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ページの作成:「『古事記』の'''比売多多良伊須気余理比売'''(ヒメタタライスケヨリヒメ)<ref name="日本神名辞典-比売"/>('''比売多多良伊須…」
『古事記』の'''比売多多良伊須気余理比売'''(ヒメタタライスケヨリヒメ)<ref name="日本神名辞典-比売"/>('''比売多多良伊須気余理比売'''<ref group="注">『古事記』では'''比売多多良伊須気余理比売命'''</ref><ref name="ニッポニカ-神武"/>(ヒメタタライスケヨリヒメノミコト<ref name="読み解き事典"/><ref name="神仏の辞典-比売"/>)、比売多多良伊須気余理比売('''ヒメタタライスケヨリヒメ'''<ref name="日本神名辞典-比売"/>)、伊須気余理比売などと表記される。資料により「売」と「賣」、「気」と「氣」、「余」と「餘」などの表記ゆれが見られる。)は初代天皇・神武天皇の皇后(初代皇后)である<ref name="読み解き事典"/>。

『日本書紀』では'''媛蹈鞴五十鈴媛'''(<ref name="ニッポニカ-神武"/><ref group="注">『日本書紀』では'''媛蹈鞴五十鈴媛命'''(ヒメタタライスズヒメノミコト</ref><ref name="よみかた"/><ref name="ブリタニカ-神武"/><ref name="神道大辞典"/>)、媛蹈鞴五十鈴媛などと表記される。このほか「媛蹈鞴五十鈴媛(命)」には様々な表記ゆれがみられる。「媛」と「姫(姬)」、「蹈」と「踏」、「韛」と「鞴」、「命」と「尊」など。「姫踏鞴五十鈴媛命<ref name="朝日歴史人物事典"/>」や「媛蹈韛五十鈴姫尊<ref name="系図-61"/>」、「媛蹈韛五十鈴媛命<ref name="日本人名大辞典+"/>」、「姫蹈韛五十鈴姫命<ref name="日本神名辞典-姫"/><ref name="古代氏族"/>」・「姫踏鞴五十鈴姫命<ref name="神道大辞典"/>」など、「姫・媛」の使い分けも様々見られる<ref name="ニッポニカ-神武"/>。'''ヒメタタライスズヒメ''')とされる。

伝承ごとに細部の差異はあるものの、母親は'''大和地方の有力者の娘'''で、父親は神であったと描かれている。神武天皇に嫁いで皇后となり、2代天皇の綏靖天皇を産んだとされている<ref name="歴代天皇紀-神武"/><ref name="日本神名辞典-比売"/><ref group="私注">比売多多良伊須気余理比売の両親の神婚譚は賀茂氏系氏族の祖神譚と一致する内容であるため、比売多多良伊須気余理比売姉妹の出自は「'''賀茂氏系氏族'''」と推察される。</ref>。

== 異称 ==
『[[古事記]]』では、はじめ「富登多多良伊須須岐比売<ref name="朝日歴史人物事典"/>」(ホトタタライススキヒメ<ref name="神道大辞典"/>、ホトタタライススギヒメ<ref name="読み解き事典"/><ref name="日本神名辞典-富登"/>)という名であったが、のちに「比売多多良伊須気余理比売<ref name="朝日歴史人物事典"/>」(ヒメタタライスケヨリヒメ)に改められたことが示されている。詳細は[[#古事記にみる誕生時の逸話]]参照。単に「伊須気余理比売」と書くこともある<ref name="日本神名辞典-比売"/>。

また、単に「五十鈴媛命」ということもある<ref name="新撰大人名辞典"/>。(ただし、妹の[[五十鈴依媛命]]との混同に注意。)

==記紀による描写==
===日本書紀・先代旧事本紀のヒメタタライスズヒメ===
『[[日本書紀]]』巻1「神代紀(上)」と『[[先代旧事本紀]]』巻4・巻5に「姫蹈韛五十鈴姫命」<ref name="古代神祇-いすず姫"/>、『日本書紀』巻3「[[神武天皇|神武]]紀」・巻4「[[綏靖天皇|綏靖]]紀と」『先代旧事本紀』巻7に「媛蹈韛五十鈴媛命」<ref name="古代神祇-いすず媛"/>として登場する<ref name="神仏の辞典-姫"/>。

その出自については数通りの記述がある。

{|class=wikitable style='font-size:90%;'
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|書名||登場箇所||母||父||備考||出典
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|style="white-space:nowrap" |『日本書紀』||rowspan=2|巻1「神代紀上」<br>宝剣出現章|| ||style="white-space:nowrap" |[[三輪山|大三輪神]]||{{refnest|group="紀"|『日本書紀』「大三輪之神也。此神之子、卽甘茂君等・大三輪君等・又姫蹈鞴五十鈴姫命」}}大三輪神は[[大己貴命]]([[大国主]])の[[幸魂]]とされる。||<ref name="古代神祇-いすず姫"/><ref name="神仏の辞典-姫"/><ref name="古代氏族"/>
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|style="white-space:nowrap" |『日本書紀』||三嶋の溝樴姫(みぞくひひめ)<br>または[[玉櫛姫]]||style="white-space:nowrap" |[[事代主神]]||{{refnest|group="紀"|『日本書紀』「[[事代主神]]化爲八尋熊鰐 通[[三島溝杭|三嶋溝樴]]姫 或云 [[玉櫛媛|玉櫛姫]] 而生兒 姫蹈鞴五十鈴姫命 是爲[[神日本磐余彦|神日本磐余彦火火出見天皇]]之后也」}}||<ref name="古代神祇-いすず姫"/><ref name="神仏の辞典-姫"/><ref name="古代氏族"/>
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|style="white-space:nowrap" |『日本書紀』||巻3「神武紀」<br>神武即位前条||[[陶津耳|三嶋溝樴耳神]]の娘<br>[[玉櫛媛]]||[[事代主神]]||{{refnest|group="紀"|『日本書紀』「事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛、所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命」}}||<ref name="古代神祇-いすず媛"/><ref name="神仏の辞典-姫"/><ref name="古代氏族"/>
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|style="white-space:nowrap" |『日本書紀』||巻4「綏靖紀」<br>綏靖即位前条|| ||[[事代主神]]||「事代主の長女」とされる{{refnest|group="紀"|『日本書紀』「母曰媛蹈韛五十鈴媛命、事代主神之大女也」}}||<ref name="古代神祇-いすず媛"/><ref name="神仏の辞典-姫"/><ref name="古代氏族"/>
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|『先代旧事本紀』||{{refnest|group="注"|『[[先代旧事本紀]]』巻4地祇本紀に「[[都味歯八重事代主神]] 化八尋熊鰐 通[[三島溝杭]]女 [[活玉依姫]] 生一男一女(中略)妹 踏韛五十鈴姬命 此命 橿原原朝立為皇后 誕生二兒 即 神渟名耳天皇 綏靖 次產 八井耳命是也」とある。}}||三嶋溝杙(みぞくひ)の娘<br>[[活玉依姫]]||style="white-space:nowrap" |[[事代主神]]||事代主神は[[大己貴命]]の子とされる||<ref name="古代神祇-いすず姫"/>
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|}

