「ミャオ族」の版間の差分

提供: Bellis Wiki3
ナビゲーションに移動 検索に移動
14行目: 14行目:
  
 
=== 中国国内のミャオ族 ===
 
=== 中国国内のミャオ族 ===
中国国内での総人口は894万116人に達し、中国の少数民族としては、[[チワン族]](約1,617万人)、[[満州民族|満州族]](1,068万人)、[[回族]](981万人)に次ぎ四番目である。居住地域別人口は多い順番に並べると、[[貴州省]](429万9,954人)、[[湖南省]](192万1,495人)、[[雲南省]](104万3,535人)、[[重慶市]](50万2,421人)、[[広西チワン族自治区]](46万2,956人)、[[湖北省]](21万4,266人)、[[四川省]](14万7,526人)、[[広東省]](12万606人)、[[海南省]](6万1,264人)、[[浙江省]](5万3,418人)、[[江蘇省]](2万2,246人)、[[福建省]](2万2,065人)などである。山間盆地や斜面に集落を営む山地民である。焼畑を営んで陸稲や畑作物を作って移動を繰り返してきた人々と、[[棚田]]を巧妙に作って水稲稲作を行う定着した人々がいる。ただし、中国国内の「苗族」は、1949年の中華人民共和国の成立後に、民族識別調査を行った結果、政府から公認された「創られた民族」であり、政治的な統制と支配を行うための社会制度としての性格もある。
+
山間盆地や斜面に集落を営む山地民である。焼畑を営んで陸稲や畑作物を作って移動を繰り返してきた人々と、棚田を巧妙に作って'''水稲稲作を行う'''定着した人々がいる。ただし、中国国内の「苗族」は、1949年の中華人民共和国の成立後に、民族識別調査を行った結果、政府から公認された「創られた民族」であり、政治的な統制と支配を行うための社会制度としての性格もある。
  
 
中国国内のミャオ族は漢・蔵(チベット)語族、苗・瑶(ヤオ)語派に属し、三つの方言集団に分かれ、各々の「自称」が異なる。湖南省西部のコーション (Qo xiong)、貴州省東南部のムー (Hmub)、貴州省西部と雲南省のモン (Hmong) である。従来は女性の服飾の色や文様に基づいて、黒苗・白苗・青苗・紅苗・花苗などと区別されることが多く、清代には『苗蛮図冊』などの図録が作成されて、当時の漢族の苗族観を知ることが出来る。地域で言えば、湖南西部(湘西)は紅苗、貴州東南部(黔東南)は黒苗、貴州西部(黔西)から雲南(文山、屏辺)では花苗・白苗・青苗などと呼ばれる。黒苗もスカートの長短から長裙苗と短裙苗に分かれる。後者の自称はガノォウ (Ghab nao) である。漢語表記の「苗族」は、各集団の自称に近い「総称」であり、民族識別によって多様な人々が「苗族」の名称でまとめられた<ref>鈴木正崇・金丸良子『西南中国の少数民族ー貴州省苗族民俗誌ー』古今書院 / [[1985年]]</ref>。
 
中国国内のミャオ族は漢・蔵(チベット)語族、苗・瑶(ヤオ)語派に属し、三つの方言集団に分かれ、各々の「自称」が異なる。湖南省西部のコーション (Qo xiong)、貴州省東南部のムー (Hmub)、貴州省西部と雲南省のモン (Hmong) である。従来は女性の服飾の色や文様に基づいて、黒苗・白苗・青苗・紅苗・花苗などと区別されることが多く、清代には『苗蛮図冊』などの図録が作成されて、当時の漢族の苗族観を知ることが出来る。地域で言えば、湖南西部(湘西)は紅苗、貴州東南部(黔東南)は黒苗、貴州西部(黔西)から雲南(文山、屏辺)では花苗・白苗・青苗などと呼ばれる。黒苗もスカートの長短から長裙苗と短裙苗に分かれる。後者の自称はガノォウ (Ghab nao) である。漢語表記の「苗族」は、各集団の自称に近い「総称」であり、民族識別によって多様な人々が「苗族」の名称でまとめられた<ref>鈴木正崇・金丸良子『西南中国の少数民族ー貴州省苗族民俗誌ー』古今書院 / [[1985年]]</ref>。
 
