「ダイダラボッチ」の版間の差分
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− | '''ダイダラボッチ'''は、日本の各地で伝承される巨人。類似の名称が数多く存在するが、以下<!-- 本記事 -->では便宜的にダイダラボッチと呼称する。山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられている(鬼や大男などの妖怪伝承が巨人伝承になったという説もある。)<ref name="Y">『妖怪の本』学習研究社、1999年、92,98頁。92頁の挿絵(加賀国河北郡木越の光林寺跡で大太法師の足跡を見物する人々)は『北越奇談』のものと書かれているが、正確には『古今角偉談』巻之二の「大足跡と大足跡との角偉」である。</ref>。 | + | '''ダイダラボッチ'''は、日本の各地で伝承される巨人。類似の名称が数多く存在するが、以下<!-- 本記事 -->では便宜的にダイダラボッチと呼称する。山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられている(鬼や大男などの妖怪伝承が巨人伝承になったという説もある。)<ref name="Y">『妖怪の本』学習研究社、1999年、92,98頁。92頁の挿絵(加賀国河北郡木越の光林寺跡で大太法師の足跡を見物する人々)は『北越奇談』のものと書かれているが、正確には『古今角偉談』巻之二の「大足跡と大足跡との角偉」である。</ref><ref>[[宇迦之御魂神]]・'''太多羅持男'''と関連はあるのか?</ref>。 |
== 概要 == | == 概要 == | ||
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<blockquote>《原 文》 <ref>※縮小文字は原本上の補足。※和字間隔は現代の補足。</ref>有岡 名曰 大櫛 上古有人 體極長大 身居丘壟之上 手摎海濱之蜃(大蛤也) 其所食貝 積聚成岡 時人 取大朽之義 今謂大櫛之岡 其踐跡 (長卌餘歩 廣廿餘歩 尿穴徑可廿餘歩許)、『常陸國風土記』那賀略記</blockquote> | <blockquote>《原 文》 <ref>※縮小文字は原本上の補足。※和字間隔は現代の補足。</ref>有岡 名曰 大櫛 上古有人 體極長大 身居丘壟之上 手摎海濱之蜃(大蛤也) 其所食貝 積聚成岡 時人 取大朽之義 今謂大櫛之岡 其踐跡 (長卌餘歩 廣廿餘歩 尿穴徑可廿餘歩許)、『常陸國風土記』那賀略記</blockquote> | ||
<blockquote>《書き下し文》 <ref>振り仮名は文語体。</ref>平津駅家(ひらつのうまや)の西一二(いちに)里(り)に岡(をか)あり。名を大櫛(おほくし)と曰(い)ふ。上古(いにしへ)、人あり。體(かたち)は極(きは)めて長大(たけたか)く、身(み)は丘壟(をか)の上(うへ)に居(ゐ)ながら、手は海浜(うみべた)の蜃(うむき)を摎(くじ)りぬ。大蛤(おほうむき)也(なり)。其(そ)の食(く)らひし貝(かひ)、積聚(つも)りて岡(をか)と成(なり)き。時人(ときのひと)、大朽(おほくち)の義(こころ)を取(と)りて、今は大櫛之岡(おほくしのをか)と謂(い)ふ。その践(ふ)みし跡(あと)は、長さ卌(しじふ) 歩(あし)余(あまり)、広さ廿(にじふ)歩(あし)余(あまり)、尿穴(ゆまりのあな)の径(わたり)廿(にじふ)歩(あし)余(あまり)許(ばかり)なり。</blockquote> | <blockquote>《書き下し文》 <ref>振り仮名は文語体。</ref>平津駅家(ひらつのうまや)の西一二(いちに)里(り)に岡(をか)あり。名を大櫛(おほくし)と曰(い)ふ。上古(いにしへ)、人あり。體(かたち)は極(きは)めて長大(たけたか)く、身(み)は丘壟(をか)の上(うへ)に居(ゐ)ながら、手は海浜(うみべた)の蜃(うむき)を摎(くじ)りぬ。大蛤(おほうむき)也(なり)。其(そ)の食(く)らひし貝(かひ)、積聚(つも)りて岡(をか)と成(なり)き。時人(ときのひと)、大朽(おほくち)の義(こころ)を取(と)りて、今は大櫛之岡(おほくしのをか)と謂(い)ふ。その践(ふ)みし跡(あと)は、長さ卌(しじふ) 歩(あし)余(あまり)、広さ廿(にじふ)歩(あし)余(あまり)、尿穴(ゆまりのあな)の径(わたり)廿(にじふ)歩(あし)余(あまり)許(ばかり)なり。</blockquote> | ||