『日本書紀』「神代紀」の別説や「神武紀」「綏靖紀」、『先代旧事本紀』では、[[事代主神]]が「三嶋」の「ミゾクヒ」(ミゾクイ)の娘の[[玉櫛媛|タマクシヒメ]]のもとへ通って生まれたとしている<ref name="古代神祇-いすず姫"/><ref name="古代神祇-いすず媛"/><ref name="女性人名辞典"/>。また、このとき事代主神は「[[和邇|八尋熊鰐]]」に姿を変えていたとする<ref name="古代神祇-いすず姫"/><ref name="女性人名辞典"/><ref name="古代氏族"/>。

===古事記のヒメタタライスケヨリヒメ===
『[[古事記]]』中巻に「富登多多良伊須須岐比売命」「比売多多良伊須気余理比売命」として登場する<ref name="神仏の辞典-比売"/><ref name="神仏の辞典-富登"/>。

{|class=wikitable style='font-size:90%;'
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|書名||登場箇所||母||父||備考||出典
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|style="white-space:nowrap" |『古事記』||中巻<br>神武記||[[三嶋湟咋]](みぞくひ)の娘<br>[[勢夜陀多良比売]]||style="white-space:nowrap" |[[大物主神]]||父は美和之大物主神{{refnest|group="記"|『古事記』「此間有媛女、是謂神御子。其所以謂神御子者、三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比売、其容姿麗美。故、美和之大物主神見感而(以下略)」}}||<ref name="古代神祇-いすけ"/><ref name="古代神祇-ほと"/><ref name="日本人名大辞典+"/>
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|}

[[勢夜陀多良比売]]は美女として知られていた。[[大物主神]]は丹塗り矢(赤い矢)に姿を変え、勢夜陀多良比売が大便をするところを狙って川の上流から流れていき、勢夜陀多良比売の陰部(ホト)を突いた。驚いた勢夜陀多良比売が矢を取って部屋に戻ると、矢は美男子となった。両者は結婚し、娘が生まれた。娘は「富登多多良伊須須岐比売」(ホトタタライススキヒメ)と名付けられた。しかしのちに娘は「ホト」という名を嫌って「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)に改めた<ref name="古代神祇-いすけ"/><ref name="朝日歴史人物事典"/><ref name="神道大辞典-勢夜姫"/>。

===神武天皇との結婚===
『日本書紀』などの記述によれば、[[イワレヒコ]](のちの神武天皇)は、「ヒムカの国{{refnest|group="注"|[[日向国]]([[宮崎県]])に比定する説と、これを否定する説がある。}}」を出て東へ遠征し、数々の戦いを経て[[大和|ヤマト地方]]{{refnest|group="注"|一般的には[[奈良盆地]]を指す。}}に政権を確立するに至った([[神武東征]])。イワレヒコは[[畝傍山]]の麓に「[[橿原宮|カシワラの宮]]」([[奈良県]][[橿原市]])を築き、初代天皇「神武天皇{{refnest|group="注"|厳密には、「神武天皇」という呼称は奈良時代に与えられた[[諡号]]である。『日本書紀』では「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とする<ref name="歴代天皇紀-神武"/>。}}」として即位することになる<ref name="ブリタニカ-神武"/>。

この即位に先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになり、ヒメタタライスズヒメが妻に迎えられる。『日本書紀』によれば、ヒメタタライスズヒメと神武天皇(正確には天皇としての即位前)との結婚は、即位の前年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]](旧暦)だったとされる<ref name="新撰大人名辞典"/><ref name="女性人名辞典"/>{{refnest|group="注"|『日本書紀』では、妃探しを始めたのが即位前年の[[8月16日 (旧暦)|8月16日]](「[[庚申]]年秋[[8月 (旧暦)|八月]][[癸丑]][[朔]][[戊辰]]」)<ref name="読み解き事典"/><ref name="歴代皇后-神武"/>、ヒメタタライスズヒメを妃と決め結婚したのが[[9月24日 (旧暦)|9月24日]](「[[9月 (旧暦)|九月]][[壬午]][[朔]][[乙巳]]」)<ref name="新撰大人名辞典"/><ref name="女性人名辞典"/>である。}}。翌年正月に神武天皇は即位し、ヒメタタライスズヒメはこのときに皇后となった<ref name="新撰大人名辞典"/>{{refnest|group="注"|『日本書紀』では神武天皇の即位年を「[[辛酉]]」の年とする。中国の[[讖緯説]]・[[辛酉革命|辛酉革命説]]を考慮して明治時代に定められた計算方法に従えばこれは[[紀元前660年]]となる。かつてはこれは歴史的事実とされていたが、現代ではふつう史実とは考えられていない<ref name="歴代天皇紀-神武"/>。詳細は[[神武天皇即位紀元]]参照。}}。

『古事記』には正妃選びや結婚にまつわるエピソードが採録されている。(詳細は[[#神武天皇の妻問い説話]]参照。)

===神武天皇の死後===
『日本書紀』によると、神武天皇は127歳で崩御した<ref name="歴代天皇紀-神武"/>。細部には相違点があるものの、『日本書紀』や『古事記』には、神武天皇の死後、子供同士の間で起きた後継者争いが描かれている(詳細は[[手研耳の反逆]]参照)。