民族識別は1953年に始まり、54年に38の少数民族を確定し、65年に15、1982年に2つの少数民族が加わり、現在の中国は55の少数民族と圧倒的多数の漢族という総計56の民族から構成される多民族国家とされている。民族識別は、スターリンが提唱した言語、地域、経済生活、文化に現われる心理素質の4つの共通性が基準とされたが、問題点も多い。中国における「民族」概念は政治性を帯びており「創られた民族」の性格が強い。中国国内のミャオ族について考える場合、中国の古代~近代の歴史文献上で「苗」と記述されている人々と、1949年中華人民共和国成立以降の民族識別で「苗族」と認定された人々とを区別して論じる必要がある。
 
  
 
現在のミャオ族は山地で常畑や焼畑を営む人々と、盆地や平野で水稲耕作を営む人々に分かれる。分布は広域にわたり、他民族と高度を住み分けたり、雑居する場合もある。焼畑を営む人々は移動がさかんで山伝いに移住した結果、現在のラオス、ベトナム、タイにも同系統の言語や類似する文化を持つ人々が生活することになった。
 
現在のミャオ族は山地で常畑や焼畑を営む人々と、盆地や平野で水稲耕作を営む人々に分かれる。分布は広域にわたり、他民族と高度を住み分けたり、雑居する場合もある。焼畑を営む人々は移動がさかんで山伝いに移住した結果、現在のラオス、ベトナム、タイにも同系統の言語や類似する文化を持つ人々が生活することになった。
  
 
== インドシナ半島におけるミャオ族の分布 ==
 
== インドシナ半島におけるミャオ族の分布 ==
[[焼畑]]農耕に伴う移動に加えて、清軍の厳しい討伐や弾圧のため、[[19世紀]]には多くのモン族 ([[:en:Hmong people|Hmong]]) が[[東南アジア]]のベトナム北部・ラオス・タイ・ミャンマー(ビルマ)に移住していった。[[20世紀]]に入り[[1936年]]7月1日に実施された[[仏印]]総督府下の[[国勢調査]]では、ベトナムで7万8400人、ラオスで4万7000人のモン族が数えられた<ref>「印度支那の労働問題」国際労働局 p289</ref>。その後の各国政府統計では、[[1970年]]ベトナム北部で28万5000人、1968年ラオスで15万8000人、1965年タイで5万3000人となっている。
+
焼畑農耕に伴う移動に加えて、清軍の厳しい討伐や弾圧のため、19世紀には多くのモン族 (Hmong) が東南アジアのベトナム北部・ラオス・タイ・ミャンマー(ビルマ)に移住していった。
  
