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== 参考文献 ==
 
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* * Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%8D%81%E6%A2%9F%E5%B8%A5 八十梟帥](最終閲覧日:25-01-15)
 
**『日本書紀』
 
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**『古事記』
 
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2025年1月15日 (水) 17:24時点における最新版

八十梟帥(やそたける)は『日本書紀』にある人名。「数多くの勇者」という意味で用いられている可能性もある。『古事記』では八十建と表記し、後者の意味で用いている。

来歴[編集]

『日本書紀』によれば神武天皇が菟田(宇陀)の高倉山に登って、国内を見渡したとき、国見丘の上に八十梟帥がおり、女坂には女軍、男坂には男軍、墨坂にはおこし炭を置いていたとされる。この八十梟帥は後に天皇に敗れ、斬り殺されている。

弟猾は、「倭の国の磯城の邑に磯城の八十梟帥あり、又高尾張の邑に赤銅の八十梟帥あり」と奏上している。

また弟磯城は「吾が兄兄磯城、天つ神の子来ましつと聞きては、八十梟帥を聚め、兵甲を具へてあひ戦はむとす」と述べている。

また『日本書紀』では景行天皇12年12月5日条にも「熊襲の八十梟帥」が現れる。

参考文献[編集]

  • * Wikipedia:八十梟帥(最終閲覧日:25-01-15)
    • 『日本書紀』
    • 『古事記』

関連項目[編集]