜之裔也。山海經帝俊即舜(説詳下「帝俊生中容」節注)、則此蔿國(嬀國)實當是帝俊之裔也。又山海經記帝俊之裔俱有「使四鳥」或「使四鳥:豹、虎(或虎、豹)、熊、羆」語、此蔿國(嬀國)亦「使四鳥」、則其為帝俊之裔更無疑問矣。</ref><ref>『藝文類聚 卷四十三 樂部三』山海經曰:帝俊八子、是始為歌、⟨帝俊、帝舜也。⟩ </ref><ref>『御定淵鑑類函 卷一百八十三 禮儀部三十』原山海經曰帝俊八子是始為歌【帝俊帝舜也】</ref><ref>聞一多『天問疏證』「帝即帝俊、一曰帝嚳、又曰帝舜、即東夷人之天帝也。」</ref><ref>郭沫若『虞舜大典(近現代文獻卷)』帝俊、帝舜、帝嚳、高祖夔、實是一人</ref><ref>「[https://dl.ndl.go.jp/pid/2993873/1/79 中国史 第1 (神々の誕生) (グリーンベルト・シリーズ)]」国立国会図書館デジタルコレクション</ref>。辛に封じられ、'''高辛氏'''と称したと言われている。五帝の一人で、顓頊(せんぎょく)の後を継いで、帝位に就いた。
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『三国史記』高句麗本紀第六や『三国史記』百済本紀<ref>百済本記とは異なる。</ref>第六によると、高句麗王たちは、中国[[黄帝]]の孫である高陽氏、中国[[黄帝]]の曾孫である高辛氏の子孫を称していた<ref>金光林, 2014, A Comparison of the Korean and Japanese Approaches to Foreign Family Names, Journal of cultural interaction in East Asia, 東アジア文化交渉学会, http://www.sciea.org/wp-content/uploads/2014/05/03_JIN.pdf, en, p30, https://web.archive.org/web/20160327222247/http://www.sciea.org/wp-content/uploads/2014/05/03_JIN.pdf, 2016-03-27</ref><ref name="国史編纂委員会1">, http://db.history.go.kr/item/level.do?setId=1&itemId=sg&synonym=off&chinessChar=on&position=0&levelId=sg_028_0020_0430, 三國史記 卷第二十八 百濟本紀 第六, 国史編纂委員会, https://web.archive.org/web/20170906135037/http://db.history.go.kr/item/level.do?setId=1&itemId=sg&synonym=off&chinessChar=on&position=0&levelId=sg_028_0020_0430, 2017-09-06</ref><ref name="国史編纂委員会2">http://db.history.go.kr/item/level.do?sort=levelId&dir=ASC&start=1&limit=20&page=1&setId=2&prevPage=0&prevLimit=&itemId=sg&types=&synonym=off&chinessChar=on&levelId=sg_018_0050_0170&position=1, 三國史記 卷第十八 髙句麗本紀 第六, 国史編纂委員会, https://web.archive.org/web/20170906134738/http://db.history.go.kr/item/level.do?sort=levelId&dir=ASC&start=1&limit=20&page=1&setId=2&prevPage=0&prevLimit=&itemId=sg&types=&synonym=off&chinessChar=on&levelId=sg_018_0050_0170&position=1, 2017-09-06</ref><ref