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=== 『日本書紀』巻第二 神代下 第九段本文 ===
 
=== 『日本書紀』巻第二 神代下 第九段本文 ===
【原文】<blockquote>一云「二神、遂誅邪神及草木石類、皆已平了。其所不服者、唯星神香香背男耳。
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【原文】<blockquote>一云「二神、遂誅邪神及草木石類、皆已平了。其所不服者、唯星神香香背男耳。故加遣倭文神建葉槌命者則服。故二神登天也。倭文神、此云斯圖梨俄未。」</blockquote>
  
故加遣倭文神建葉槌命者則服。故二神登天也。倭文神、此云斯圖梨俄未。」</blockquote>【書き下し文】{{Quotation|<ruby><rb>一</rb><rt>ある</rt></ruby>に<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>わく。「<ruby><rb>二神</rb><rt>ふたはしらのかみ</rt></ruby>、<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に<ruby><rb>邪神</rb><rt>あしきかみ</rt></ruby>及び<ruby><rb>草木石</rb><rt>くさきのいわ</rt></ruby>の類を<ruby><rb>誅</rb><rt>つみな</rt></ruby>いて、皆<ruby><rb>已</rb><rt>すで</rt></ruby>に<ruby><rb>平</rb><rt>む</rt></ruby>げ<ruby><rb>了</rb><rt>おわ</rt></ruby>る。<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>の<ruby><rb>服</rb><rt>うべな</rt></ruby>わぬ者は、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby><ruby><rb>星神</rb><rt>ほしの</rt></ruby><ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby><ruby><rb>香</rb><rt>が</rt></ruby><ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby><ruby><rb>男</rb><rt>お</rt></ruby>のみ。
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【書き下し文】<blockquote><ruby><rb>一</rb><rt>ある</rt></ruby>に<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>わく。「<ruby><rb>二神</rb><rt>ふたはしらのかみ</rt></ruby>、<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に<ruby><rb>邪神</rb><rt>あしきかみ</rt></ruby>及び<ruby><rb>草木石</rb><rt>くさきのいわ</rt></ruby>の類を<ruby><rb>誅</rb><rt>つみな</rt></ruby>いて、皆<ruby><rb>已</rb><rt>すで</rt></ruby>に<ruby><rb>平</rb><rt>む</rt></ruby>げ<ruby><rb>了</rb><rt>おわ</rt></ruby>る。<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>の<ruby><rb>服</rb><rt>うべな</rt></ruby>わぬ者は、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby><ruby><rb>星神</rb><rt>ほしの</rt></ruby><ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby><ruby><rb>香</rb><rt>が</rt></ruby><ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby><ruby><rb>男</rb><rt>お</rt></ruby>のみ。<br><br><ruby><rb>故</rb><rt>かれ</rt></ruby>また<ruby><rb>倭文神</rb><rt>しとりがみ</rt></ruby><ruby><rb>建葉槌命</rb><rt>たけはづちのみこと</rt></ruby>を<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わせば、<ruby><rb>則</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち<ruby><rb>服</rb><rt>うべな</rt></ruby>いぬ。故、二神<ruby><rb>天</rb><rt>あま</rt></ruby>に登る。倭文神、此を<ruby><rb>斯</rb><rt>し</rt></ruby><ruby><rb>圖</rb><rt>と</rt></ruby><ruby><rb>梨</rb><rt>り</rt></ruby><ruby><rb>俄</rb><rt>が</rt></ruby><ruby><rb>未</rb><rt>み</rt></ruby>と云う。」</blockquote>
  
