<blockquote>猿田彦と八岐大蛇(ヤマタノオロチ 記では高志之八俣遠呂智 コシノヤマタノオロチ)が単に「ヤチマタノ神」を「ヤチマタノオロチ→ヤマタノオロチ」と言い換えただけの話で同じものだというのは案外知られていない。
要は「岐」を八岐大蛇のように「マタ」と読むか、猿田彦のように「チマタ」と読むかの違いで別の話に置き換えている。例えば猿田彦や八岐大蛇が『日本書紀』神代にどう記述されているのか見れば良く分かるのだが、『日本書紀』の巻が第一神代上(八岐大蛇)と第二神代下(猿田彦)に分かれている為に気が付かないのかも知れない。<br /><br />
『日本書紀』巻第一 神代上 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の段<br />
至期果有大蛇、頭尾各有八岐、眼如赤酸醤赤酸醤、此云阿箇箇鵝知、松柏生於背上而蔓延於八丘八谷之間。及至得酒、頭各一槽飲、醉而睡。時、素戔嗚尊、乃拔所帶十握劒、寸斬其蛇。至尾劒刃少缺、故割裂其尾視之、中有一劒、此所謂草薙劒也<br />
……頭と尾はそれぞれ八つに分かれ、眼は赤酸醤(あかかがち)のようで、背中には松や柏が生え、八つの丘、八つの谷の間に延びていた……<br />
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『日本書紀』巻第二 神代下 猿田彦(サルタヒコ)の段<br />
有一神、居天八達之衢。其鼻長七咫、背長七尺餘、當言七尋。且口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然似赤酸醤也<br />
……天八達之衢(アマノヤチマタ)に住み、鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)目は八咫鏡(やたのかがみ)のごとく、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いている<br /><br />
※松栢…高句麗では古墳の封土に松柏を植える。度々飢饉に悩まされていた高句麗は遠く現在の玉名に食糧基地を作り本国まで運んでいた。これを狗奴国(クナコク)といい高句麗系一族の筑紫家の船山古墳や虚空蔵塚古墳(コクンゾヅカコフン)にも少々育ち過ぎだが木が植えてある。但し、松柏かどうかは不明。木に詳しい方が居られれば判定して頂きたい。<br />
※赤酸醤(あかかがち)…赤ホウズキのこと<ref>[https://blog.goo.ne.jp/kawakami23takeru/e/9c05e4a5e6053454a191324db1fa251d 八岐大蛇]、日本書記、19-01-12(最終閲覧日:22-09-21)</ref></blockquote>
※松栢…高句麗では古墳の封土に松柏を植える。度々飢饉に悩まされていた高句麗は遠く現在の玉名に食糧基地を作り本国まで運んでいた。これを狗奴国(クナコク)といい高句麗系一族の筑紫家の船山古墳や虚空蔵塚古墳(コクンゾヅカコフン)にも少々育ち過ぎだが木が植えてある。但し、松柏かどうかは不明。木に詳しい方が居られれば判定して頂きたい。<br />※赤酸醤(あかかがち)…赤ホウズキのこと<ref>[https://blog.goo.ne.jp/kawakami23takeru/e/9c05e4a5e6053454a191324db1fa251d 八岐大蛇]、日本書記、19-01-12(最終閲覧日:22-09-21)</ref><ref group="私注">非常に興味深い説なので、ここで紹介させて頂く。何故なら、猿田彦と八岐大蛇が同じものであるのなら、「オロチ」とは「ウーチーチー(Wuzhiqi)」を写した言葉ではないか、と思うからである。須佐之男とは、無支祁を倒した禹から変化した可能性のある神なのではないだろうか。</ref></blockquote>
== 参考文献 ==