「真名井御前」の版間の差分

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'''真名井御前'''(まないごぜん)とは、丹後一之宮・籠神社の宮司、海部氏の娘と言われる。他に、
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'''真名井御前'''(まないごぜん)とは、丹後一之宮・籠神社の宮司、海部氏の娘・厳子(いつこ)と言われる。他に、
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* 浦島太郎と同じ日下部氏
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* 浦島太郎の9世孫
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* 浦島太郎の娘
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という説がある。丹後国余佐郡香河村(現在の京都府与謝郡与謝野町香河)出身で、生まれた時から体から芳しい香りがしており、その香りが川を伝わって遠くまで香っていたことから、そのあたりを「香河(かご)」と呼ぶようになった。幼名は小萩(こはぎ)といい。信心深く、特に如意輪観音を信仰していたという。
  
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10歳の時に上京し、美人と評判で、彼女の発する芳香に魅かれ、一目見ようと多くの人々が押し寄せたが、小萩の顔を見た者は誰もいなかった。
  
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淳和天皇が、まだ皇太子・大伴親王であった頃、夢のお告げにより、聖徳太子が開基した紫雲山頂法寺(通称「六角堂」。京都府京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町)で、20歳の小萩と出会い、小萩を第四妃に迎えた。小萩は、真名井御前と呼ばれた。(籠神社や[[神呪寺]]では、「真井御前」と表記。『丹後旧事記』には「与佐の宇屋居子(うやいこ)」と呼ばれたとある。)「真名井」とは、丹後国で'''豊受大神'''(伊勢神宮(外宮)のご祭神)を祀っている神社の社号である。
  
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天長元年(824年)の有名な「興福寺(西寺とも)の守敏と東寺の空海の雨乞い対決」では、空海の名声を妬む守敏が、国中の龍神を瓶に閉じ込めたので、空海は雨を降らすことが出来ない状況だったが、天竺にいた善女龍王を呼び寄せて雨を降らせ、勝利した。
  
10歳の折に京都頂法寺六角堂に入り、如意輪観音に帰依する。20歳の時に淳和天皇に見そめられて第四妃となるも、6年後に出奔。甲山に草庵を結び、空海により出家、如意尼と称する。835年3月20日に遷化。翌日、高野山にて空海入定。空海との間には師と弟子との関係以上のものがあるのではないかと憶測される。
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別伝では、浦島太郎の9世孫の真名井御前が、先祖伝来の玉手箱を空海に渡し、空海が呪文を唱えながら蓋をあけると、紫色の雲が湧き出て雨が降り、空海が勝利した。これで玉手箱の効果は消えてしまったが、翌天長2年(825年)に浦島太郎が現れ、新たな玉手箱を娘の真名井御前に手渡したという。
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真名井御前は宮中から出奔した。甲山に草庵を結び、空海により出家、如意尼と称する。835年3月20日に遷化。翌日、高野山にて空海入定とのこと。
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== 私的解説 ==
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'''真名井御前'''とは、その名のとおり、[[豊受大神]]のことで、空海の守護女神から弟子へと伝承が変化したものではないかと考える。高野山の地主女神は丹生都姫なので、空海は女神に縁のあるっそんざいといえようか。空海のピンチを救った「玉手箱」は、本来'''真名井御前'''のものだったのではないだろうか。彼女は、龍蛇女神でもあったかもしれないと思う。
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'''真名井御前'''が「浦島太郎」の娘とされる場合には、さしづめ、浦島太郎は[[伊邪那岐命]]で、真名井御前([[豊受大神]])は[[天照大御神]]になぞらえているのではないか、と考える。[[豊受大神]]には'''厄払い'''や'''雨乞い'''の女神の機能があり、それが空海に勝利をもたらす。彼女が海部氏の娘とも言われるのは、海部氏は
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[[豊受大神]]と浦島太郎と子孫
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だという海部氏の主張でもあるのではないだろうか。海部氏の祖と浦島太郎が重ね合わせられているのだ。とすれば、[[豊受大神]]自身が乙姫といえる。
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浦嶋子(浦島太郎)(京都府与謝郡伊根町本庄浜)を祀る浦嶋神社では、その太祖が月読命とされている。[[豊受大神]]と浦島太郎は、[[保食神]]と[[月読命]]にもなぞらえられているのではないだろうか。ただし、丹後半島では、[[月読命]]が[[保食神]]を殺す、という残酷な伝承ではなく、[[豊受大神]](乙姫)と浦島太郎がそこそこ円満な夫婦であった、という伝承に書き換えられているのだろう。そして、[[豊受大神]]が乙姫であれば、彼女のトーテムは亀といえるのではないだろうか。
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== 参考文献 ==
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* [https://japanmystery.com/hyogo/kannouji.html 神呪寺]、日本伝承大鑑(最終閲覧日:24-12-09)
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* [https://note.com/sz2020/n/nf8e6a73c31ec 浦島太郎9世孫 or 娘の真名井御前、レコの館(やかた)] (最終閲覧日:24-12-09)
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== 関連項目 ==
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* [[豊受大神]]
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* [[日置氏]]:浦島太郎について
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* [[神呪寺]]
  
