== 日本における檀君研究史 ==
[[1667年]]に[[徳川光圀]]の命で刊行された『[[東国通鑑]]』の和刻版の序文で[[林鵞峰]]は、檀君を朝鮮の祖としながらも、[[スサノオ|素戔烏尊]]を[[三韓]]の一祖として、日本と朝鮮を同一視する1667年に徳川光圀の命で刊行された『東国通鑑』の和刻版の序文で林鵞峰は、檀君を朝鮮の祖としながらも、素戔烏尊を三韓の一祖として、日本と朝鮮を同一視する<ref name="北山祥子117"/>。これによって[[江戸時代]]には、檀君=[[スサノオ|素戔烏尊]]という主張が多くみられる。これによって江戸時代には、檀君=素戔烏尊という主張が多くみられる<ref name="北山祥子117">{{Harvnb|北山祥子|, 2021|p, p117</ref><ref group=117}}"私注">「同一視」ではなく、比較神話の観点から見れば、天から地上に降りた須佐之男に相当するのは檀君の父親の桓雄であると思う。</ref>。
[[落合直澄]]は、「五十猛神ト檀君トハ同神ニシテ素盞鳴神ノ御子ナル」と述べており、檀君を[[スサノオ|素盞嗚神]]の息子である[[五十猛神]]と主張している。[[1667年]]に刊行された和刻版『東国通鑑』に、[[林鵞峰]]が書いた序文「鴻荒の世に在りて、檀君、其の国を開く…我が国史を言えば、これ則ち韓郷の島新羅の国また是れ素戔烏尊の経歴する所なり。尊の雄偉、朴赫・[[東明聖王|朱蒙]]・温祚が企て及ぶ可きに非るときは、則ち推め[[三韓]]のこれ一祖と為せんもまた、誣しいたりとか為せざらんか」とあることから、[[落合直澄]]の「檀君=素盞鳴神の息子五十猛神」という主張は、林鵞峰の「素盞鳴神=三韓の一祖」から導き出したとみられる<ref name="北山祥子77-78"/>。[[落合直澄]]は、[[江戸時代]]の史書『[[日本春秋]]』において、朝鮮では「伊檀君曽(いたきそ)」が檀君を指し、檀君の別称が「[[新羅明神]]」「日韓神」としていることを根拠に、檀君を「太祈(たき)」と称し、五十猛神の別称が「伊太祈曽」「韓神曽保利」であることから、檀君と五十猛神は同一神であると主張した<ref name="北山祥子77-78">{{Harvnb|北山祥子|2021|p=77-78}}</ref>。