帝堯の時代に、禹は治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜に推挙される形で、黄河の治水にあたった。父の鯀は堤防を固定し、高地を削って低地を埋める「湮」と呼ばれる方法を用いた<ref name="uemura3">植村善博, 禹王と治水の地域史, 古今書院, 2019, page3</ref>。しかし、鯀は9年経っても成果を上げることができなかった<ref name="uemura2" />。子の禹は放水路を作って排水を行う「導」と「疏」と呼ばれる方法を用いて黄河の治水に成功したという<ref name="uemura3" />。
『列子』楊朱第七によれば、このとき仕事に打ち込みすぎ、身体が半身不随になり、手足はひび・あかぎれだらけになったという。しかしこの伝説は、元来存在した「禹は偏枯なり」という描写を後世に合理的に解釈した結果うまれた物語だとされる。『荘子』盗跖篇巻第二十九には「堯は不慈、舜は不孝、禹は偏枯」とあり『荀子』巻第三非相篇第五には「禹は跳び、湯は偏し」とある。白川静は『山海経』にみえる魚に「偏枯」という表現が使われていることから、禹は当初は魚の姿をした神格だったという仮説を立てた。『列子』楊朱第七によれば、このとき仕事に打ち込みすぎ、身体が半身不随になり、手足はひび・あかぎれだらけになったという。しかしこの伝説は、元来存在した「禹は偏枯なり」という描写を後世に合理的に解釈した結果うまれた物語だとされる。『荘子』盗跖篇巻第二十九には「堯は不慈、舜は不孝、禹は偏枯」とあり『荀子』巻第三非相篇第五には「禹は跳び、湯は偏し」とある。白川静は『山海経』にみえる魚に「偏枯」という表現が使われていることから、禹は当初は魚の姿をした神格だったという仮説を立てた<ref group="私注">白川の説は興味深く感じる。古代メソポタミアにはエンキという魚の姿をした川の神が存在する。</ref>。
そしてこの「偏枯」という特徴を真似たとされる歩行方法が'''禹歩'''であり、半身不随でよろめくように、または片脚で跳ぶように歩く身体技法のことを言う。禹歩は[[道教]]や中国の民間信仰の儀式において巫者が実践したやり方であり、これによって雨を降らすことができるとか岩を動かすことができるとか伝えられている。日本の呪術的な身体技法である[[反閇]](へんばい)も『[[下学集]]』などの中世の辞書では禹歩と同一視されているが、必ずしも同じであったわけではないらしい。