name="韓国人文古典研究所1">http://terms.naver.com/entry.nhn?docId=1642804&cid=49625&categoryId=49800&mobile#TABLE_OF_CONTENT18|title=의자왕 義慈王, 韓国人文古典研究所, https://web.archive.org/web/20210829203730/https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1642804&mobile=&cid=49615&categoryId=49800, 2021-08-29</ref><ref name="韓国人文古典研究所2">https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1642754&mobile&cid=49615&categoryId=49799 , 광개토왕 廣開土王, 韓国人文古典研究所, https://web.archive.org/web/20210829205717/https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1642754&mobile=&cid=49615&categoryId=49799 , 2021-08-29</ref>。
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== 考証・東明聖王伝承との比較 ==
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『魏志』東夷伝・夫餘に「昔、北方に高離の国というものがあった。その王の侍婢が妊娠した。〔そのため〕王はその侍婢を殺そうとした。〔それに対して〕侍婢は、『卵のような〔大きさの〕霊気がわたしに降りて参りまして、そのために妊娠したのです』といった。そのご子を生んだ。王は、その子を溷(便所)の中に棄てたが、〔溷の下で飼っている〕豚が口でそれに息をふきかけた。〔そこで今度は〕馬小屋に移したところ、馬が息をふきかけ、死なないようにした。王は天の子ではないかと思った。そこでその母に命令して養わせた。東明と名づけた。いつも馬を牧畜させた。東明は弓矢がうまかった。王はその国を奪われるのではないかと恐れ、東明を殺そうとした。東明は南に逃げて施掩水までやってくると、弓で水面をたたいた。〔すると〕魚鼈が浮かんで橋をつくり、東明は渡ることができた<ref>因幡の白ウサギを彷彿とさせる(管理人)。</ref>。そこで魚鼈はばらばらになり、追手の兵は渡ることができなかった。東明はこうして夫餘の地に都を置き、王となった」とある<ref>田中俊明 (歴史学者), 2009-03-31, 『魏志』東夷伝訳註初稿(1), 国立歴史民俗博物館研究報告 151, 国立歴史民俗博物館, p361</ref>。一方、『史記』巻四・周本紀に「周の后稷、名は棄。其の母、有邰氏の女にして、[[姜嫄|姜原]]と曰う。[[姜嫄|姜原]]、帝嚳の元妃と為る。姜原、野に出で、巨人の跡を見、心に忻然として說び、之を踐まんと欲す。之を踐むや、身動き、孕める者の如し。居ること期にして子を生む。不祥なりと以為い、之を隘巷に棄つ。馬牛過る者皆な辟けて踐まず。徙して之を林中に置く。適會、山林人多し。之を遷して渠中の冰上に棄つ。飛鳥、其の翼を以て之を覆薦す。姜原以て神と為し、遂に收養して長ぜしむ。初め之を棄てんと欲す。因りて名づけて棄と曰う」という牛馬が避け、鳥が羽で覆って守った、という后稷の神話が記載してある。内藤湖南は、夫余と后稷の神話が酷似していることを指摘しているが、「此の類似を以て、夫餘其他の民族が、周人の旧説を襲取せりとは解すべからず。時代に前後ありとも、支那の古説が塞外民族の伝説と同一源に出でたりと解せんには如かず」といい、同様の神話が、三国時代の呉の康僧会が訳した『六度集経(六度集經)』にもあることを指摘し、「此種の伝説の播敷も頗る広き者なることを知るべし」とする<ref name="田中俊明380-381">田中俊明 (歴史学者), 2009-03-31, 『魏志』東夷伝訳註初稿(1), 国立歴史民俗博物館研究報告 151, 国立歴史民俗博物館, p380-381</ref>。
  