イワレヒコ(神武天皇)は、「ヒムカ国」からの東征に出発する以前に、[[吾平津媛]](阿比良比売)と結婚し、子をもうけていた<ref name="読み解き事典"/><ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>{{refnest|group="注"|『古事記』には2人の子の名が記録されている。[[多芸志美美命]](タギシミミノミコト<ref name="日本神名辞典-多芸"/>)と[[岐須美美命]](キスミミノミコト<ref name="日本神名辞典-岐須"/>)である<ref name="読み解き事典-阿比良"/><ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>。一方『日本書紀』には[[手研耳命]](タギシミミノミコト)の名前だけがあり、岐須美美命に相当する人物の名は記されていない<ref name="読み解き事典-阿比良"/>。}}。しかし神武天皇がヒメタタライスズヒメを正后としたことにより、この子らは庶子の身分となった<ref name="歴代天皇紀-神武"/><ref name="読み解き事典-阿比良"/>。神武天皇が崩御すると、この庶子であるタギシミミは皇位を自らが継ごうと考えた<ref name="読み解き事典-多芸志美美"/><ref name="学研2015"/>{{refnest|group="注"|『日本書紀』などによれば、タギシミミは長いあいだ神武天皇のもとで政務に就いていたという。しかしその性格には難があり「仁義に背く」性質があった、と描かれている<ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>。こうした描写は、必ずしも史実をそのまま伝えるものではないと考えられている。神武天皇から綏靖天皇への代替わりにあたっては[[末子相続]]が行われており、古代の日本ではそれが一般的であったのだろうと考えられている。しかしのちには[[長子相続]]が一般的となったために、長子相続を正当と考える読者のために、「兄が悪人だったために排除された」とする説明が必要になったのだろうと解釈するものもある<ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>。}}。

『古事記』では、タギシミミは未亡人となったヒメタタライスズヒメを自らの妻とし、神武天皇とヒメタタライスズヒメのあいだに生まれた嫡子である皇子たちを暗殺しようとする<ref name="読み解き事典-多芸志美美"/><ref name="学研2015"/><ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>。これを察したヒメタタライスズヒメは、子供たちに身の危険を知らせるために和歌を2首詠んで送ったという<ref name="学研2015"/><ref name="ヒメたち98"/>{{refnest|group="記"|『古事記』「天皇崩後、其庶兄當藝志美美命、娶其嫡后伊須気持余理比売之時、將殺其三弟而謀之間、其御祖伊須気持余理比売之患苦而、以歌令知其御子等」}}。

{| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;"
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|{{ruby|佐韋賀波用|さゐかはよ}} {{ruby|久毛多知和多理|くもたちわたり}} {{ruby|宇泥備夜麻|うねびやま}} {{ruby|許能波佐夜藝奴|このはさやげぬ}} {{ruby|加是布加牟登須|かぜふかむとす}}
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|[[狭井川|狭韋河]]よ 雲起ちわたり [[畝傍山|畝火山]] 木の葉さやげぬ 風吹かむとす<ref name="ヒメたち98"/>
|-
|(大意)狭井川の我が家の子らよ{{refnest|group="注"|『古事記』には神武天皇がヒメタタライスズヒメの家を訪れて泊まる様子が描かれている。研究者のなかには、当時は夫が妻の家へ通う[[通い婚]]が行われていたと考える者もいる。とりわけ神武天皇とヒメタタライスズヒメの場合のように、よそ者が土着の有力者の娘を娶るような場合には、結婚後も妻は実家にとどまるのが普通だったという。そして生まれた子供たちも、妻の実家で育てられたという。したがってこの事変が起きた当時も、神武天皇の嫡出子たちは実家である狭井川(狭韋河)にいたとされる。(研究者たちも、これらの記述が真正の史実であるとは認めていないが、当時の習俗を反映した物語であろうとしている。)<ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>。}}、タギシミミの方からそちらに向かって風が吹こうとしています(危険が迫っています)<ref name="ヒメたち98"/>
|}

{| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;"
|-
|{{ruby|宇泥備夜麻|うねびやま}} {{ruby|比流波久毛登韋|ひるはくもとひ}} {{ruby|由布佐禮婆|ゆふされば}} {{ruby|加是布加牟登曾|かぜふかむとぞ}} {{ruby|許能波佐夜牙流|このはさやげる}}
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|[[畝傍山|畝火山]] 昼は雲と居 夕去れば 風ふかむとぞ 木の葉さやげる
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|(大意)畝傍山は昼は曇っているが、夕方が過ぎて夜になれば風が吹くだろうと木の葉が騒いでいる
|}

これらの寓意歌によりタギシミミの反逆の意図を知った嫡子たちは、逆に先手を打ってタギシミミを討ち取った。その際に最も活躍した神沼河耳命が皇位を継ぎ、2代天皇([[綏靖天皇]])として即位した<ref name="歴代天皇紀-綏靖"/><ref name="読み解き事典-多芸志美美"/><ref name="学研2015"/><ref name="日本神名辞典-多芸"/>。『日本書紀』にしたがえば、綏靖天皇元年正月8日にヒメタタライスズヒメは「[[皇太后]]」を称するようになったという<ref name="新撰大人名辞典"/>。

綏靖天皇は正妃として[[五十鈴依媛命]]を迎えた。五十鈴依媛命はヒメタタライスズヒメの実妹であり、綏靖天皇からみると叔母にあたる<ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>。ただしこれには異伝があり、綏靖天皇の妃となった人物を[[河俣毘売]]とするものや皇后を糸織媛とするものがある。

=== 子供 ===
神武天皇との子は、年長から順に、[[日子八井命]]、[[神八井耳命]]、[[神沼河耳命]]([[綏靖天皇]])である<ref name="女性人名辞典"/>。

{|class=wikitable
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|colspan=3|ヒメタタライスズヒメと神武天皇の子
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|『日本書紀』||『古事記』||備考
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| ||[[日子八井命]]||『日本書紀』には記載がない。
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|[[神八井命]]||[[神八井耳命]]||[[多氏]]の祖となる。
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|[[神渟名川耳尊]]||[[神沼河耳命]]||[[綏靖天皇]]として即位、2代天皇となる。
|-
|}

===兄妹===
ヒメタタライスズヒメの母である玉櫛媛(勢夜陀多良比売)は、ほかに2人の子を産んだとされている。
*[[天日方奇日方]] - ヒメタタライスズヒメの兄。『[[先代旧事本紀]]』では神武天皇に仕えて「申食国政大夫」(宰相)になったとされる<ref name="ヒメたち94"/>。
*[[五十鈴依媛命]] - ヒメタタライスズヒメの妹。のちに2代天皇の[[綏靖天皇]]の后になったとされる<ref name="ヒメたち94"/><ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>。

==出自に関する諸説==
『[[日本書紀]]』と『[[古事記]]』では、説話の細部が異なるものの、ヒメタタライスズヒメは「在地の有力者(神)の娘」を母とし、「神」を父として描かれている<ref name="ヒメたち94"/>。初代天皇である神武天皇が正妻を迎えるにあたり、「神の娘」を娶ることが、神武天皇の政権の正当性を裏打ちするものとして利用されたのだろうと解釈する説がある<ref name="ヒメたち94"/>。

