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上述のように[[三足烏]]の伝承は古代中国の文化圏地域で見られる。中国であるならば金烏。朝鮮半島ならば、かつて高句麗(紀元前1世紀~6世紀)があった地域(現在の北朝鮮)で古墳に描かれている。高句麗の人々は[[三足烏]]が太陽に棲み、亀が月に棲むと信じていた。一方、朝鮮半島南部(現在の韓国)にまでは広がっていなかったという説がある<ref name="nagomi" />。
日本神話の「東征」において、八咫烏は瀬戸内海から近畿に進もうとした神武天皇の道案内を務めたとされる<ref name="nagomi" />。神武天皇は、当初、西から。神武天皇は、当初、西から大阪に攻め入って敗れたため、太陽神である[[大阪天照大御神|天照大神]]に攻め入って敗れたため、太陽神である天照大神の子孫である自分たちは西から東へ日に向かうのではなく、東から西へ日を背にして攻め入るべきだと考えたの子孫である自分たちは西から東へ日に向かうのではなく、東から西へ日を背にして攻め入るべきだと考えた<ref name="nagomi" />。そこで八咫烏の案内により、[[紀伊半島]]を大きく迂回して現在の[[新宮]]付近から攻め入ることにし、その後、吉野を経て橿原に行き大和朝廷を開いた。そこで八咫烏の案内により、紀伊半島を大きく迂回して現在の新宮付近から攻め入ることにし、その後、吉野を経て橿原に行き大和朝廷を開いた<ref name="nagomi" />。
神話において、八咫烏は熊野の神の使いとしても活躍する神話において、八咫烏は'''熊野の神の使い'''としても活躍する<ref name="nagomi" />。[[孝霊天皇]]の御代、山でイノシシを追っていた「千代包」(ちよかね)という名の猟師がカラスに導かれて大木をみいだし、そこにみえた光に矢を向けると、「私は熊野の神である」という声が聞こえたためその神を祀る社を建て、その宮の別当(熊野三山の管理職)になったという。孝霊天皇の御代、山で'''イノシシ'''を追っていた「千代包」(ちよかね)という名の猟師が'''カラス'''に導かれて大木をみいだし、そこにみえた'''光'''に矢を向けると、「私は熊野の神である」という声が聞こえたためその神を祀る社を建て、その宮の別当(熊野三山の管理職)になったという<ref name="nagomi" />。このときが、熊野の神が人々の前にはじめて姿を現した瞬間だと伝えられる<ref name="nagomi" />。
八咫烏の記録は『古事記』『日本書紀』『延喜式』のほか、キトラ塚古墳の壁画や珍敷塚古墳(福岡県)の横穴石室壁画、千葉県木更津市の高部三〇号噴出土鏡、玉虫厨子(法隆寺)の台座などにみられる<ref name="crow"/>。
『[[新撰姓氏録]]』では、八咫烏は高皇産霊尊の曾孫である『新撰姓氏録』では、八咫烏は高皇産霊尊の曾孫である[[賀茂建角身命]](かもたけつのみのみこと)の化身であり、その後賀茂県主(かものあがたぬし)の祖となったとする<ref name="TO" />。[[奈良県]][[宇陀市]]榛原の。奈良県宇陀市榛原の[[八咫烏神社]]は建角身命を祭神としている。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[紀伊国]]の[[雑賀衆]]を治めた[[雑賀党鈴木氏|鈴木家]]の家紋・旗ともなっている戦国時代には、紀伊国の雑賀衆を治めた鈴木家の家紋・旗ともなっている<ref>{{Cite web|url=http://www.wakayamakanko.com/img/pdf_saika.pdf|title=, 孫一と雑賀鉄砲衆|publisher=, 和歌山市観光協会|accessdate=, 2020-07-30}}</ref>。