 
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[[Category:亀]]

2024年12月10日 (火) 01:30時点における最新版

真名井御前(まないごぜん)とは、丹後一之宮・籠神社の宮司、海部氏の娘・厳子(いつこ)と言われる。他に、

  • 浦島太郎と同じ日下部氏
  • 浦島太郎の9世孫
  • 浦島太郎の娘

という説がある。丹後国余佐郡香河村(現在の京都府与謝郡与謝野町香河)出身で、生まれた時から体から芳しい香りがしており、その香りが川を伝わって遠くまで香っていたことから、そのあたりを「香河(かご)」と呼ぶようになった。幼名は小萩(こはぎ)といい。信心深く、特に如意輪観音を信仰していたという。

10歳の時に上京し、美人と評判で、彼女の発する芳香に魅かれ、一目見ようと多くの人々が押し寄せたが、小萩の顔を見た者は誰もいなかった。

淳和天皇が、まだ皇太子・大伴親王であった頃、夢のお告げにより、聖徳太子が開基した紫雲山頂法寺(通称「六角堂」。京都府京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町)で、20歳の小萩と出会い、小萩を第四妃に迎えた。小萩は、真名井御前と呼ばれた。(籠神社や神呪寺では、「真井御前」と表記。『丹後旧事記』には「与佐の宇屋居子(うやいこ)」と呼ばれたとある。)「真名井」とは、丹後国で豊受大神(伊勢神宮(外宮)のご祭神)を祀っている神社の社号である。

天長元年(824年)の有名な「興福寺(西寺とも)の守敏と東寺の空海の雨乞い対決」では、空海の名声を妬む守敏が、国中の龍神を瓶に閉じ込めたので、空海は雨を降らすことが出来ない状況だったが、天竺にいた善女龍王を呼び寄せて雨を降らせ、勝利した。

別伝では、浦島太郎の9世孫の真名井御前が、先祖伝来の玉手箱を空海に渡し、空海が呪文を唱えながら蓋をあけると、紫色の雲が湧き出て雨が降り、空海が勝利した。これで玉手箱の効果は消えてしまったが、翌天長2年(825年)に浦島太郎が現れ、新たな玉手箱を娘の真名井御前に手渡したという。

真名井御前は宮中から出奔した。甲山に草庵を結び、空海により出家、如意尼と称する。835年3月20日に遷化。翌日、高野山にて空海入定とのこと。

私的解説[編集]

真名井御前とは、その名のとおり、豊受大神のことで、空海の守護女神から弟子へと伝承が変化したものではないかと考える。高野山の地主女神は丹生都姫なので、空海は女神に縁のあるっそんざいといえようか。空海のピンチを救った「玉手箱」は、本来真名井御前のものだったのではないだろうか。彼女は、龍蛇女神でもあったかもしれないと思う。

真名井御前が「浦島太郎」の娘とされる場合には、さしづめ、浦島太郎は伊邪那岐命で、真名井御前(豊受大神)は天照大御神になぞらえているのではないか、と考える。豊受大神には厄払い雨乞いの女神の機能があり、それが空海に勝利をもたらす。彼女が海部氏の娘とも言われるのは、海部氏は

豊受大神と浦島太郎と子孫

だという海部氏の主張でもあるのではないだろうか。海部氏の祖と浦島太郎が重ね合わせられているのだ。とすれば、豊受大神自身が乙姫といえる。

浦嶋子(浦島太郎)(京都府与謝郡伊根町本庄浜)を祀る浦嶋神社では、その太祖が月読命とされている。豊受大神と浦島太郎は、保食神月読命にもなぞらえられているのではないだろうか。ただし、丹後半島では、月読命保食神を殺す、という残酷な伝承ではなく、豊受大神(乙姫)と浦島太郎がそこそこ円満な夫婦であった、という伝承に書き換えられているのだろう。そして、豊受大神が乙姫であれば、彼女のトーテムは亀といえるのではないだろうか。

参考文献[編集]

関連項目[編集]