<ruby><rb>故</rb><rt>かれ</rt></ruby>また<ruby><rb>倭文神</rb><rt>しとりがみ</rt></ruby><ruby><rb>建葉槌命</rb><rt>たけはづちのみこと</rt></ruby>を<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わせば、<ruby><rb>則</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち<ruby><rb>服</rb><rt>うべな</rt></ruby>いぬ。故、二神<ruby><rb>天</rb><rt>あま</rt></ruby>に登る。倭文神、此を<ruby><rb>斯</rb><rt>し</rt></ruby><ruby><rb>圖</rb><rt>と</rt></ruby><ruby><rb>梨</rb><rt>り</rt></ruby><ruby><rb>俄</rb><rt>が</rt></ruby><ruby><rb>未</rb><rt>み</rt></ruby>と云う。」}}【現代語訳】{{Quotation|一説によれば「二神(タケミカヅチとフツヌシ)は、ついに邪神や草木・石の類を誅伐し、皆すでに平定した。唯一従わぬ者は、星の神・カガセオのみとなった。
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【現代語訳】<blockquote>一説によれば「二神(タケミカヅチとフツヌシ)は、ついに邪神や草木・石の類を誅伐し、皆すでに平定した。唯一従わぬ者は、星の神・カガセオのみとなった。<br>そこで倭文神・タケハヅチを派遣し、服従させた。そして、二神は天に登っていかれた。倭文神、これをシトリガミと読む。」</blockquote>
そこで倭文神・タケハヅチを派遣し、服従させた。そして、二神は天に登っていかれた。倭文神、これをシトリガミと読む。」}}
 
  
本文(上述)では、[[経津主神]](ふつぬしのかみ)・[[武甕槌命]](たけみかづちのみこと)は不順(まつろ)わぬ[[鬼神]]等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかった{{Sfn|東実|2000|pp=56-57|loc=§葦原中国}}。そこで倭文神(しとりがみ)・[[建葉槌命]](たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている{{Sfn|坂本・家永・井上・大野|1994|p=120}}{{Sfn|植松|1920|ps=(コマ117-118)|pp=87-88}}
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本文(上述)では、経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかった<ref>東実, 2000, p56-57</ref>。そこで倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている<ref>坂本・家永・井上・大野, 1994, p120</ref><ref>植松, 1920, p(コマ117-118), p87-88</ref>
  
 
=== 『日本書紀』巻第二 神代下 第九段一書(二) ===
 
=== 『日本書紀』巻第二 神代下 第九段一書(二) ===
【原文】{{Quotation|一書曰、天神、遣經津主神・武甕槌神、使平定葦原中國。
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【原文】<blockquote>一書曰、天神、遣經津主神・武甕槌神、使平定葦原中國。時二神曰「天有惡神、名曰天津甕星、亦名天香香背男。請先誅此神、然後下撥葦原中國。」</blockquote>
時二神曰「天有惡神、名曰天津甕星、亦名天香香背男。請先誅此神、然後下撥葦原中國。」}}【書き下し文】{{Quotation|<ruby><rb>一書</rb><rt>あるしょ</rt></ruby>に<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>く、<ruby><rb>天神</rb><rt>あまつかみ</rt></ruby>、<ruby><rb>経津主神</rb><rt>ふつぬしのかみ</rt></ruby>・<ruby><rb>武甕槌神</rb><rt>たけみかづちのかみ</rt></ruby>を<ruby><rb>遣</rb><rt>つかわ</rt></ruby>して<ruby><rb>葦原中国</rb><rt>あしはらのなかつくに</rt></ruby>を<ruby><rb>平</rb><rt>たい</rt></ruby>らげ定めせしむ。
 
時に<ruby><rb>二神</rb><rt>ふたはしらのかみ</rt></ruby>曰く、「天に悪しき神有り。名を<ruby><rb>天津甕星</rb><rt>あまつみかぼし</rt></ruby>、<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>の名を<ruby><rb>天香香背男</rb><rt>あめのかがせお</rt></ruby>と曰う。<ruby><rb>請</rb><rt>こ</rt></ruby>う、先ず<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の神を誅し、<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>る後に下りて葦原中国を<ruby><rb>撥</rb><rt>はら</rt></ruby>わん」。}}【現代語訳】{{Quotation|ある書によれば、天津神はフツヌシとタケミカヅチを派遣し、葦原中国を平定させようとした。
 
その時、二神は「天に悪い神がいます。名をアマツミカボシ、またの名をアメノカガセオといいます。どうか、まずこの神を誅伐し、その後に降って葦原中国を治めさせていただきたい。」と言った。}}
 