また、[[江戸時代]]の末には、[[高杉晋作]]が「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という内容の[[都々逸]]を作成しているまた、江戸時代の末には、高杉晋作が「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という内容の都々逸を作成している<ref name="nagomi" />。これは、熊野の牛玉宝印の札の裏に書いた約束事を破ると熊野のカラスが一羽(または三羽)死に、約束を破った本人も罰を受けるとされていたことから「ほかの男たちとの約束を全て破り、熊野のカラスをことごとく死なせてしまうとしても、あなたと朝寝をしていたい」と、自らの生命を賭けて朝寝を選ぶ、[[遊女]]の想いを表現したものである。これは、熊野の牛玉宝印の札の裏に書いた約束事を破ると熊野のカラスが一羽(または三羽)死に、約束を破った本人も罰を受けるとされていたことから「ほかの男たちとの約束を全て破り、熊野のカラスをことごとく死なせてしまうとしても、あなたと朝寝をしていたい」と、自らの生命を賭けて朝寝を選ぶ、遊女の想いを表現したものである<ref name="nagomi" />。
== シンボルマーク ==
八咫烏は、近代以降の日本においても様々な場面でシンボルマークとして利用されてきた。特に、[[日本サッカー協会]]のシンボルマークおよび[[サッカー日本代表|日本代表]]のエンブレムの意匠として用いられていることで知られている八咫烏は、近代以降の日本においても様々な場面でシンボルマークとして利用されてきた。特に、日本サッカー協会のシンボルマークおよび日本代表のエンブレムの意匠として用いられていることで知られている<ref name=BD307/>。このシンボルマークは、大日本蹴球協会(日本サッカー協会の前身)創設に尽力した[[漢文学|漢文学者]]・[[内野台嶺]]らの発案を基に、[[彫刻家]]・[[日名子実三]]が三本足の烏としてデザイン化し、[[1931年]](昭和6年)に採用されたものである。。このシンボルマークは、大日本蹴球協会(日本サッカー協会の前身)創設に尽力した漢文学者・内野台嶺らの発案を基に、彫刻家・日名子実三が三本足の烏としてデザイン化し、1931年(昭和6年)に採用されたものである。
[[#中国の「三足烏」|上記]]の通り、三本足の烏は中国の故事に基づいたものと言われているが、日本サッカー協会のホームページでは、三足烏(やたがらす)と表現している上記の通り、三本足の烏は中国の故事に基づいたものと言われているが、日本サッカー協会のホームページでは、三足烏(やたがらす)と表現している<ref name="jfa">{{cite web|url=http://www.town.nachikatsuura.wakayama.jp/forms/info/info.aspx?info_id=9492|title=, 八咫烏と日本サッカーの生みの親 中村覚之助について|work=[[和歌山県]][[那智勝浦町]]|accessdate=, 和歌山県那智勝浦町, 2014-9-24}}</ref>([[天武天皇]]が熊野に通って蹴鞠をよくしたことにちなみ、よくボールをゴールに導くようにとの願いが込められているともいう(天武天皇が熊野に通って蹴鞠をよくしたことにちなみ、よくボールをゴールに導くようにとの願いが込められているともいう<ref name="crow"/>。なお、蹴鞠の名人とされる[[藤原成通]]は、五十回以上も熊野詣でをして蹴鞠上達を祈願し、熊野大神に「うしろまり」を披露して奉納したとされ。なお、蹴鞠の名人とされる藤原成通は、五十回以上も熊野詣でをして蹴鞠上達を祈願し、熊野大神に「うしろまり」を披露して奉納したとされ<ref name="crow"/>、現在でも、日本サッカー協会は[[FIFAワールドカップ]]等の出場前に熊野三山で必勝祈願を行っている、現在でも、日本サッカー協会はFIFAワールドカップ等の出場前に熊野三山で必勝祈願を行っている<ref name="nagomi" />)。日本代表のエンブレムも協会シンボルマークを基にした八咫烏であり、ユニフォーム等に使用されている。この他、それらの理由から[[関西サッカーリーグ]]1部に属する[[アルテリーヴォ和歌山]]のエンブレムやマスコットキャラクターにも使用されている)。日本代表のエンブレムも協会シンボルマークを基にした八咫烏であり、ユニフォーム等に使用されている。