母親は、母方が[[摂津国|摂津]](大阪府)のミシマ(三嶋、三島)、父方が[[大和国|ヤマト]](奈良県)のミワ(美和、三輪、[[三輪山]])のものとして描かれている。これらは、近畿地方の複数の豪族の協力を示唆しており{{refnest|group="注"|『日本書紀』が説くようにヒメタタライスズヒメの父が[[事代主神]]あるいは[[大国主]]とするならば、ヒメタタライスズヒメは近畿地方の豪族に加えて[[出雲神話|出雲地方]]にもルーツがあるということになる<ref name="ヒメたち94"/>。}}、この結婚は「ヒムカ」([[日向国]])からやってきた他国者であるイワレヒコ(神武天皇)を、[[河内国|凡河内国]](大和国と摂津国)の有力者{{refnest|group="注"|厳密には大和国や摂津国といった[[令制国]]が確立するのは古代のことである。}}たちが支えたことを示すものだろうと解釈する説がある<ref name="ヒメたち94"/><ref name="学研2015"/>。また、イワレヒコが単に武力制圧するだけでなく、在地の勢力との融和策によって支配基盤を固めようとする政治的方法を示すものだとも解釈する説もある<ref name="ヒメたち98"/>。後述するように、神武天皇の勢力が製鉄技術を確保したことを示すものだとの解釈もある<ref name="鈴本1979"/>。

=== 祖父:ミシマのミゾクヒ ===
『日本書紀』で、多少の表現の差異はあるが、母親は'''三嶋溝杙'''の娘とされる。「ミゾクヒ」には、'''溝樴'''、'''溝樴耳神'''、'''溝杙'''などの表記がある他、『古事記』では'''湟咋'''とあり、'''溝杭'''(『[[新撰姓氏録]]』)、'''溝咋'''などの字が当てられることもある<ref name="山﨑2013"/><ref name="古代氏族"/><ref name="読み解き事典"/>。「-[[ミミおよびミ|耳神]]」を付す史料があることから、神性をもつ存在として信仰の対象であったことも示唆されると見る説がある<ref name="山﨑2013"/>。この神は陶津耳命や加茂建角身命、[[八咫烏]]の名を持っており、賀茂氏の系図では[[賀茂氏]]や[[葛城国造]]の祖神とされている<ref>[[宝賀寿男]]「三輪氏の起源と動向」『古代氏族の研究⑦ 三輪氏 大物主神の祭祀者』青垣出版、2015年。</ref>。

「三島」という地名は[[摂津国]][[三島郡 (大阪府)|三島郡]](現在の[[大阪府]]北部)にあたると考えられている。『延喜式神名帳』(927年成立)には[[三島鴨神社]]([[高槻市]]三島江)や[[溝咋神社]]([[茨木市]])が掲載されており、「ミシマのミゾクヒ」はこのあたりで信仰されていたと推測される<ref name="読み解き事典"/><ref name="山﨑2013"/>{{refnest|group="注"|[[溝咋神社]]では三島溝咋(三島溝杭)を神社の祖とし<ref name="読み解き事典"/>、三島氏は古代河内地方の有力豪族だっただろうとしている<ref name="ヒメたち94"/>。}}。

江戸時代の[[国学者]][[本居宣長]]は、この「ミゾ(溝)」は水流の上に作られた[[厠]]を指すと解釈し、これが通説となっている<ref name="山﨑2013"/>。[[三谷栄一]]などはこの説を採り、厠は出産儀礼とも関連が強いとする説もある<ref name="山﨑2013"/>。[[肥後和男]]([[東京教育大学]][[名誉教授]])はこれとは違い、「ミゾ」は水田の溝を意味するとした<ref name="山﨑2013"/>。[[次田真幸]]はこの説を発展させ、三島郡は稲作の適地であり「ミシマのミゾクヒ」は農耕神であるとした<ref name="山﨑2013"/>。

=== 母:玉櫛媛と勢夜陀多良比売 ===
母親の名は『日本書紀』では「[[玉櫛媛]](タマクシヒメ)<ref name="読み解き事典"/>」、『古事記』では「[[勢夜陀多良比売]](セヤダタラヒメ)<ref name="朝日歴史人物事典"/><ref name="神道大辞典-勢夜姫"/>」とされている。いずれも、美女として知られていたと伝える<ref name="朝日歴史人物事典"/><ref name="神道大辞典-勢夜姫"/><ref name="女性人名辞典"/>{{refnest|group="紀"|『日本書紀』「是国色之秀者」。}}{{refnest|group="記"|『古事記』「其容姿麗美」。}}。

[[本居宣長]]は、セヤ(勢夜)を[[大和国]][[平群郡]]勢野村([[奈良県]][[生駒郡]][[三郷町]])に比定している<ref name="神道大辞典-勢夜姫"/>。

===異類婚による誕生===
『日本書紀』『古事記』のいずれも、ヒメタタライスズヒメの誕生には[[異類婚]]が係わっている。父である神は、『日本書紀』では「八尋和邇」、『古事記』では「丹塗りの矢」に姿を変え、女性のもとを訪れている。このようにヒメタタライスズヒメは日本神話における異類婚による子の代表例として知られる<ref name="日本神話事典-異類婚"/>{{refnest|group="注"|神武天皇の父[[ウガヤフキアエズ]]も、母の[[トヨタマヒメ]]の正体は八尋和邇である。父の[[ホオリ]]はそのことを知らず、出産の様子をのぞき見してトヨタマヒメの真の姿を目撃してしまう。そのためトヨタマヒメは生まれた赤子を置き去りにして海へ帰ってしまう。この赤子が神武天皇の父である<ref name="日本神話事典-異類婚"/>。}}。

<!--

『[[日本書紀]]』では[[事代主神]]の娘とされている<ref name="日本人名大辞典+"/>。

玉櫛媛は美貌で知られていた。[[事代主神]]は「[[和邇|八尋熊鰐]]」に姿を変えて玉櫛媛のもとへ通い、やがて娘が生まれる<ref name="女性人名辞典"/>{{refnest|group="注"|事代主神と玉櫛媛は媛蹈韛五十鈴媛命を「共生」したとある。これは、両者が男女としての通常の生殖の結果「共(あ)う(=逢う)ことで生まれた」と解釈するものと、神である事代主神が玉櫛媛と共に(協力しながら)超越的な力で造った、とする解釈がある。}}。これが媛蹈韛五十鈴媛命である<ref name="読み解き事典"/>。

