「少昊」の版間の差分

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『三国史記』金庾信列伝によれば、新羅の武将金庾信は金官加羅国の王家の子孫であり、その始祖・首露王は少昊の子孫にあたる<ref><blockquote>金庾信,王京人也。十二世祖首露,不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅,登龜峯,望駕洛九村,遂至其地開國,號曰加耶,後改為金官國。其子孫相承,至九世孫仇充,或云仇次休,於庾信為曾祖。羅人自謂少昊金天氏之後,故姓金。庾信碑亦云:「軒轅之裔,少昊之胤。」則南加耶始祖首露與新羅,同姓也。(三国史記、巻四十一)</blockquote></ref>。
 
『三国史記』金庾信列伝によれば、新羅の武将金庾信は金官加羅国の王家の子孫であり、その始祖・首露王は少昊の子孫にあたる<ref><blockquote>金庾信,王京人也。十二世祖首露,不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅,登龜峯,望駕洛九村,遂至其地開國,號曰加耶,後改為金官國。其子孫相承,至九世孫仇充,或云仇次休,於庾信為曾祖。羅人自謂少昊金天氏之後,故姓金。庾信碑亦云:「軒轅之裔,少昊之胤。」則南加耶始祖首露與新羅,同姓也。(三国史記、巻四十一)</blockquote></ref>。
  
== 窮桑 ==
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== 少昊陵 ==
窮桑は高さ1万丈にもおよぶ桑の大木で、赤い葉をもち、1万年に一度長寿の効果のある果実をつけるとされる<ref name="enka1" />。江水のほとりにたっていたと伝説には記されている。
 
 
 
仙女 皇娥の仕事は天宮で暮らす人々が使う織物を織る事であったが、あるとき仕事を休み天の川をいかだで下り、神木窮桑の木の下にたどり着き、そこで後の黄帝と出会い、少昊を生んだとされる<ref>秦寛博, =2011-07-29, 樹木の伝説, 新紀元社, isbn:4775303996</ref>。
 
 
 
== 少昊陵 =
 
 
雲陽に葬られたという記述から、山東省曲阜市には少昊の陵墓であると考えられる丘陵があり「少昊陵」と称されている。清の時代の乾隆3年(1738年)に位置を移し現在のかたちに整備された<ref>菟田茂丸, 1941, 孔子廟参拝記, 平凡社, pages101-102</ref>。中国ピラミッド(Chinese pyramids)と呼ばれる形状の陵墓のひとつである。
 
雲陽に葬られたという記述から、山東省曲阜市には少昊の陵墓であると考えられる丘陵があり「少昊陵」と称されている。清の時代の乾隆3年(1738年)に位置を移し現在のかたちに整備された<ref>菟田茂丸, 1941, 孔子廟参拝記, 平凡社, pages101-102</ref>。中国ピラミッド(Chinese pyramids)と呼ばれる形状の陵墓のひとつである。
  
 
== 参考資料 ==
 
== 参考資料 ==
*『山海経』-「大荒東経」
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* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E6%98%8A 少昊](最終閲覧日:22-10-06)
*『山海経』-「大荒南経」
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**『山海経』-「大荒東経」
*『春秋命歴序』
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**『山海経』-「大荒南経」
*『易緯稽覧図』
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**『春秋命歴序』
*『逸周書』
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**『易緯稽覧図』
*『史記』
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**『逸周書』
*『春秋左氏伝』-昭公十七年
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**『史記』
*『曲阜県志』
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**『春秋左氏伝』-昭公十七年
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**『曲阜県志』
  
 
== 関連項目 ==
 
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* [[禹]]:少昊と同じものか?
 
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* [[窮奇]]
 
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* [[盤古]]:樹木神
  
 
== 私的注釈 ==
 
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[[Category:中国神話]]
 
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2022年10月7日 (金) 01:21時点における最新版

少昊(しょうこう)は、中国古代の五帝の一人。姓は己。氏は金天氏(鳳鳥氏、青陽氏、窮桑氏[1]、雲陽氏[2] とも称される)。名は摯(し。鷙・質とも作る)、または玄囂。号は「昊」(「皞」・「皓」・「顥」とも作る)、「少昊」(少昊とは太昊の徳行を継承したことによる命名)。

概要[編集]

黄帝の子(『路史』では孫とされる[3]。母は嫘祖。西海のほとりにあったと伝わる窮桑(きゅうそう。現在の山東省曲阜市)で生まれる[4]。『史記』五帝本紀には、蟜極の父・帝嚳の祖父にあたると記されている。五行の上では金徳・西方・色を示すとされ、金天氏・白帝という称はそれに由来する[私注 1]

東海の青陽に国をたて、のちに都を曲阜に置いたとされる。『春秋左氏伝』昭公十七年の項には、暦を作成し、官名を玄鳥氏、伯趙氏、青鳥氏、丹鳥氏など、鳥類の名で呼んだことが記載されている。

『神異経』では、四凶のひとつである窮奇(きゅうき)は少昊の子孫であるとしている[5]

『三国史記』金庾信列伝によれば、新羅の武将金庾信は金官加羅国の王家の子孫であり、その始祖・首露王は少昊の子孫にあたる[6]

少昊陵[編集]

雲陽に葬られたという記述から、山東省曲阜市には少昊の陵墓であると考えられる丘陵があり「少昊陵」と称されている。清の時代の乾隆3年(1738年)に位置を移し現在のかたちに整備された[7]。中国ピラミッド(Chinese pyramids)と呼ばれる形状の陵墓のひとつである。

参考資料[編集]

  • Wikipedia:少昊(最終閲覧日:22-10-06)
    • 『山海経』-「大荒東経」
    • 『山海経』-「大荒南経」
    • 『春秋命歴序』
    • 『易緯稽覧図』
    • 『逸周書』
    • 『史記』
    • 『春秋左氏伝』-昭公十七年
    • 『曲阜県志』

関連項目[編集]

私的注釈[編集]

  1. 鯀は「白馬」と呼ばれている。
  1. 窮桑で生まれたことに拠る。『拾遺記』
  2. 曲阜の雲陽に葬られたことに拠る。
  3. 少昊青陽氏,名質,是為摯,其父曰清黄帝之第五子方嫘氏之生也。(羅泌、路史、巻一六、疏仡紀)

  4. 袁珂, 1993-04-01, 中国の神話伝説〈上〉, 青土社, isbn:479175221X, pages137-139
  5. 袁珂, 1993-04-01, 中国の神話伝説〈上〉, 青土社, isbn:479175221X, page142
  6. 金庾信,王京人也。十二世祖首露,不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅,登龜峯,望駕洛九村,遂至其地開國,號曰加耶,後改為金官國。其子孫相承,至九世孫仇充,或云仇次休,於庾信為曾祖。羅人自謂少昊金天氏之後,故姓金。庾信碑亦云:「軒轅之裔,少昊之胤。」則南加耶始祖首露與新羅,同姓也。(三国史記、巻四十一)

  7. 菟田茂丸, 1941, 孔子廟参拝記, 平凡社, pages101-102