  
第二の一書では[[天津神]]となっている{{Sfn|経済雑誌社|1917|ps=(コマ38)|pp=58-59}}。経津主神と武甕槌命が、まず[[高天原]]にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている<ref>{{cite book|和書|author-link=宇治谷孟|last=宇治谷|first=孟|title=日本書紀|volume=上|publisher=講談社|year=1988|isbn10=0802150586|isbn=9780802150585|pages=56-8, 64-6}}</ref>{{Sfn|坂本・家永・井上・大野|1994|p=136}}{{Sfn|東実|2000|pp=60-61|loc=§常陸は天といわれていた}}。
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【書き下し文】<blockquote><ruby><rb>一書</rb><rt>あるしょ</rt></ruby>に<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>く、<ruby><rb>天神</rb><rt>あまつかみ</rt></ruby>、<ruby><rb>経津主神</rb><rt>ふつぬしのかみ</rt></ruby>・<ruby><rb>武甕槌神</rb><rt>たけみかづちのかみ</rt></ruby>を<ruby><rb>遣</rb><rt>つかわ</rt></ruby>して<ruby><rb>葦原中国</rb><rt>あしはらのなかつくに</rt></ruby>を<ruby><rb>平</rb><rt>たい</rt></ruby>らげ定めせしむ。<br>時に<ruby><rb>二神</rb><rt>ふたはしらのかみ</rt></ruby>曰く、「天に悪しき神有り。名を<ruby><rb>天津甕星</rb><rt>あまつみかぼし</rt></ruby>、<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>の名を<ruby><rb>天香香背男</rb><rt>あめのかがせお</rt></ruby>と曰う。<ruby><rb>請</rb><rt>こ</rt></ruby>う、先ず<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の神を誅し、<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>る後に下りて葦原中国を<ruby><rb>撥</rb><rt>はら</rt></ruby>わん」。</blockquote>
  
鹿島神宮や静神社の社伝によれば、武甕槌命は香島(723年に鹿島と改名)の見目浦(みるめのうら)に降り(現在の[[鹿島神宮]]の位置){{Sfn|東実|2000|pp=63-64|loc=§鹿島に降った武甕槌神}}{{Sfn|東実|2000|pp=65-66|loc=§神軍の陣形}}、磐座に坐した(鹿島神郡の[[要石]]とも){{Sfn|東実|2000|pp=68-69|loc=§はじめて祀られた場所}}。天香香背男は常陸の大甕(現在の[[日立市]]大甕、鹿島神宮より北方70&nbsp;km)を根拠地にしており、派遣された建葉槌命は静の地(大甕から西方約20&nbsp;km)に陣を構えて対峙した{{Sfn|東実|2000|pp=60-61|loc=§常陸は天といわれていた}}。建葉槌命の陣は、茨城県[[那珂市|那珂郡]]瓜連(うりづら)町の[[静神社]]{{Sfn|平凡社|1939|ps=(コマ92)|p=152|loc=§シズジンシャ}}と伝えられる{{Sfn|東実|2000|pp=60-61|loc=§常陸は天といわれていた}}{{Sfn|東実|2000|pp=65-66|loc=§神軍の陣形}}。
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【現代語訳】<blockquote>ある書によれば、天津神はフツヌシとタケミカヅチを派遣し、葦原中国を平定させようとした。<br>その時、二神は「天に悪い神がいます。名をアマツミカボシ、またの名をアメノカガセオといいます。どうか、まずこの神を誅伐し、その後に降って葦原中国を治めさせていただきたい。」と言った。</blockquote>
  
「カガ(香々)」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる{{Sfn|坂本・家永・井上・大野|1994|p=121|ps=(註六)}}。神威の大きな星を示すという{{Sfn|坂本・家永・井上・大野|1994|p=137|ps=(註五)}}。[[平田篤胤]]は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は[[金星]]のことであるとしている。
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第二の一書では天津神となっている<ref>経済雑誌社, 1917, コマ38, p58-59</ref>。経津主神と武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている<ref>宇治谷孟, 日本書紀, 上, 講談社, 1988, isbn10:0802150586, isbn:9780802150585, p56-8, 64-6</ref><ref>坂本・家永・井上・大野, 1994, p136</ref><ref>東実, 2000, p60-61, 常陸は天といわれていた</ref>。
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鹿島神宮や静神社の社伝によれば、武甕槌命は香島(723年に鹿島と改名)の見目浦(みるめのうら)に降り(現在の鹿島神宮の位置)<ref>東実, 2000, p63-66</ref>、磐座に坐した(鹿島神郡の要石とも)<ref>東実, 2000, p68-69</ref>。天香香背男は常陸の'''大甕'''(現在の日立市大甕、鹿島神宮より北方70&nbsp;km)を根拠地にしており、派遣された建葉槌命は静の地(大甕から西方約20&nbsp;km)に陣を構えて対峙した<ref>東実, 2000, p60-61</ref>。建葉槌命の陣は、茨城県那珂郡'''瓜連'''(うりづら)町の静神社<ref>平凡社, 1939, コマ92, p152</ref>と伝えられる<ref>東実, 2000, p60-61</ref><ref>東実, 2000, p65-666</ref>。
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「カガ(香々)」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる<ref>坂本・家永・井上・大野, 1994, p121,(註六)</ref>。神威の大きな星を示すという<ref>坂本・家永・井上・大野, 1994, p137</ref>。平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。
  