 
== 私的解説 ==
 
== 私的解説 ==
母親が、「巨人の足跡」に感応して妊娠した点は、后稷の父親が巨人(おそらく'''雷神'''であろう)であることを示す。
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母親が、「巨人の足跡」に感応して妊娠した点は、后稷の父親が'''巨人'''であることを示す。おそらく、ミャオ族神話の'''アペ・コペン'''に類する神と想像する。
  
母親が后稷を捨てる点は、おそらく'''天から稲妻が落ちる様'''を表しており、母親も「'''天の神'''」であることが示唆される。雷を発生させる女神として、太陽女神、月の女神、雷の女神そのものが可能性として挙げられると思う。'''雷が落ちて、それが種となって植物が生える'''、という一種の化生思想がかつて存在し、后稷は'''稲光が化生した穀物神'''なのであろう。雷は地面に落ちると消える(死ぬ)ので、'''死んだ后稷(稲光)が穀物に変化した'''という神話なのだと考える。
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母親が后稷を捨てる点は、おそらく母親が出産時に「死んでいた」ことの神話的表現と考える。后稷に火神としての性質があったので、「母親は焼け死んでしまった」との暗喩だ。ミャオ族神話のチャンヤンは后稷に似て、農作業を行い自ら種を管理する。
  
母親が雷神、ということは、后稷の起源は古代中国が母系の文化であった時代まで后稷神話の起源が遡る、と考える。それが社会が父系の文化へと変化すると、それに併せて、父親が雷神であることに変更され、[[足跡婚姻譚]]が成立したものと思われる。
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「作物の種を管理する」という役目が古くは太陽女神の仕事であったとするならば、后稷は何らかの理由でその役目を手に入れた、男性の「太陽神」といえる、と考える。火神の性質があるので、生まれた時に母親を焼き殺してしまったのである。同じく中国神話の[[祝融]]に近い神といえよう。
  
日本の神話には白い鳥(雷)が白い餅、サトイモへと化生した、というものがある。
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高句麗の人々は東明聖王と后稷の伝承が似ていることに気がついて、高辛氏の子孫、言い換えれば'''后稷'''の子孫を名乗ったものか。この伝承はさらに日本の賀茂系氏族にまで連なり、同族性を示唆する根拠となっているように感じる。
  
 
== 参考文献 ==
 
== 参考文献 ==
* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8E%E7%A8%B7 后稷](最終閲覧日:22-07-17)
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* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8E%E7%A8%B7 后稷](最終閲覧日:24-11-17)
 
* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AC%E5%9E%8B%E7%A5%9E%E8%A9%B1 ハイヌウェレ型神話](最終閲覧日:22-07-13)
 
* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AC%E5%9E%8B%E7%A5%9E%E8%A9%B1 ハイヌウェレ型神話](最終閲覧日:22-07-13)
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
* [[ハイヌウェレ型神話]]
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* [[祝融]]
* [[サトイモ]]
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** [[炎帝神農]]:農業の神である。
* [[足跡婚姻譚]]
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* [[姜嫄]]
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* [[朱蒙]]
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* [[盤瓠]]:高辛氏に使えていた犬とされる。
  
 
== 参照 ==
 
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[[Category:中国神話]]
 
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[[Category:農耕神]]
[[Category:食物神]]
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[[Category:獣の王]]
[[Category:化生神話]]
 

2024年11月18日 (月) 23:15時点における最新版

后稷(こうしょく)は、伝説上の周王朝の姫姓の祖先。中国の農業の神として信仰されている。姓は姫、諱は弃、号は稷。不窋の父。 また、彼はもともと奔[1](捨てられし者)という名であったが、農業を真似するものが多くなってきたため、帝舜が、農業を司る者という意味の后稷という名を与えたとされている。 彼の一族は引き続き夏王朝に仕えたが、徐々に夏が衰退してくると、おそらくは匈奴の祖先である騎馬民族から逃れ、暮らしていたという。

『史記』周本紀によれば、帝嚳の元妃(正妃)であった姜嫄が、野に出て巨人の足跡を踏んで妊娠し[2]、1年して子を産んだ。姜嫄はその赤子を道に捨てたが牛馬が踏もうとせず、林に捨てようとしたがたまたま山林に人出が多かったため捨てられず、氷の上に捨てたが飛鳥が赤子を暖めたので、不思議に思って子を育てる事にした。弃と名づけられた。弃は棄と同じ意味の字である。『山海経』大荒西経によると、帝夋(帝嚳の異名とみなす説が有力)の子とされる。

弃は成長すると、農耕を好み、麻や菽を植えて喜んだ。帝の舜に仕え、農師をつとめた。また后稷[3]の官をつとめ、邰[4]に封ぜられて、后稷と号した。『山海経』には、中国南部にある食物神・后稷の墓の周りには、穀物が自然に生じているとの記述がある。

死後、子の不窋が後を嗣いだ。

后稷の父(こく)は、上古中国神話上の帝王。帝夋、帝舜、夔と同一人物とされる[5][6][7][8][9][10]。辛に封じられ、高辛氏と称したと言われている。五帝の一人で、顓頊(せんぎょく)の後を継いで、帝位に就いた。