-->
=== 古事記にみる誕生時の逸話 ===
『[[古事記]]』では[[大物主神]]の娘とされている<ref name="日本人名大辞典+"/>{{refnest|group="注"|大物主神(大物主)は本来、[[三輪氏]]の[[氏神]]である<ref name="ニッポニカ-大物主"/>。一方、大物主は[[大国主]]([[スサノオ]]の子孫)の別名とする場合もあり、『日本書紀』では、大物主は大国主の[[和魂]]とする<ref name="ニッポニカ-大物主"/>。両者は元来は別の神と考えられている<ref name="大辞林-大物主"/><ref name="朝日人物-大物主"/>。}}。出身地は「[[美和]]」<ref name="日本人名大辞典+"/>ないし[[大和|大和地方]]の[[三輪山]]<ref name="朝日歴史人物事典"/><ref name="学研2015"/>。

{|class=wikitable style='font-size:90%'
|-
|原文||美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。
|-
|大意||美和の大物主神(大物主)は、美しい勢夜陀多良比売を見初めた。大物主は赤い矢(丹塗りの矢)に姿を変え、勢夜陀多良比売が大便しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、ほと(陰所)を突いた<ref name="朝日歴史人物事典"/><ref name="神道大辞典-勢夜姫"/>。
|}

{|class=wikitable style='font-size:90%'
|-
|原文||爾其美人驚而、立走伊須須岐伎、乃將來其矢、置於床邊、忽成麗壯夫、卽娶其美人生子
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|大意||驚いた勢夜陀多良比売が、立ち上がって、その矢を自分の部屋に持ち帰り、床に置くと、たちまち美男子の姿になった。そして(二人は結ばれ)勢夜陀多良比売は子を産んだ<ref name="朝日歴史人物事典"/><ref name="神道大辞典-勢夜姫"/>。
|}

この子は「'''富登多多良伊須須岐比売'''(ホトタタライススキヒメ)」と名付けられた。これは「ホトを突かれてびっくりして生まれた子」の意とされる<ref name="朝日歴史人物事典"/>。。母親に似て美女であったともいう<ref name="日本神名辞典-比売"/>。

しかし本人は、「ホト」を嫌って「'''比売多多良伊須気余理比売'''(ヒメタタライスケヨリヒメ)」に名を改めた<ref name="朝日歴史人物事典"/>。

===名前に関する諸説===
当初の名前である「ホトタタラ」は、母の勢夜陀多良比売が陰部を矢で突かれたという説話に由来し、「陰元立(ほとたたら)」の意など、「立つ」の派生形とみる解釈がある<ref name="神道大辞典"/><ref name="朝日歴史人物事典"/>。あとから、この「ホト」を嫌って「ヒメ」へ改めたという<ref name="神道大辞典"/>。これとは別に、「タタラ」は母の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)から名の一部を受け継いだものとする説などもある。また「イススキ」は「驚いて立ち去る」の意だとされ、これを言い換えたのが「イスケ」とされる<ref name="神道大辞典"/>。

一方、名に含まれる「タタラ」は製鉄との繋がりを示唆するという解釈があり、神武天皇がヒメタタライスズヒメを嫁としたことは、政権が当時の重要技術である製鉄技術を押さえたことの象徴であるとする説がある<ref name="小路田2005"/>。詳細は[[#たたら製鉄との関連]]参照。

「イスズ(五十鈴)」は鈴を意味し、たくさんの鈴で手足を飾っているものを指すという説や<ref name="学研2015"/>、金属加工との関連を示唆するものとみるむきもある。これらとは異なり、元の名の「イススキ」が「イスズ」に転訛したと考える説もある<ref name="神道大辞典"/>。

「ヨリ」は「ヨロシ(宜)」とする説や<ref name="神道大辞典"/>、[[ユリ]]の花に通じ、ヒメタタライスズヒメ(イスケヨリヒメ)の実家である[[三輪山]]の麓の[[狭井川]]川岸に咲く[[ササユリ]]を指すとの解釈もある<ref name="ヒメたち98"/>。

==神武天皇の妻問い説話==
神武天皇は即位に先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになった。このとき、ヒムカ国からイワレヒコ(神武天皇)に付き従ってきた家臣である[[大久米命]]が、后候補として推挙したのがイスケヨリヒメ(ヒメタタライスズヒメ)だった<ref name="読み解き事典"/><ref name="学研2015"/>。『古事記』では、大久米命がイスケヨリヒメの出生の逸話について神武天皇に説明し、「神の御子」であるイスケヨリヒメこそ正后に値すると説く<ref name="ヒメたち94"/><ref name="学研2015"/>。

『古事記』には、7人の女性が[[狭井川]]の岸辺にいるところを神武天皇と大久米命が目撃し、その中から后を選んだという逸話が掲載されている<ref name="神道大辞典"/>。この際、神武天皇と大久米命、イスケヨリヒメとのあいだで歌を交わすやりとりは、神武天皇の「妻問い説話」としてよく知られている<ref name="平凡地名-狭井河"/><ref name="ヒメたち98"/>。

{| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;"
|-
|{{ruby|夜麻登能|やまとの}} {{ruby|多加佐士怒袁|たかさじぬを}} {{ruby|那那由久|ななゆく}} {{ruby|袁登賣杼母|をとめども}} {{ruby|多禮袁志摩加牟|たれをしまかむ}}
|-
|[[大和|倭]]の高佐士野(たかさじぬ)を七行く媛女ども誰をしまかむ<ref name="ヒメたち98"/>
|-
|(大意)大和国の川の畔の高台をゆく7人の乙女のうち誰を妻とするか<ref name="ヒメたち98"/>
|}

「高佐士野」は、[[狭井川]]沿いの台地を指している<ref name="ヒメたち98"/>。狭井川は[[三輪山]]を源とする小川で、[[大神神社]]境内ちかくを流れる<ref name="角川地名-狭井川"/>。[[大和川]](初瀬川)に合流する手前では[[天井川]]となって川岸が高くなっている<ref name="角川地名-狭井川"/>。

{| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;"
|-
|{{ruby|加都賀都母|かつがつも}} {{ruby|伊夜佐岐陀弖流|いやさきだてる}} {{ruby|延袁斯麻加牟|えをしまかむ}}
|-
|かつがつも いや先立てる 兄をしまかむ<ref name="ヒメたち98"/>
|-
|(大意)先頭をいく年長者(イスケヨリヒメ)にしよう<ref name="ヒメたち98"/>
|}

この神武天皇の意を受けて、大久米命はイスケヨリヒメに会いに行く。するとイスケヨリヒメは、見慣れない風貌の大久米命に驚きこう答える<ref name="奈良県庁-狭井河"/>。  

{| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;"
|-
|{{ruby|阿米都都|あめつつ}} {{ruby|知杼理麻斯登登|ちどりましとと}} {{ruby|那杼佐祁流斗米|などさけるとめ}}
|-
|天地 千鳥真鵐 など[[黥]]ける利目
|-
|(大意)あなたはなぜ、いろいろな鳥のように目のまわりに入れ墨をして、鋭い目つきをしているのですか。<ref name="奈良県庁-狭井河"/>
|}

これに対し大久米命は次のように返す。

{| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;"
|-
|{{ruby|袁登賣爾|をとめに}} {{ruby|多陀爾阿波牟登|ただにあはむと}} {{ruby|和加佐祁流斗米|わがさけるとめ}}
|-
|媛女に 直に逢わんと 我が[[黥]]ける利目
|-
|(大意)あなたのことを直接よくみるために、鋭い目つきをしているのです。<ref name="奈良県庁-狭井河"/>
|}

このあと、イスケヨリヒメは嫁入りを承諾する。神武天皇は「佐韋河([[狭井川]])の上」にあるイスケヨリヒメの家に行って一泊する。このときの様子は次のように詠まれている<ref name="奈良県庁-狭井河"/>。

{| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;"
|-
|{{ruby|阿斯波良能|あしはらの}} {{ruby|志祁志岐袁夜邇|しねしきをやに}} {{ruby|須賀多多美|すかたたみ}} {{ruby|伊夜佐夜斯岐弖|いやさやしきて}} {{ruby|和賀布多理泥斯|わかふたりねし}}
|-
|[[葦原]]の 穢しき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し<ref name="ヒメたち98"/>
|-
|(大意)河原の草むらにあるむさ苦しい小屋に[[スゲ]]の畳をきれいに敷いて、二人で寝た<ref name="ヒメたち98"/><ref name="奈良県庁-狭井河"/>
|}

この部分には、狭井川の地名の由来に関する注釈がある。この辺りには「山由里草」(ヤマユリ、実際には[[ササユリ]]のこと)が多く、ヤマユリの異称を「佐韋」というので、この川を「佐韋河(狭井川)」と呼ぶとある<ref name="平凡地名-狭井河"/><ref name="角川地名-狭井川"/>。現代の狭井川の右岸には「神武天皇聖蹟狭井河顕彰碑」が設置されている<ref name="角川地名-狭井川"/>。

==たたら製鉄との関連==
ヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)の名前のうち「タタラ」の部分を、[[たたら製鉄]]と結びつけて解釈し、古代日本における製鉄を示すものとする説がある<ref name="鈴本1979"/><ref name="小路田2005"/><ref name="学研2015"/>{{refnest|group="注"|『日本書紀』での名前表記に用いられている「鞴」の字は製鉄で用いる[[ふいご]]を指す<ref name="小路田2005"/>。}}{{refnest|group="注"|近代日本([[第二次世界大戦]]集結以前)には、日本における製鉄の起源は神代の時代にさかのぼるとされてきた<ref name="鈴本1979"/>。『日本書紀』や『古事記』には、[[天照大神]]が[[天岩戸]]に隠れた際に、「天香山(日本書紀)」ないし「天金山(古事記)」の鉄を用いて金属加工が行われたとのエピソードがある<ref name="鈴本1979"/><ref name="進藤1975"/>。現代では、製鉄技術は中国大陸から稲作とともに伝来したとみるのが一般的とされているものの<ref name="進藤1975"/>、考古学的な証拠研究は十分ではなく<ref name="進藤1975"/>、その起源や年代についての定説は確立されていない<ref name="鈴本1979"/>。文献史料的には、8世紀の『[[出雲国風土記]]』に製鉄が具体的に詳述されており、この時期にはすでに定着していただろうと考えられている<ref name="鈴本1979"/>。}}{{refnest|group="注"|鈴本禎一([[日本化学会]])は、5世紀初め頃のものという巨大な[[仁徳天皇陵]]は、鉄製の道具の確立によって建設可能となったものだろうとして、当時の[[大和朝廷]]が[[たたら製鉄]]の技術を確保していたのだろうとしている<ref name="鈴本1979"/>。[[東奈良遺跡]]([[大阪府]][[茨木市]])からはフイゴが出土しており、これと大和朝廷の製鉄と結びつける者もいる<ref name="吉野1975"/>。この東奈良遺跡(1971年発見)では[[銅鐸]]やその鋳型などが出土しており、銅鐸が作られていたことは確実視されている<ref name="ブリタニカ-東奈良遺跡"/>。}}。

[[小路田泰直]]([[奈良女子大学]])によれば、タタラはたたら炉のことであり、「ホト」は陰部を指すとともに火床のことでもある<ref name="小路田2005"/>{{refnest|group="注"|「ホト」は「溶鉱炉」を指すとも<ref name="吉野1975"/>。}}。すなわち、神武天皇がヒメタタライスズヒメ(=ヒメタタライスケヨリヒメ=ホトタタライススキヒメ)を妻に迎えたというのは、王家が製鉄産業を牛耳ったことを示すものと解釈される<ref name="小路田2005"/>。吉野裕([[日本文学協会]])は、「ホトタタライスケヨリヒメ」という名は溶鉱の神・溶鉱炉に仕える巫女を指すとしている<ref name="吉野1975"/>。

[[本居宣長]]をはじめとする近世の[[国学者]]らは、ヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)の「タタラ」をふいごの意味とは解釈しなかった<ref name="吉野1975"/>。彼らの考えによれば、「タタラ」という語は鍛冶師が使う俗語であり、高貴な皇妃の名に用いるような語としてふさわしくないものとして製鉄との結びつきを退けられるという<ref name="吉野1975"/>。「タタラ」は「立つ」の派生形とみて、「(陰部に矢を当てられ驚いて)立ち上がった」や「(陰部に)矢を立てられた」の意とする解釈もある<ref name="神道大辞典"/><ref name="朝日歴史人物事典"/>。