この他、それらの理由から関西サッカーリーグ1部に属するアルテリーヴォ和歌山のエンブレムやマスコットキャラクターにも使用されている<ref>{{cite news|url=http://www.nwn.jp/old/kakokizi2011/20111217/7a/7.html|title=, アルテリーヴォ エンブレム一新|newspaper=[[, ニュース和歌山]]|date=, 2011-12-17|accessdate=, 2017-02-13}}</ref><ref>{{cite news|url=https://camp-fire.jp/projects/view/287163|title=, 『和歌山大学生の挑戦!』アルテリーヴォ和歌山にマスコットを!!|newspaper=, キャンプファイヤー|date=, 2020-1-15|accessdate=, 2020-12-31}}</ref>。
[[軍事]]方面においても、八咫烏は[[大日本帝国]]時代より軍事方面においても、八咫烏は大日本帝国時代より[[金鵄]]や[[ワシ|鷲]]等と共に広く用いられ、[[1939年]](昭和14年)に制定された[[従軍記章#支那事変従軍記章|支那事変従軍記章]](デザインは大日本蹴球協会のシンボルマーク考案者と同じ日名子実三)や{{Refnest|group=注釈|name=kisho}}、[[帝国軍人後援会]]の会章(会員徽章)等にあしらわれた。また、自由で瀟洒な図案を[[陸軍飛行戦隊#部隊マーク|部隊マーク]]として機体に描く文化のあった[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]の[[陸軍飛行戦隊|航空部隊]]では、[[一〇〇式司令部偵察機|一〇〇式司令部偵察機「新司偵」]]を装備する[[独立飛行中隊|独立飛行第17中隊]]が、一時期「赤丸を背景に片翼を広げる黒の八咫烏」を垂直尾翼に描いていた。戦後は、[[陸上自衛隊]][[中央情報隊]]以下の[[情報機関|情報部隊等と共に広く用いられ、1939年(昭和14年)に制定された支那事変従軍記章(デザインは大日本蹴球協会のシンボルマーク考案者と同じ日名子実三)や、帝国軍人後援会の会章(会員徽章)等にあしらわれた。また、自由で瀟洒な図案を部隊マークとして機体に描く文化のあった帝国陸軍の航空部隊では、一〇〇式司令部偵察機「新司偵」]]の部隊マークに採用されている。を装備する独立飛行第17中隊が、一時期「赤丸を背景に片翼を広げる黒の八咫烏」を垂直尾翼に描いていた。戦後は、陸上自衛隊中央情報隊以下の情報部隊の部隊マークに採用されている。
その他、熊野周辺を運行しているバス会社、[[熊野交通]]の[[社紋]]には、八咫烏が採用されている。 === 注釈 ==={{Reflist|group=注釈}}その他、熊野周辺を運行しているバス会社、熊野交通の社紋には、八咫烏が採用されている。
== 関連項目 ==
* [[日本の神の一覧]]* [[八咫烏神社]]* [[八咫烏 (小惑星)]]* [[八咫烏 (結社)]]* [[弓弦羽神社]]* [[鴉宮]]* [[本宮町 (和歌山県)]] [[熊野本宮大社]]* [[新宮市]] [[熊野速玉大社]]* [[那智勝浦町]] [[熊野那智大社]]* [[十津川村三足烏]] - 南大和にある山村で、八咫烏を[[トーテム]]とする。八咫烏に類する諸外国の「三足鳥」を解説。
* [[金烏]] - 現在の天皇の祭事の意匠になっている3本足のカラスで、一般にこれは八咫烏ではないとする説が有力だが、疑問符を付けたり、八咫烏との同一視または混同が生じているという見解を示す人もいる。
* [[太陽黒点]]
* [[三足烏]] - 八咫烏に類する諸外国の「三足鳥」を解説。
* [[大五ホールディングス]] - [[静岡県]][[浜松市]]に本社を置く運送会社。マスコット・キャラクターに八咫烏を起用している。
== 外部リンク ==
{{DEFAULTSORT:やたからす}}
[[Category:中国神話]]
[[Category:日本神話]]
[[Category:烏]]

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