『三国史記』高句麗本紀第六や『三国史記』百済本紀[11]第六によると、高句麗王たちは、中国黄帝の孫である高陽氏、中国黄帝の曾孫である高辛氏の子孫を称していた[12][13][14][15][16]

考証・東明聖王伝承との比較[編集]

『魏志』東夷伝・夫餘に「昔、北方に高離の国というものがあった。その王の侍婢が妊娠した。〔そのため〕王はその侍婢を殺そうとした。〔それに対して〕侍婢は、『卵のような〔大きさの〕霊気がわたしに降りて参りまして、そのために妊娠したのです』といった。そのご子を生んだ。王は、その子を溷(便所)の中に棄てたが、〔溷の下で飼っている〕豚が口でそれに息をふきかけた。〔そこで今度は〕馬小屋に移したところ、馬が息をふきかけ、死なないようにした。王は天の子ではないかと思った。そこでその母に命令して養わせた。東明と名づけた。いつも馬を牧畜させた。東明は弓矢がうまかった。王はその国を奪われるのではないかと恐れ、東明を殺そうとした。東明は南に逃げて施掩水までやってくると、弓で水面をたたいた。〔すると〕魚鼈が浮かんで橋をつくり、東明は渡ることができた[17]。そこで魚鼈はばらばらになり、追手の兵は渡ることができなかった。東明はこうして夫餘の地に都を置き、王となった」とある[18]。一方、『史記』巻四・周本紀に「周の后稷、名は棄。其の母、有邰氏の女にして、姜原と曰う。姜原、帝嚳の元妃と為る。姜原、野に出で、巨人の跡を見、心に忻然として說び、之を踐まんと欲す。之を踐むや、身動き、孕める者の如し。居ること期にして子を生む。不祥なりと以為い、之を隘巷に棄つ。馬牛過る者皆な辟けて踐まず。徙して之を林中に置く。適會、山林人多し。之を遷して渠中の冰上に棄つ。飛鳥、其の翼を以て之を覆薦す。姜原以て神と為し、遂に收養して長ぜしむ。初め之を棄てんと欲す。因りて名づけて棄と曰う」という牛馬が避け、鳥が羽で覆って守った、という后稷の神話が記載してある。内藤湖南は、夫余と后稷の神話が酷似していることを指摘しているが、「此の類似を以て、夫餘其他の民族が、周人の旧説を襲取せりとは解すべからず。時代に前後ありとも、支那の古説が塞外民族の伝説と同一源に出でたりと解せんには如かず」といい、同様の神話が、三国時代の呉の康僧会が訳した『六度集経(六度集經)』にもあることを指摘し、「此種の伝説の播敷も頗る広き者なることを知るべし」とする[19]

私的解説[編集]

母親が、「巨人の足跡」に感応して妊娠した点は、后稷の父親が巨人であることを示す。おそらく、ミャオ族神話のアペ・コペンに類する神と想像する。

母親が后稷を捨てる点は、おそらく母親が出産時に「死んでいた」ことの神話的表現と考える。后稷に火神としての性質があったので、「母親は焼け死んでしまった」との暗喩だ。ミャオ族神話のチャンヤンは后稷に似て、農作業を行い自ら種を管理する。

「作物の種を管理する」という役目が古くは太陽女神の仕事であったとするならば、后稷は何らかの理由でその役目を手に入れた、男性の「太陽神」といえる、と考える。火神の性質があるので、生まれた時に母親を焼き殺してしまったのである。同じく中国神話の祝融に近い神といえよう。

高句麗の人々は東明聖王と后稷の伝承が似ていることに気がついて、高辛氏の子孫、言い換えれば后稷の子孫を名乗ったものか。この伝承はさらに日本の賀茂系氏族にまで連なり、同族性を示唆する根拠となっているように感じる。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

参照[編集]