− | <blockquote>《口語解釈例》 <ref>※振り仮名は口語体。[ ]内は文意を整えるための補足文。( )内の※に続く記述は注釈。</ref>常陸国(ひたちのくに)の那賀郡(なかのこおり)にある交通の要衝・平津駅家(ひらつのうまや)から西へ一二(いちに)里(り)もしくは1里・2里ほど行った所<ref group="*">「一二(いちに)」は「わずか」の意。従って「一二里」は「里の単位でわずかな距離」の意。しかし「一二里」を「1・2里」の意で捉えれば、具体的距離を示すものとなり、古代日本の1里は約5.3km<!--約533.5m-->、2里は約10.7km<!--約10677.9m-->と、数値を割り出すことができる。</ref> | + | <blockquote>《口語解釈例》 <ref>※振り仮名は口語体。[ ]内は文意を整えるための補足文。( )内の※に続く記述は注釈。</ref>常陸国(ひたちのくに)の那賀郡(なかのこおり)にある交通の要衝・平津駅家(ひらつのうまや)から西へ一二(いちに)里(り)もしくは1里・2里ほど行った所<ref group="*">「一二(いちに)」は「わずか」の意。従って「一二里」は「里の単位でわずかな距離」の意。しかし「一二里」を「1・2里」の意で捉えれば、具体的距離を示すものとなり、古代日本の1里は約5.3km<!--約533.5m-->、2里は約10.7km<!--約10677.9m-->と、数値を割り出すことができる。</ref>に岡(おか)(丘)があり、名を「大櫛(おおくし)」という。大昔、[この地に]人がいた。[その人の]体(からだ)は極めて長大(ちょうだい)で、岡の上にいながらにして手は海浜の蜃(うむき)を掘り起こしてしまう。[それほどの巨人であった。][ここでいう蜃(うむき)とは]大蛤(おおうむき)である(※『うむき(蜃、蛤)』はハマグリの古語)<ref group="*">市井の娯楽本やインターネット上の記述で、本文中の「蜃」を妖怪の「蜃(しん)」と関連付けるものが見られるが、ここで語られている「蜃(うむき、うむぎ)」は実体があって食用にされる貝類の「蛤(うむき、うむぎ)」、すなわち「蛤(はまぐり)」のことであって、妖怪ではない。</ref>。その[巨人の]食べた貝[の殻]は、積もり積もって岡になった。当時の人(※現代〈すなわち、奈良時代〉の我々から見て大昔の人々)は[“大量の貝が朽ちている”意をもって、この岡を]「大朽(おおくち)」と呼んだが、[それが訛って]今は「大櫛之岡(おおくしのおか)」という(※比定地は大串貝塚(おおぐし かいづか)。その所在地は、現在の茨城県水戸市塩崎町1064-1<ref group="*">水戸市塩崎町1064-1</ref>、かつての東茨城郡常澄村塩崎大串貝塚<ref group="*">江戸時代における常陸国茨城郡塩ヶ崎村、幕藩体制下の常州水戸藩知行等塩ヶ崎村。</ref>)。その[巨人の]足跡は、おおよそ、長さ40歩あまり、幅20歩あまりで、尿の穴(※立ち小便によって穿たれた穴)は直径20歩あまりであった。</blockquote> |
− | + | ==== 大櫛之岡、史上評価 ==== | |
− | + | 考古学等の諸分野においても、係る「大櫛之岡の巨人伝説」とその比定地・大串貝塚は相当に重要で、'''縄文時代の貝塚遺跡が文献に記されている最古の例'''<ref name="Kb_Nipponica">https://kotobank.jp/word/大串貝塚 , 大串貝塚 , 小学館『日本大百科全書:ニッポニカ』 , コトバンク , 2019-05-20</ref><ref name="Kb_史跡G">https://kotobank.jp/word/大串貝塚 , 大串貝塚 , 講談社『国指定史跡ガイド』 , コトバンク , 2019-05-20</ref>、もっと言えば、'''石器時代遺跡の記録された日本最古の例'''<ref name="Kb_Brit">https://kotobank.jp/word/大串貝塚 , 大串貝塚 , 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』 , コトバンク , 2019-05-20</ref><ref name="Kb_精選国語">https://kotobank.jp/word/大串貝塚 , 大串貝塚 , 小学館『精選版 日本国語大辞典』 , コトバンク , 2019-05-20</ref>として知られている。 | |