 
=== ラオス ===
 
=== ラオス ===
[[1968年]]当時のラオス政府による人口統計では全ラオス人口280万人のうち15万8000人がモン族であった<ref>Lemoine, J. (1972) Un village Hmong vert du haut Laos. Centre National de la Recherche Scientifique, Paris</ref>。[[第一次インドシナ戦争|インドシナ戦争]]時、モン族の一部は[[ベトミン]]と協力し、別の一部はフランス軍に協力した。ベトナム戦争時、ラオスの共産化を防ぐため[[アメリカ中央情報局|CIA]]がモン族の一部氏族を雇い、[[パテート・ラーオ]]と戦わせる部隊に編成した。この兵力は[[1961年]]には9000人<ref>「ベトナム秘密報告」[[ニューヨーク・タイムズ]]編 [[サイマル出版]] p149</ref>だった。最盛期の[[1967年]]にはラオス王国軍6万3000人に対し1万5000人の部隊となった<ref>「ラオスの歴史」[[上東輝夫]] [[同文館]] P137</ref>。負傷や戦死、脱走で兵力が減るとモン族以外の王国軍やタイ軍からの増援や補充人員の割合が増えた。[[1970年]]、部隊は1万2000人であったがその半数はモン族ではない王国軍・タイ軍などからの増援・補充だった<ref>NY TIMES 1970/3/17</ref>。[[1974年]]末、部隊は解散し一部は王国軍に吸収された。モン族の別の氏族はパテート・ラーオと共に戦ったので、同じ民族間でも戦った。1967年~1971年の間、右派モン族は戦死者3772人と負傷者5426人を出した<ref>Dasse, Martial (1976) Montagnards Revoltes et Guerres Revolutionnaires en Asie du Sud-Est Continentale. Bangkok: D.K. BookHouse</ref>。1962年~1975年の間、右派モン族は1万2000人が戦死した<ref>Readers Digest, October 1980, p36</ref><ref>Stuart-Fox, M. (1982) Contemporary Laos (St. Lucia: Queensland University Press) pp. 199–219</ref>。パテート・ラーオ側のモン族の死者を入れると、[[1975年]]までにモン族全体から約3万人が戦死したといわれる。ベトナムからアメリカの撤退後ラオスは共産化し、米側についたモン族の数万人が[[タイ王国|タイ]]領内に移住し、長期滞留でタイ生まれの二世人口の増加や麻薬の問題が深刻化した。[[2005年]]現在、ラオスには46万人のモン族が在住している。
+
1968年当時のラオス政府による人口統計では全ラオス人口280万人のうち15万8000人がモン族であった<ref>Lemoine, J. (1972) Un village Hmong vert du haut Laos. Centre National de la Recherche Scientifique, Paris</ref>。インドシナ戦争時、モン族の一部はベトミンと協力し、別の一部はフランス軍に協力した。ベトナム戦争時、ラオスの共産化を防ぐためCIAがモン族の一部氏族を雇い、パテート・ラーオと戦わせる部隊に編成した。この兵力は1961年には9000人<ref>「ベトナム秘密報告」ニューヨーク・タイムズ編 サイマル出版 p149</ref>だった。最盛期の1967年にはラオス王国軍6万3000人に対し1万5000人の部隊となった<ref>「ラオスの歴史」上東輝夫 同文館 P137</ref>。負傷や戦死、脱走で兵力が減るとモン族以外の王国軍やタイ軍からの増援や補充人員の割合が増えた。1970年、部隊は1万2000人であったがその半数はモン族ではない王国軍・タイ軍などからの増援・補充だった<ref>NY TIMES 1970/3/17</ref>。1974年末、部隊は解散し一部は王国軍に吸収された。モン族の別の氏族はパテート・ラーオと共に戦ったので、同じ民族間でも戦った。1967年~1971年の間、右派モン族は戦死者3772人と負傷者5426人を出した<ref>Dasse, Martial (1976) Montagnards Revoltes et Guerres Revolutionnaires en Asie du Sud-Est Continentale. Bangkok: D.K. BookHouse</ref>。1962年~1975年の間、右派モン族は1万2000人が戦死した<ref>Readers Digest, October 1980, p36</ref><ref>Stuart-Fox, M. (1982) Contemporary Laos (St. Lucia: Queensland University Press) pp. 199–219</ref>。パテート・ラーオ側のモン族の死者を入れると、1975年までにモン族全体から約3万人が戦死したといわれる。ベトナムからアメリカの撤退後ラオスは共産化し、米側についたモン族の数万人がタイ領内に移住し、長期滞留でタイ生まれの二世人口の増加や麻薬の問題が深刻化した。2005年現在、ラオスには46万人のモン族が在住している。
  
 
=== タイ ===
 
=== タイ ===

2022年8月17日 (水) 00:16時点における版

ミャオ族(苗族、拼音:Miáozú) は、中国の国内に多く居住する民族集団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいる。自称はモン族(Hmong、Hmongb)であるが、Hmongは狭義にはミャオ族の一支族に用いられる呼称である。中国では55の少数民族の一つである。

名称

「ミャオ族」は自称ではなく漢民族による他称である。中国国内では「ミャオ」と称せざるを得ないが、「ミャオ」は差別と結びついて、やや低く見られるニュアンスを伴う。中国以外の地域では主として自称モンの人々が居住しており、近年は「ミャオ/モン」と併記することが増えてきた。近年では、中国国外の人々は、総称をモン (Hmong) と表記することが多い。

タイやラオスではモン (Hmông, ม้ง, mong) で、白モンと青モンに分かれる。ベトナムではモン(H'Mông)といい、黒モン族、赤モン族、花モン族と多彩に分かれる。タイ・ベトナムではメオ (Mẹo, แม้ว, mεεo) とも呼ばれるがこれは侮蔑語である。