  1. 史記, 卷004
  2. 犬の足跡ではなくて?
  3. 農事を司る官名で、これが諡号とされた。
  4. 周の領地。現在の中国陝西省。
  5. 『山海經海經新釋卷九 山海經第十四 大荒東經1』郭璞云:「言此國中惟有黍穀也。蔿音口偽反。」珂案:蔿國或當作嬀國。嬀、水名、舜之居地也。史記陳世家:「舜為庶人、堯妻之二女、居於嬀汭、後因為氏。」嬀國當即是舜之裔也。山海經帝俊即舜(説詳下「帝俊生中容」節注)、則此蔿國(嬀國)實當是帝俊之裔也。又山海經記帝俊之裔俱有「使四鳥」或「使四鳥:豹、虎(或虎、豹)、熊、羆」語、此蔿國(嬀國)亦「使四鳥」、則其為帝俊之裔更無疑問矣。
  6. 『藝文類聚 卷四十三 樂部三』山海經曰:帝俊八子、是始為歌、⟨帝俊、帝舜也。⟩
  7. 『御定淵鑑類函 卷一百八十三 禮儀部三十』原山海經曰帝俊八子是始為歌【帝俊帝舜也】
  8. 聞一多『天問疏證』「帝即帝俊、一曰帝嚳、又曰帝舜、即東夷人之天帝也。」
  9. 郭沫若『虞舜大典(近現代文獻卷)』帝俊、帝舜、帝嚳、高祖夔、實是一人
  10. 中国史 第1 (神々の誕生) (グリーンベルト・シリーズ)」国立国会図書館デジタルコレクション
  11. 百済本記とは異なる。
  12. 金光林, 2014, A Comparison of the Korean and Japanese Approaches to Foreign Family Names, Journal of cultural interaction in East Asia, 東アジア文化交渉学会, http://www.sciea.org/wp-content/uploads/2014/05/03_JIN.pdf, en, p30, https://web.archive.org/web/20160327222247/http://www.sciea.org/wp-content/uploads/2014/05/03_JIN.pdf, 2016-03-27
  13. , http://db.history.go.kr/item/level.do?setId=1&itemId=sg&synonym=off&chinessChar=on&position=0&levelId=sg_028_0020_0430, 三國史記 卷第二十八 百濟本紀 第六, 国史編纂委員会, https://web.archive.org/web/20170906135037/http://db.history.go.kr/item/level.do?setId=1&itemId=sg&synonym=off&chinessChar=on&position=0&levelId=sg_028_0020_0430, 2017-09-06
  14. http://db.history.go.kr/item/level.do?sort=levelId&dir=ASC&start=1&limit=20&page=1&setId=2&prevPage=0&prevLimit=&itemId=sg&types=&synonym=off&chinessChar=on&levelId=sg_018_0050_0170&position=1, 三國史記 卷第十八 髙句麗本紀 第六, 国史編纂委員会, https://web.archive.org/web/20170906134738/http://db.history.go.kr/item/level.do?sort=levelId&dir=ASC&start=1&limit=20&page=1&setId=2&prevPage=0&prevLimit=&itemId=sg&types=&synonym=off&chinessChar=on&levelId=sg_018_0050_0170&position=1, 2017-09-06
  15. http://terms.naver.com/entry.nhn?docId=1642804&cid=49625&categoryId=49800&mobile#TABLE_OF_CONTENT18%7Ctitle=의자왕 義慈王, 韓国人文古典研究所, https://web.archive.org/web/20210829203730/https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1642804&mobile=&cid=49615&categoryId=49800, 2021-08-29
  16. https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1642754&mobile&cid=49615&categoryId=49799 , 광개토왕 廣開土王, 韓国人文古典研究所, https://web.archive.org/web/20210829205717/https://terms.naver.com/entry.naver?docId=1642754&mobile=&cid=49615&categoryId=49799 , 2021-08-29
  17. 因幡の白ウサギを彷彿とさせる(管理人)。
  18. 田中俊明 (歴史学者), 2009-03-31, 『魏志』東夷伝訳註初稿(1), 国立歴史民俗博物館研究報告 151, 国立歴史民俗博物館, p361
  19. 田中俊明 (歴史学者), 2009-03-31, 『魏志』東夷伝訳註初稿(1), 国立歴史民俗博物館研究報告 151, 国立歴史民俗博物館, p380-381