=== 播磨国風土記 === | === 播磨国風土記 === | ||
− | + | 奈良時代に成立した『播磨国風土記』ののうち、播磨国の託賀郡(たかのこおり)(現在の兵庫県多可郡〈たかぐん〉)について記された「託賀略記」には、天が高いから楽に立って歩けると言ってこの地を好み、'''沼'''と化す数多の足跡を残した、大人(おおひと)の伝説が記されており、先述した『常陸国風土記』に所収されている“大櫛之岡の巨人伝説”(大櫛之岡の長大な人の伝説)の類型と考えられている。 | |
− | + | <blockquote>《原 文》<ref>※縮小文字は原本上の補足。※和字間隔は現代の補足。</ref>右(此當為上)所以名 託賀者 昔 在大人 常勾行也 自南海到北海 自東巡行之時 到來此土云 他土卑者 常勾伏而行之 此土高者 申而行之 高哉 故曰 託賀郡(此云 高也 申 伸也)其踰跡處 數數成沼、『播磨國風土記』託賀略記</blockquote> | |
− | + | <blockquote>《大 意》昔、[播磨国(はりまのくに)の]託賀郡(たかのこおり)には大人(おおひと)(※巨人)がいた。[大人は]常に屈んで歩いた。[大人は]南海から北海へ到り、東を巡ってこの地にやってきた時、「他の地は[天が]低くて常に屈んで歩いていたが、この地は[天が]高くてまっすぐ立って歩ける」と言った。それゆえに、この地を「タカ(高)」の意をもって「託賀郡」という。[大人の]足跡は数々の沼になった。</blockquote> | |
== 各地の伝承 == | == 各地の伝承 == | ||
=== 山を作る・運ぶ === | === 山を作る・運ぶ === | ||
− | * | + | * 富士山を作るため、甲州の土を取って土盛りした。そのため甲州は盆地になった<ref name="fushigitaizen">安部晃司他, 人文社編集部編, 日本の謎と不思議大全 東日本編, 2006, 人文社, ものしりミニシリーズ, isbn=978-4-7959-1986-0, 122頁</ref>。 |
− | * | + | * 富士山を作るため近江の土を掘り、その掘った跡地が'''琵琶湖'''となった<ref name="kyoto-np">http://kyoto-np.jp/shiga/article/20140724000050, 富士山へ注ぐ琵琶湖の水くむ 滋賀・近江八幡、伝説が結ぶ, 京都新聞, 2014-07-24, 2014-07-25</ref>。この伝説の縁で1968年に富士宮市と近江八幡市は夫婦都市となっている。 |
− | * | + | * 上州の榛名富士を土盛りして作り、掘った後は'''榛名湖'''となった。榛名富士が富士山より低いのは、もう少し土を運ぼうとしたが夜が明け、途中でやめたためである<ref>『日本の民話20上州の民話第一集』1959年、140~4頁(榛名の大男)未來社</ref>。 |
− | * | + | * 浅間山が、自分より背の高い妹の富士山に嫉妬し、土を自分にわけろといった。富士山は了解し、だいだらぼっちが自分の前掛けで土を運んだ。しかし浅間山は土の量が足りないと怒り、彼を叩いた。その際にこぼれた土が前掛山となった。怒りだした浅間山はついに噴火してしまった。 |
− | * | + | * 西の富士、東の筑波と呼ばれる関東の名山の重さを量ろうとし天秤棒に2つの山を結わえつけ持ち上げると、筑波山のほうは持ち上がったが富士山は持ち上がらない。そのうちに結わえていたつるが切れ、筑波山が地上に落ちてしまった。その衝撃でもともと1つの峰だった筑波山は、2峰になってしまったという。 |