 
星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。
 
星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。
 
しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。
 
しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。
  
全国の[[星神社]]や[[星宮神社]]の多くは[[天之御中主神]]、[[磐裂神]]、[[根裂神]]、[[経津主神]]を祀っているが、愛知県名古屋市の[[星神社 (名古屋市)]]や[[星宮社]]など一部は天津甕星を祭神としている。
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全国の星神社や星宮神社の多くは天之御中主神、磐裂神、根裂神、経津主神を祀っているが、愛知県名古屋市の星神社 (名古屋市)や星宮社など一部は天津甕星を祭神としている。
  
[[茨城県]][[日立市]]の[[大甕神社]]は、建葉槌命を主祀神とする<ref>{{cite book|和書|author=谷川健一|title=日本の神々|publisher=岩波書店|date=1999-06|series=岩波新書 新赤版 第618巻|isbn=4-00-430618-3|id={{全国書誌番号|99111135}} }}</ref>(一説には[[スサノオ|素戔嗚尊]]とも)<ref>{{Cite book|和書|editor=桜井純一|date=1902-09|title=日本鉄道線路案内記|chapter=大甕停車場|publisher=皇国敬神会|url={{NDLDC|762800/468}} |doi=10.11501/762800 }}</ref>。
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茨城県日立市の大甕神社は、建葉槌命を主祀神とする<ref>谷川健一, 日本の神々, 岩波書店, 1999-06, 岩波新書 新赤版 第618巻, isbn:4-00-430618-3, 全国書誌番号:99111135</ref>(一説には[[須佐之男命|素戔嗚尊]]とも)<ref>桜井純一, 1902-09, 日本鉄道線路案内記, 大甕停車場, 皇国敬神会, NDLDC:762800/468, doi:10.11501/762800</ref>。
同神社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。
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同神社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。大甕神社の神域を成している'''宿魂石は、甕星香々背男が化したもの'''と伝えられている。
  
 
葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで[[建御名方神]]と同一神とされることもあり、また、[[神仏習合]]の発想では[[北極星]]を神格化した[[妙見菩薩]]の化身とされることもある。
 
葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで[[建御名方神]]と同一神とされることもあり、また、[[神仏習合]]の発想では[[北極星]]を神格化した[[妙見菩薩]]の化身とされることもある。
 
== 脚注 ==
 
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== 参考文献 ==
 
== 参考文献 ==

2024年12月27日 (金) 06:19時点における最新版

天津甕星(あまつみかぼし)は、日本神話に登場する星の神である[1][2]。別名は天香香背男(あめのかがせお)[3][4]香香背男(かがせお)。

概要[編集]

『古事記』には登場しない[5]。『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する[6][7]

『日本書紀』巻第二 神代下 第九段本文[編集]

【原文】

一云「二神、遂誅邪神及草木石類、皆已平了。其所不服者、唯星神香香背男耳。故加遣倭文神建葉槌命者則服。故二神登天也。倭文神、此云斯圖梨俄未。」

【書き下し文】

あるわく。「二神ふたはしらのかみつい邪神あしきかみ及び草木石くさきのいわの類をつみないて、皆すでおわる。うべなわぬ者は、ただ星神ほしののみ。

かれまた倭文神しとりがみ建葉槌命たけはづちのみことつかわせば、すなわうべないぬ。故、二神あまに登る。倭文神、此をと云う。」

【現代語訳】

一説によれば「二神(タケミカヅチとフツヌシ)は、ついに邪神や草木・石の類を誅伐し、皆すでに平定した。唯一従わぬ者は、星の神・カガセオのみとなった。
そこで倭文神・タケハヅチを派遣し、服従させた。そして、二神は天に登っていかれた。倭文神、これをシトリガミと読む。」