==信仰の対象==
[[明治天皇]]が1890年(明治23年)に創建した[[橿原神宮]]では、主祭神として神武天皇とヒメタタライスズヒメが祀られている<ref name="神道大辞典"/><ref name="日本神名辞典-比売"/>。

また、ヒメタタライスズヒメは、子供を救ったことから「子守明神」として崇められるようになり、[[率川神社]](奈良県奈良市本子守町)では主神として祀られている<ref name="ヒメたち98"/>{{refnest|group="注"|[[率川神社]]は、ヒメタタライスズヒメの故郷の地とされる三輪山・[[大神神社]]の摂社となっている<ref name="ヒメたち98"/>。}}。率川神社では例年6月に「三枝祭」(通称:ゆり祭り)があり、三輪山で栽培されたササユリを供えてヒメタタライスズヒメを祀る<ref name="ヒメたち98"/>。

ヒメタタライスズヒメの実家があったという[[狭井川]]の上流部には[[狭井神社]]がある。ここでは大神荒魂神を主祭神としつつ、ヒメタタライスズヒメや[[大物主神]](『古事記』によるヒメタタライスケヨリヒメの父)、[[玉櫛媛|勢夜陀多良比売]](『古事記』によるヒメタタライスケヨリヒメの母)、[[事代主神]](『日本書紀』によるヒメタタライスズヒメの父)を祀っている<ref name="平凡地名-狭井神社"/>。

このほか、津森神宮([[熊本県]][[上益城郡]][[益城町]])、[[甲佐神社]](熊本県上益城郡[[甲佐町]])で祀られている<ref name="神仏の辞典-姫"/>。

==脚注==
===『日本書紀』原文===
<references group="紀"/>
===『古事記』原文===
<references group="記"/>
===注釈===
<references group="注"/>
===出典===
{{Reflist|colwidth=30em
|refs=

<!--神話・神道関係-->

*<ref name="神道大辞典">『神道大辞典(縮刷版)』p1227「ヒメタタライスズヒメノミコト」</ref>
*<ref name="神道大辞典-勢夜姫">『神道大辞典(縮刷版)』p861「セヤダタラヒメ」</ref>

*<ref name="日本神名辞典-比売">『日本神名辞典』p320「比売多多良伊須気余理比売」</ref>
*<ref name="日本神名辞典-姫">『日本神名辞典』p320「姫蹈韛五十鈴姫命」</ref>
*<ref name="日本神名辞典-富登">『日本神名辞典』p335「富登多多良伊須須岐比売命」</ref>
*<ref name="日本神名辞典-多芸">『日本神名辞典』p235「多芸志美美命」</ref>
*<ref name="日本神名辞典-岐須">『日本神名辞典』p151「岐須美美命」</ref>

*<ref name="日本神話事典-異類婚">『日本神話事典』p57-58「異類婚」</ref>

*<ref name="神仏の辞典-比売">『日本の神仏の辞典』p1094「ひめたたらいすけよりひめのみこと」</ref>
*<ref name="神仏の辞典-富登">『日本の神仏の辞典』p1164「ほとたたらいすすきひめのみこと」</ref>
*<ref name="神仏の辞典-姫">『日本の神仏の辞典』p1094「ひめたたらいすずひめのみこと」</ref>

*<ref name="古代神祇-いすけ">『日本古代神祇事典』p702「ひめたたらいすけよりひめ(比売多多良伊須気餘理比売)」</ref>
*<ref name="古代神祇-いすず姫">『日本古代神祇事典』p702「ひめたたらすずひめのみこと(姫蹈韛五十鈴姫命)」</ref>
*<ref name="古代神祇-いすず媛">『日本古代神祇事典』p702-703「ひめたたらいすけよりひめ(媛蹈韛五十鈴媛命)」</ref>
*<ref name="古代神祇-ほと">『日本古代神祇事典』p730「ほとたたらいすすきひめのみこと(富登多多良伊須須岐比売命)」</ref>

*<ref name="読み解き事典">『日本の神様読み解き事典』p199-200「富登多多良伊須須岐比売命/比売多多良伊須気余理比売命/媛蹈鞴五十鈴媛命」</ref>
*<ref name="読み解き事典-阿比良">『日本の神様読み解き事典』p40-41「阿比良比売/吾平津媛」</ref>
*<ref name="読み解き事典-多芸志美美">『日本の神様読み解き事典』p152-153「多芸志美美命/手研耳命」</ref>

*<ref name="学研2015">『古事記と日本の神々がわかる本』p90-91「イスケヨリヒメの物語」</ref>

*<ref name="ヒメたち94">『神話の中のヒメたち もうひとつの古事記』p94-97「初代皇后は「神の御子」」</ref>
*<ref name="ヒメたち98">『神話の中のヒメたち もうひとつの古事記』p98-101「歌で御子救った初代皇后」」</ref>

*<ref name="大辞林-大物主">『[[大辞林|大辞林 第三版]]』,[[三省堂]],「大物主神」[https://kotobank.jp/word/大物主神-450980 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref>

*<ref name="ニッポニカ-大物主">『[[日本大百科全書|日本大百科全書(ニッポニカ)]]』,[[小学館]],1984-1994,「大物主神」[https://kotobank.jp/word/大物主神-450980 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref>

*<ref name="朝日人物-大物主">『朝日日本歴史人物事典』,[[朝日新聞社]],1994,「大物主神」[https://kotobank.jp/word/大物主神-450980 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref>


<!--皇室関係-->
*<ref name="歴代天皇紀-神武">『図説 歴代天皇紀』p37-41「神武天皇」</ref>
*<ref name="歴代天皇紀-綏靖">『図説 歴代天皇紀』p42-43「綏靖天皇」</ref>

*<ref name="系図-61">『系図纂要』新版 第1冊上 神皇(1),p61-63</ref>

*<ref name="歴代皇后-神武">『歴代皇后人物系譜総覧』,p26-27「初代 神武天皇 皇后 媛蹈韛五十鈴媛命」</ref>

<!--歴史人名関係-->

*<ref name="新撰大人名辞典">『日本人名大事典(新撰大人名辞典)』p262「ヒメタタライスズヒメノミコト」</ref>
*<ref name="女性人名辞典">『日本女性人名辞典 普及版』p876「媛蹈鞴五十鈴媛命」</ref>
*<ref name="よみかた">『日本史人名よみかた辞典』p925</ref>
*<ref name="古代氏族">『日本古代氏族人名辞典 普及版』p504</ref>