歴史

ミャオ族の淵源を、漢代の『書経』「舜典」記載の「三苗」や、『後漢書』西南夷伝の長沙「武陵蛮」に遡る説もあるが、現在のミャオ族との連続性は明らかではない。古代の「三苗」以降、中国の史書は長い間南方民族を「蛮」と表記し、現在に繋がるとされる文献上の「苗」の初出は、宋代の紹熙5年(1194年)、朱子が潭州(現在の長沙)に役人として赴任した際の、「苗」を「五渓蛮」の一つの「最軽捷者」とする記録(『朱子公集』巻71)である。ただし、「三苗」の国は揚子江中流域や、洞庭湖から鄱陽湖にかける地域(現在の湖南・湖北・江西)にあったとされ、現在でも貴州省のミャオ族には、先祖は江西にいた、もしくは東方の大きな川の畔や水辺にいたという口頭伝承が残っているので、相互を結びつけようとする学者や知識人が多い。恐らく、ミャオ族の先祖は、宋代以降の漢族の南下に伴って、揚子江流域から山岳内陸部に移動してきたと推定されるが、史料上で歴史的変遷を確定するのは難しい。

1995年頃からは、ミャオ族の祖先を蚩尤とする言説が急浮上した。これは、中国古代の伝説[1]に登場し、漢族の先祖とされる華夏民族の黄帝[2]と涿鹿(たくろく、現在の河北省涿鹿県付近)で争って(涿鹿の戦い)敗北した蚩尤を非漢族の代表と見なし、蚩尤と一緒に闘った九黎の子孫が南方に逃げて、後に「三苗」になったと説く。「三苗」は揚子江の中下流域にあったと推定し、北方からの漢族の圧力で、西南中国の山岳地帯に移動して、現在のミャオ族になったと主張する[3]。しかし、伝説中の「三苗」と、古代の楚や呉を構成した人々と、現在のミャオ族との関連を実証する史料は存在しない。「三苗」「苗民」「尤苗」などの記述は秦漢以前の記録にとどまり、漢代の長沙・武陵蛮などを経て、宋代に至るまで、南方の人々は「蛮」と記されている。学問的には蚩尤とミャオ族の関係は否定される要出典、2013年6月。これは費孝通が唱えた「中華民族多元一体格局」(1988年)の議論に基づいて、1990年代に「中華民族」の統合を強調する中央の学説や、1994年に中国全土に展開した漢族主体の愛国主義の運動に抗して現れた、ミャオ族の知識人による新たな対抗言説である要出典、2013年6月

文字が無く口頭伝承で歴史を伝えてきた苗族には古代と現代を結ぶ客観的史料は存在しない。しかし、民族意識の高揚に伴い、蚩尤始祖説は定説の如く語られるようになってきている。敗北した蚩尤を非漢族の英雄に祀りあげ、ミャオ族の先祖は蚩尤であるとする考えは、ミャオ族の知識人の間では定説化して、反論することができなくなっている。ミャオ族は文字を持たず、口頭伝承によって歴史を語り伝えてきたが、まさにそれゆえに、実証的な歴史とは異なる独自の歴史意識を新たに作りあげようとしている要出典、2013年6月

中国国内のミャオ族

山間盆地や斜面に集落を営む山地民である。焼畑を営んで陸稲や畑作物を作って移動を繰り返してきた人々と、棚田を巧妙に作って水稲稲作を行う定着した人々がいる。ただし、中国国内の「苗族」は、1949年の中華人民共和国の成立後に、民族識別調査を行った結果、政府から公認された「創られた民族」であり、政治的な統制と支配を行うための社会制度としての性格もある。