− | * | + | * 信州佐久郡で土を運んでいた時、もっこの綱が切れ、平尾山と糠塚山ができた<ref name="saku">『佐久口碑伝説集北佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会、全434頁中、216-219頁、昭和53年11月15日発行</ref>。 |
− | * | + | * 富士山と八ヶ岳が背比べをして、八ヶ岳が勝ったが、それを妬ましく思った富士山に蹴られ、山が八つに割れた。それを治そうとデエダラボッチが茅で出来たもっこで土を運び、線香を杖にしたら折れてしまい、暫く置いておいたら大泉山と小泉山が出来た(諏訪地方、茅野市)。 |
− | * | + | * 信州安曇郡西側の飛騨山脈から削り取った土を東側の山地に運んでいた時、もっこの綱が切れ、室山ができた。 |
=== 足あと・手のあとを残す === | === 足あと・手のあとを残す === | ||
− | * | + | * 上州の赤城山に腰掛けて踏ん張ったときに窪んで出来た足跡が水たまりになった。木部の'''赤沼'''がそれである。 |
− | * | + | * 長野県大町市北部の'''青木湖'''、'''中綱湖'''、'''木崎湖'''からなる'''仁科三湖'''はいずれもダイダラボッチの足あとである。 |
− | * 遠州の山奥に住んでいたダイダラボッチが子供たちを手にのせて歩いている時に、腰くらいの高さの山をまたいだ拍子に子供たちを手から投げ出してしまった。びっくりした子供たちとダイダラボッチは泣き出してしまい、手をついてできた窪みに涙が流れ込んで | + | * 遠州の山奥に住んでいたダイダラボッチが子供たちを手にのせて歩いている時に、腰くらいの高さの山をまたいだ拍子に子供たちを手から投げ出してしまった。びっくりした子供たちとダイダラボッチは泣き出してしまい、手をついてできた窪みに涙が流れ込んで'''浜名湖'''となった。 |
− | * | + | * 現在、東京都世田谷区にある地名「代田」(だいた)や、さいたま市の「太田窪」(だいたくぼ)は、ダイタ坊(ダイダラボッチ、ダーダラボッチ)の足跡に由来すると言われている<ref>『代田のダイダラボッチ』(きむらけん著)北沢川文化遺産保存の会紀要第5号、2017年/『浦和市史民俗編』浦和市総務部市史編さん室、昭和55年、793頁。</ref>。なお、代田のダイダラボッチについては2021.3.28日に小田急線世田谷代田駅前にダイダラボッチをかたどった駅前広場が完成した。これを記念して当日づけで『巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ』(著作:きむらけん、発行:世田谷代田駅 駅前広場記念事業委員会)が発行された。「代田ダイダラボッチ音頭」も作曲された。<ref>代田ダイダラボッチ音頭, 2021-03-28, https://www.youtube.com/watch?v=liKqjjoN218</ref> |
− | + | * 長野県戸隠山の'''大座法師池'''、三重県志摩郡の大王町はダイダラボッチに由来する地名である。 | |
− | * | + | * 静岡市のだいらぼう山頂には全長150mほどの窪みがあるが、ダイダラボッチが左足を置いた跡と伝えられている。琵琶湖から富士山へ土を運ぶ途中に遺したものであるという。 |
− | * | + | * 相模原市の伝説ではデイラボッチと呼ばれ、富士山を持ち上げ違う場所に運ぶ途中、疲れたので、富士山に乗っかり休んだところそこにまた根が生えてしまいもちあげようとするが、持ち上がらずそのときふんばった所が今の鹿沼公園であるという。また、相模原市南区に「'''大沼・小沼'''」の地名が残るが、かつて実在したこの二つの沼はデイラボッチが尻餅をついた跡であり、その間に「ふんどし窪」という溝状のくぼ地があったという伝承もある。 |
− | * | + | * 小便をしようと飯野山(香川県中部)に足をかけた際に山頂付近に足跡が付いた(現在もその跡であるという伝説の足跡が残っているが非常に小さい)。なお、その小便の際に出来たのが大束川といわれる。 |