*<ref name="日本人名大辞典+">『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』,[[講談社]],2015,「媛蹈韛五十鈴媛命」[https://kotobank.jp/word/媛蹈韛五十鈴媛命-1122692 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref>

*<ref name="朝日歴史人物事典">『朝日日本歴史人物事典』,[[朝日新聞社]],1994,「姫踏鞴五十鈴媛命」[https://kotobank.jp/word/姫踏鞴五十鈴媛命-1137357 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref>

*<ref name="ブリタニカ-神武">『[[ブリタニカ国際大百科事典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]』,2014,「神武天皇」[https://kotobank.jp/word/神武天皇-82633 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref>

*<ref name="ニッポニカ-神武">『[[日本大百科全書|日本大百科全書(ニッポニカ)]]』,[[小学館]],1984-1994,「神武天皇」[https://kotobank.jp/word/神武天皇-82633 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref>

<!--各種論文-->

*<ref name="山﨑2013">山﨑かおり、「[https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.62.2_1 伊須気余理比売の誕生 -神武記丹塗矢伝承の背景-]」 『日本文学』 2013年 62巻 2号 p.1-11, {{doi|10.20620/nihonbungaku.62.2_1}} , 2018年7月30日閲覧。</ref>

<!--製鉄-->
*<ref name="吉野1975">吉野裕,[https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.24.8_75 「タタラと大田田根子の話(其蜩庵雑草 III)」] 『日本文学』 1975年 24巻 8号 p.75-83, {{doi|10.20620/nihonbungaku.24.8_75}}, 2018年7月30日閲覧。</ref>

*<ref name="進藤1975">進藤義彦([[亜細亜大学]]アジア研究所),[http://id.nii.ac.jp/1385/00013673/ 「古代日本の鉄器文化の源流に関する一考察」] 1975年 『亜細亜大学教養部紀要』12, 99-118, 2018年7月30日閲覧。</ref>

*<ref name="鈴本1979">鈴本禎一([[日本化学会]]),[https://doi.org/10.20665/kagakukyouiku.27.1_24 「たたら製鉄と和鋼記念館」] 1979年 『化学教育』1979年27巻1号 24-27, {{doi|10.20665/kagakukyouiku.27.1_24}}, 2018年7月30日閲覧。</ref>

*<ref name="小路田2005">[[小路田泰直]]([[奈良女子大学]]・歴史学),{{PDFlink|[http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/433/1/20080522_2.pdf 「「古事記」「日本書紀」の語る日本国家形成史 : 火と鉄の視点から」]}},2005年(『日本史の方法』第2号pp.145-168), 2018年7月30日閲覧。</ref>

*<ref name="ブリタニカ-東奈良遺跡">『[[ブリタニカ国際大百科事典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]』,2014,「東奈良遺跡」[https://kotobank.jp/word/東奈良遺跡-119134 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref>

<!--地理関係-->
*<ref name="角川地名-狭井川">『角川日本地名大辞典29 奈良県』p482-483「狭井川」</ref>
*<ref name="平凡地名-狭井河">『日本歴史地名大系30奈良県の地名』p436「狭井河」</ref>
*<ref name="平凡地名-狭井神社">『日本歴史地名大系30奈良県の地名』p435-436「狭井神社」</ref>

*<ref name="奈良県庁-狭井河">奈良県庁 地域振興部 文化資源活用課,[http://www3.pref.nara.jp/miryoku/narakikimanyo/manabu/story/story07/ 第7話「狭井河の出会い」],2018年8月2日閲覧。</ref>

}}
===書誌情報===
*『[[神道大辞典]](縮刷版)』,[[下中弥三郎]]/編,[[平凡社]],1937,1986(復刻版),ISBN 4-653-01347-0
*『日本神名辞典』,[[神社新報|神社新報社]],1994,1995(第2版),ISBN 4-915265-66-8
*『日本神話事典』,[[大林太良]]・[[吉田敦彦]]/監,[[大和書房]],1997,ISBN 4-479-84043-5
*『日本の神仏の辞典』,大島健彦・[[薗田稔]]・[[圭室文雄]]・[[山本節]]/編,[[大修館書店]],2001,ISBN 4-469-01268-8
*『日本古代神祇事典』,吉田和典/編,中日出版社,2000,ISBN 4-88519-158-0

*『神話の中のヒメたち もうひとつの古事記』,[[産経新聞]]取材班,[[産経新聞社]],2018,ISBN 978-4-8191-1336-6
*『日本の神様読み解き事典』,川口謙二/編著,[[柏書房]],1999,2009(第9刷),ISBN 4-7601-1824-1
*『古事記と日本の神々がわかる本』,吉田邦博/著,[[学研パブリッシング]],2015,ISBN 978-4-05-406340-2

*『図説 歴代天皇紀』,[[水戸部正男]]/編著,[[肥後和男]]・[[赤木志津子]]・[[福地重孝]]/著,[[秋田書店]],1989,ISBN 4-253-00297-8
*『系図纂要』新版 第1冊上 神皇(1),[[岩澤愿彦]]/監,名著出版,1996,ISBN 4-626-01541-7
*『歴代皇后人物系譜総覧』(別冊歴史読本24 第27巻29号・通巻618),佐藤實/編,[[新人物往来社]],2002

*『日本人名大事典(新撰大人名辞典)』第五巻,下中邦彦/編,平凡社,1938,1979(復刻版)
*『日本女性人名辞典 普及版』,[[芳賀登]]・[[一番ヶ瀬康子]]・[[中嶌邦]]・[[祖田浩一]]/監,[[日本図書センター]],1998,ISBN 4-8205-7881-2
*『日本史人名よみかた辞典』,[[日外アソシエーツ]],1999,ISBN 4-8169-1527-3
*『日本古代氏族人名辞典 普及版』,[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]・[[平野邦雄]],[[吉川弘文館]],1990,2010(普及版第一版),ISBN 978-4-642-01458-8

*『[[日本歴史地名大系|日本歴史地名大系30奈良県の地名]]』,平凡社,1981
*『[[角川日本地名大辞典]]29 奈良県』,角川日本地名大辞典編纂委員会・[[竹内理三]]・編,[[角川書店]],1990,ISBN 4-04-001290-9

==関連項目==
* [[五十鈴依媛命]]
* [[率川神社]]

{{歴代皇后一覧}}
{{歴代日本の皇太后一覧}}

{{DEFAULTSORT:ヒメタタライスケヨリヒメ}}
[[Category:日本神話]]
[[Category:賀茂氏系]]

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