中国国内のミャオ族は漢・蔵(チベット)語族、苗・瑶(ヤオ)語派に属し、三つの方言集団に分かれ、各々の「自称」が異なる。湖南省西部のコーション (Qo xiong)、貴州省東南部のムー (Hmub)、貴州省西部と雲南省のモン (Hmong) である。従来は女性の服飾の色や文様に基づいて、黒苗・白苗・青苗・紅苗・花苗などと区別されることが多く、清代には『苗蛮図冊』などの図録が作成されて、当時の漢族の苗族観を知ることが出来る。地域で言えば、湖南西部(湘西)は紅苗、貴州東南部(黔東南)は黒苗、貴州西部(黔西)から雲南(文山、屏辺)では花苗・白苗・青苗などと呼ばれる。黒苗もスカートの長短から長裙苗と短裙苗に分かれる。後者の自称はガノォウ (Ghab nao) である。漢語表記の「苗族」は、各集団の自称に近い「総称」であり、民族識別によって多様な人々が「苗族」の名称でまとめられた[4]

現在のミャオ族は山地で常畑や焼畑を営む人々と、盆地や平野で水稲耕作を営む人々に分かれる。分布は広域にわたり、他民族と高度を住み分けたり、雑居する場合もある。焼畑を営む人々は移動がさかんで山伝いに移住した結果、現在のラオス、ベトナム、タイにも同系統の言語や類似する文化を持つ人々が生活することになった。

インドシナ半島におけるミャオ族の分布

焼畑農耕に伴う移動に加えて、清軍の厳しい討伐や弾圧のため、19世紀には多くのモン族 (Hmong) が東南アジアのベトナム北部・ラオス・タイ・ミャンマー(ビルマ)に移住していった。

ラオス

1968年当時のラオス政府による人口統計では全ラオス人口280万人のうち15万8000人がモン族であった[5]。インドシナ戦争時、モン族の一部はベトミンと協力し、別の一部はフランス軍に協力した。ベトナム戦争時、ラオスの共産化を防ぐためCIAがモン族の一部氏族を雇い、パテート・ラーオと戦わせる部隊に編成した。この兵力は1961年には9000人[6]だった。最盛期の1967年にはラオス王国軍6万3000人に対し1万5000人の部隊となった[7]。負傷や戦死、脱走で兵力が減るとモン族以外の王国軍やタイ軍からの増援や補充人員の割合が増えた。1970年、部隊は1万2000人であったがその半数はモン族ではない王国軍・タイ軍などからの増援・補充だった[8]。1974年末、部隊は解散し一部は王国軍に吸収された。モン族の別の氏族はパテート・ラーオと共に戦ったので、同じ民族間でも戦った。1967年~1971年の間、右派モン族は戦死者3772人と負傷者5426人を出した[9]。1962年~1975年の間、右派モン族は1万2000人が戦死した[10][11]。パテート・ラーオ側のモン族の死者を入れると、1975年までにモン族全体から約3万人が戦死したといわれる。ベトナムからアメリカの撤退後ラオスは共産化し、米側についたモン族の数万人がタイ領内に移住し、長期滞留でタイ生まれの二世人口の増加や麻薬の問題が深刻化した。2005年現在、ラオスには46万人のモン族が在住している。

タイ

中国南部からベトナム・ラオスに定着したミャオ族は、19世紀末にはタイに南下してきたと考えられている[12]。タイでは大まかに青ミャオ族、白ミャオ族が移住しており、言語、伝統衣装、風俗において違いがある。1960年、タイ政府のミャオ族人口統計では、青ミャオ族26,400人、白ミャオ族19,200人であった[13]

1960年代から70年代にかけてタイは北部・北東部の反政府ゲリラに悩まされたがこれはミャオ族を中心とする山岳少数民族が主体であった。1967年にはチェンライ県でミャオ族集落が官憲に焼かれた事件を機に[14]、政府軍と少数民族との間で住民数万人の強制移住を伴う大規模な武力衝突に発展した。政府軍は反乱を鎮圧するため大砲とナパームを用いて北部諸県の山岳部ミャオ族集落に空爆を行った。一連の反乱・掃討作戦により、双方に数千人の死者を出し、大量の難民が発生した。1971年にはタイ国内五箇所(ターク県ナーン県チェンライ県ピッサヌローク県ペッチャブーン県)に難民キャンプが作られた[15]。こうした反乱では共産主義者が村で武器の使用方法を教え、男子をゲリラとして訓練し、村落組織を協同組合的に変えていた事などから赤色メオ反乱 (Red Meo Revolt) と呼ばれている。ペッチャブーン県カオ・コー山頂の旧ゲリラ掃討の前線基地跡は現在では記念公園となり、撃墜された偵察機やヘリ・装甲車の残骸が展示され当時の衝突を物語っている。