本文(上述)では、経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかった[8]。そこで倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている[9][10]

『日本書紀』巻第二 神代下 第九段一書(二)[編集]

【原文】

一書曰、天神、遣經津主神・武甕槌神、使平定葦原中國。時二神曰「天有惡神、名曰天津甕星、亦名天香香背男。請先誅此神、然後下撥葦原中國。」

【書き下し文】

一書あるしょいわく、天神あまつかみ経津主神ふつぬしのかみ武甕槌神たけみかづちのかみつかわして葦原中国あしはらのなかつくにたいらげ定めせしむ。
時に二神ふたはしらのかみ曰く、「天に悪しき神有り。名を天津甕星あまつみかぼしまたの名を天香香背男あめのかがせおと曰う。う、先ずの神を誅し、しかる後に下りて葦原中国をはらわん」。

【現代語訳】

ある書によれば、天津神はフツヌシとタケミカヅチを派遣し、葦原中国を平定させようとした。
その時、二神は「天に悪い神がいます。名をアマツミカボシ、またの名をアメノカガセオといいます。どうか、まずこの神を誅伐し、その後に降って葦原中国を治めさせていただきたい。」と言った。

第二の一書では天津神となっている[11]。経津主神と武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている[12][13][14]

鹿島神宮や静神社の社伝によれば、武甕槌命は香島(723年に鹿島と改名)の見目浦(みるめのうら)に降り(現在の鹿島神宮の位置)[15]、磐座に坐した(鹿島神郡の要石とも)[16]。天香香背男は常陸の大甕(現在の日立市大甕、鹿島神宮より北方70 km)を根拠地にしており、派遣された建葉槌命は静の地(大甕から西方約20 km)に陣を構えて対峙した[17]。建葉槌命の陣は、茨城県那珂郡瓜連(うりづら)町の静神社[18]と伝えられる[19][20]

「カガ(香々)」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる[21]。神威の大きな星を示すという[22]。平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。

星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。 しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。

全国の星神社や星宮神社の多くは天之御中主神、磐裂神、根裂神、経津主神を祀っているが、愛知県名古屋市の星神社 (名古屋市)や星宮社など一部は天津甕星を祭神としている。

茨城県日立市の大甕神社は、建葉槌命を主祀神とする[23](一説には素戔嗚尊とも)[24]。 同神社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。

葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 平凡社, 1937, コマ32, p44
  2. 坂本・家永・井上・大野, 1994 p455
  3. 植松, 1920, コマ124, p101
  4. 坂本・家永・井上・大野, 1994, p459
  5. 平凡社, 1937, コマ32, p44
  6. 経済雑誌社, 1917, コマ34-35, p51-52
  7. 社會教育協會, 1942, コマ23, p13
  8. 東実, 2000, p56-57
  9. 坂本・家永・井上・大野, 1994, p120
  10. 植松, 1920, p(コマ117-118), p87-88
  11. 経済雑誌社, 1917, コマ38, p58-59
  12. 宇治谷孟, 日本書紀, 上, 講談社, 1988, isbn10:0802150586, isbn:9780802150585, p56-8, 64-6
  13. 坂本・家永・井上・大野, 1994, p136
  14. 東実, 2000, p60-61, 常陸は天といわれていた
  15. 東実, 2000, p63-66
  16. 東実, 2000, p68-69
  17. 東実, 2000, p60-61
  18. 平凡社, 1939, コマ92, p152
  19. 東実, 2000, p60-61
  20. 東実, 2000, p65-666
  21. 坂本・家永・井上・大野, 1994, p121,(註六)
  22. 坂本・家永・井上・大野, 1994, p137
  23. 谷川健一, 日本の神々, 岩波書店, 1999-06, 岩波新書 新赤版 第618巻, isbn:4-00-430618-3, 全国書誌番号:99111135
  24. 桜井純一, 1902-09, 日本鉄道線路案内記, 大甕停車場, 皇国敬神会, NDLDC:762800/468, doi:10.11501/762800