言語

独自の言語をもち、ミャオ・ヤオ語族(モン・ミェン語族ともいう)に属する。この語族に属するのはミャオ語ヤオ語以外には、中国東南沿海部(福建・浙江方面)に居住し、ヤオ族と文化的つながりのあるシェ族の言語だけである。住む国によって中国語タイ語などに通じている場合もある。

民族分派

中国国内のミャオ族は、以下の3つ方言集団の支系に分かれている。

  • 湘西方言 - 自称コーション(Qo Xong)。紅苗。湖南省西部。
  • 黔東方言 - 自称ムー(Hmub)。黒苗(長裙苗)。貴州省南東部。一部には、自称、ガノォウ=短裙苗。
  • 黔川滇方言 - 自称モン(Hmong)。白苗、青苗、花苗。四川省南部、貴州省西部・北西部、雲南省南部・北東部など

宗教と民俗

ミャオ族の多くはすべてのものに霊魂や生命が宿ると信じ、樹、岩、山、川、泉などを崇拝する。祖霊や祖先の祭祀を怠らない。毎年旧暦10月頃の卯日や辰日を年越しの日の苗年(ノンニャン)として祖先に感謝する祭りを行う。男性は蘆笙(キー)を吹き、女性は華麗な銀飾りと豪華な刺繍の衣装をきて舞う。この時は、男女の自由恋愛の機会でもあり、ユーファンと呼ばれる歌掛けで感情を表現した。貴州省の黔東南の香炉山で旧暦6月19日に行われるチーピエ(山に登る)の祭りは有名で、沢山の若い男女が「歌垣」に集まる。また、黔東南では、13年に一度の大きな祖先祭祀であるノン・ニュウを父系氏族 (clan) が合同して行い、大量の水牛や豚を供犠して祖先を祀る。ノンとは「食べる」、ニュウは「鼓」の意味で、祖先の霊魂が宿るとされる楓香樹から作った木鼓をたたいて、祖先の霊を呼び戻して交流する。銅鼓を使用することもある。黔東南のミャオ族の間では、楓香樹から生まれた蝶々のメイパンメイリュウが、樹下の水泡と恋愛して12の卵を生み、そのうちの一つから人間が生まれ、他の卵から生まれた龍や水牛と兄弟であるという創世神話が語られている。その後、人類は天上の雷神と争い、大洪水を起こされ、瓢箪に乗って兄と妹が生き延びる。兄と妹が結婚して(兄妹始祖神話)、その子孫が現在のミャオ族になったという。ノンニュウは神話にちなんで、蝶々や兄妹始祖、祖先や死者の霊を祀り、再び東方にあるとされる究極の故郷に送り返す祭りである。一方、明代や清代には漢族が流入し、「漢化」によって、道教仏教の影響を受けた地域もある。また、19世紀末からキリスト教の布教活動が活発化し、貴州省西北部の石門坎は1905年からプロテスタント布教の拠点となり、ミャオ語の文字が作られ、聖書も刊行されて、急速に改宗者が広がった。ちなみに、ミャオ語の聖書は日本の横浜で印刷されている。しかし、中華人民共和国の成立(1949年)以後、大躍進や文化大革命などを経て、宗教は弾圧され、民間信仰は迷信活動として禁止された。宗教や祭祀などは、改革開放が本格化した1980年代半ば以降に復興してきたが、現在は民族観光に利用されるなど、文化の商品化が進んでいる。西欧の学者はミャオ族の思考を、精霊信仰の概念で説明しようとしてきたが、進化主義の観点に立つ原始宗教のニュアンスがあって低く見下す価値観を払拭できない。アニミズムの概念を見直し、現地の見方による世界観・宇宙観の提示が求められる。

タイのミャオ族の精霊信仰

以下では特にタイのミャオ族の精霊信仰について述べる。タイのミャオ族は中国文化に影響を受けた精霊崇拝を行っている[16]。さらにシャーマンによる儀礼を持つ。タイのミャオ族は大きく白ミャオ族と青ミャオ族に分けられるが信仰は似通っている。

世界観は陰界 (yeeb ceeb) と陽界 (yaj ceeb) によって構成されており、さらに天界 (ntuj) をつけ加える場合もある。陰界は精霊と死んだものが行くあの世のことである。ミャオの信仰において、あの世は山の中もしくは地下にあると考えられている。陽界は精霊と人間の住むこの世と考えられている。

精霊は基本的にダー (Dab) と呼ばれるが、さまざまな種類と呼び名がある。

  • 陰界の精霊
陰界にはツォー・ニュン (Ntxwj Nyug) と呼ばれるあの世を統括する精霊がおり、死者の魂を審判し、転生の先を決めるとされている。さらにニュー・ヴァー・トゥアム・テーム (Nyuj Vaj Tuam Teem) がその仕事を補佐しており、魂の年齢を管理している。シャーマンの守護精霊 (Siv Yis) もここに住むといわれる。
  • 陽界の精霊
基本的には善意のある守護霊 (Dab quas) と森などに住む悪意のある精霊 (Dab qus) に分かれる。守護霊は家の柱、竈などさまざまな場所を守護していると考えられている。また、それぞれの男系の氏族長が祖先霊 (Dab xwm kab) の祭壇を持っている。祖先霊の祭壇の隣には薬の精霊 (Dab tshuaj) を作ることもある。さらに女性の寝室には結婚生活を守護する精霊 (Dab roog) が祀られている。また、外界と家内をつなぐ家の入り口の敷居には敷居の精霊 (Dab txhiaj meej) がおり、悪い精霊が家内に入ってくることを防いでいる。森の中には悪い精霊 (Dab qus) がすんでいるとされる。特に、ポン・ツォーン (Pog Ntxoog) 呼ばれる老女の精霊は恐れられている。また、病気や驚いた際に人体より抜け出てしまうプリン (plig) と呼ばれる魂の概念があり、タイのピー信仰のクワンに近い。治療の際にはシャーマンによるフー・プリン (Hu plig) と呼ばれる招魂が行われる。
  • 天界の精霊
天界には、人間を助けるヨーム・スア (Yawm Saub) という精霊がいるとされている。この精霊はミャオの洪水神話や、初めての結婚などの神話に登場する。また雨をつかさどる龍 (Zaj Laug) や虹 (Zaj sawv) もいるとされるが、在所は海の下もしくは湖の下の宮殿であるとされている。その他にも太陽の精霊 (Nkauj Hnub)、月の精霊 (Nrang Hli)、雷神 (Xob) などが知られている。

神話

  • 洪水神話:太古の洪水の際にミャオ族の一組の男女が天の精霊(ヨーム・スア Yawm Saub(タイ・ミャオ族))の指示に従い、瓢箪(船、太鼓の場合もある)にのって逃れる神話がある。
  • 射日神話:ミャオ族の英雄(カー・ユウアム Kaj Yuam(タイ・ミャオ族))が太古に九つあった太陽を八つ射落とした神話がある。中国の射日神話と類似している。

日本人との類似点と相違点

明治35-36年に鳥居龍蔵が実施した調査において、もともと広西省を源郷とする狆家苗の衣服に、日本の銅鐸と同様の文様があしらわれていることが報告された。また、彼らが楽器として用いる銅鼓にも同一の文様があり、日本とミャオ族の間に何らかの関係があることが示唆された。なお、鳥居は銅鐸に描かれた衣裳、臼・杵、家屋などが当時のイ族の風俗と酷似していることも指摘している[17]

また、上述の洪水型兄妹始祖神話において、兄と妹が大木の周りを回ること、最初の子が目も口もない子であることなど、日本の国産み神話との類似性が伺われることを松前健が指摘している[18]

一方で、遺伝学的には、東北の日本人やチベット人などで高頻度で見られるY染色体のハプログループDは必ずしも多くない[19]ミトコンドリアDNAハプログループの研究からミャオ族祖先の日本への移住の可能性に言及する研究者もいる[20]

食文化

多くの場合、を主食とし、野菜類、などをトウガラシなどで味付けした副食と共に、1日3食食べる。独自の料理は「酸湯」であろう。漢族の料理に似た炒め物蒸し物、魚の唐揚げなどの揚げ物もある。年中行事の祭りの日や結婚式などお祝いの日には、もち米で餅を作る習慣があり、草木汁で五色に色つけして食べる所もある。酒で客人をもてなし、即興の歌をうたって接待する。豆類も重要な食品で、納豆も食べる。日本のなれずしに似た発酵した鮨を食べ、祖先祭祀には必ず備える。蕎麦も作り、トウガラシと醤油の味付けで食べる。ミャオ族独自の正月の苗年には、もち米で作った餅と飯と酒に、料理を用意する。1990年代以降、貴州省貴陽凱里北京など、中国の都市にはミャオ族料理の専門店ができているが、村の料理をアレンジした創作料理が多い。


関連項目

参考文献

  • 鈴木正崇『ミャオ族の歴史と文化の動態ー中国南部山地民の想像力の変容ー』風響社、2012年。
  • 鈴木正崇・金丸良子『西南中国の少数民族貴州省苗族民俗誌ー』古今書院、1985年。
  • 曽士才「ミャオー交差する民族エリートたちの思いと願いー」末成道男・曽士才(編)『講座 世界の少数民族ーファースト・ピープルズの現在ー』第1巻(東アジア)明石書店、2005年。
  • 谷口裕久「モンー国民国家と『民族』の現在ー」林行夫・合田濤(編)『講座 世界の少数民族ーファースト・ピープルズの現在ー』第2巻(東南アジア)明石書店、2005年。
  • 村松一弥編訳『苗族民話集ー中国の口承文芸ー』平凡社、1974年。

外部リンク

参照

  1. 史記五帝本紀による。英語版では伝統的な中国の歴史観で紀元前2500年以前としているが定かではない。黄帝が紀元前2510年頃から紀元前2448年頃と考えられているため、最近の研究から2世紀ほど後の時代に修正されると年代の不一致の問題が生じることから、伝説扱いとなっている。管理人の私見では、黄帝は紀元前3000年前後の人物であると考える。良渚文化よりも後ではなく、前の人物である。伝説の涿鹿も、もっと南の長江流域での戦いではなかったか、と思う。
  2. 黄帝が純粋な漢民族(黄色人種)であったかどうかも疑問に思う。遼河文明(紀元前年頃-紀元前2900年頃)より緑色の眼をした女神像が出土していることだし、白人であっても不思議ではないと管理人は思う。
  3. この点は事実ではないか、と管理人は考える。要は苗族の人々は、良渚文化の近縁の文化が先祖であると思う。彼らが蚩尤の子孫で、饕餮紋が登場するのが良渚文化以降であれば、そう考えるしかないのではないだろうか。黄帝が蚩尤を倒して、その首が饕餮になったのであれば、蚩尤が存在したのは河姆渡文化と良渚文化の間といえる。
  4. 鈴木正崇・金丸良子『西南中国の少数民族ー貴州省苗族民俗誌ー』古今書院 / 1985年
  5. Lemoine, J. (1972) Un village Hmong vert du haut Laos. Centre National de la Recherche Scientifique, Paris
  6. 「ベトナム秘密報告」ニューヨーク・タイムズ編 サイマル出版 p149
  7. 「ラオスの歴史」上東輝夫 同文館 P137
  8. NY TIMES 1970/3/17
  9. Dasse, Martial (1976) Montagnards Revoltes et Guerres Revolutionnaires en Asie du Sud-Est Continentale. Bangkok: D.K. BookHouse
  10. Readers Digest, October 1980, p36
  11. Stuart-Fox, M. (1982) Contemporary Laos (St. Lucia: Queensland University Press) pp. 199–219
  12. Geddes, W.R. (1976) Migrants of the Mountains - The Cultural Ecology of the Blue Miao (Hmong Njua) of Thailand Clarendon Press, Oxford: p29
  13. 同書: p39
  14. Tapp, Nicholas (1986) The Hmong of Thailand - Opium People of Golden Triangle, Anti-Slavery Society: p38
  15. Tapp (1986): p39
  16. Nicholas Tapp (1989) "Hmong Religion" Asian Folklore Studies, Vol. 48, No. 1, pp. 59-94 Nanzan Institute for Religion and Culture
  17. テンプレート:Cite book
  18. テンプレート:Cite book
  19. テンプレート:Cite journal
  20. テンプレート:Cite journal