− | * | + | * 愛知県東海市の南側に加木屋町陀々法師(だだぼうし)という地名があり、ダイダラボッチが歩いて移動する際に出来た足跡が池になったとして伝説が残っている。この「足跡池」(「陀々法師池」ともいう)は名古屋鉄道八幡新田駅の南方100m辺りにあったが、1986~1987年(昭和61~62年)頃に埋め立てられ(ゼンリン住宅地図「東海市」1986年発行の1986年版、1987年発行の1988年版による)、2000年(平成12年)頃にモータースが出来て、現在その形跡はない(「ものがたり通信」の「18.ダイダラボッチの足跡」参照)。 |
− | * | + | * 長野県佐久市安原にある二つの'''丸い水田'''は、デーラン坊の足跡だと言われる<ref name="saku"/>。 |
− | * | + | * 比叡山につまづいて怒って蹴っ飛ばした地面に空いた穴が'''琵琶湖'''、飛んで行った土塊が淡路島になった<ref>https://u5h.jp/one-panel/2707/</ref>。 |
− | * | ||
=== 休む・洗う・食べる === | === 休む・洗う・食べる === | ||
− | * | + | * 赤城山に腰掛けて、利根川で足を洗った<ref>草野巧『幻想動物事典』新紀元社、1997年、190頁。</ref>。 |
− | * | + | * 羽黒山には人間がまだ誕生しない大昔、でいだらぼっちが羽黒山に腰掛けて鬼怒川で足を洗ったという言い伝えがある。 |
− | * | + | * 長野県塩尻市の高ボッチ高原はダイダラボッチが腰を下ろして一休みした場所であるという(諸説あり)。 |
− | * | + | * 「常陸国風土記」によると、茨城県水戸市東部にある大串貝塚は、ダイダラボッチが貝を食べて、その貝殻を捨てた場所だと言われている。その言い伝えから、近くにダイダラボッチの巨大な石像が創られている。<ref>大串貝塚ふれあい公園(埋蔵文化財センター) , 水戸市 , 2013-4-2 , http://www.city.mito.lg.jp/000271/000273/000294/001005/maizoubunka/p001478.html , 2017-4-17 </ref> |
− | * | + | * 碓氷峠で休んでいる時に、足が妙義山まで届き、その足の指を猪が芋と間違えかじったので、猪を握り潰して浅間山で猪鍋を煮た。なお、鍋をこぼした場所から塩気のある温泉が湧いたという<ref name="saku"/>。 |
=== 人間を助ける === | === 人間を助ける === | ||
− | * | + | * 秋田県の横手盆地が湖であったので干拓事業を行った際、ダイダラボッチが現れて水をかき、泥を掬ったため工事がはかどった(鳥の海の干拓伝説)<ref name="A">[http://namahage.is.akita-u.ac.jp/monogatari/show_detail.php?serial_no=1869 秋田の昔話・伝説・世間話 口承文芸検索システム 鳥の海の干拓]</ref>。このダイダラボッチは秋田市の太平山三吉神社の化身と考えられている。太平山及び山麓の太平地区の名は現在「たいへい」と読まれるが、明治期までは「おいだら」と読まれており、由来を巨人「オイダラボッチ」であるとする説(秋田の今と昔)がある。 |
− | * | + | * 昔、東信濃は湖の底だったが、デイラボッチは「岩鼻」という山を砕き水を排出し、平地を作った。それから後、その土地を、大佐久(南北佐久)と小佐久(小県)と言うようになった<ref>『佐久口碑伝説集南佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会、全332頁中 105頁、昭和53年9月20日発行。</ref><ref group="*">大鼠が岩鼻を食い破ったことで湖水が排水されたとする伝説もある(『日本伝説叢書 信濃の巻』, NDLDC, 953569/106 157 - NDLDC, 953569/107, 159ページ)。</ref>。 |
− | * | + | * 茨城県水戸市大足(おおだら)は、土地の西南にあった山のおかげで村は一日の半分は日陰になり、日が早く暮れてしまい困っていた。そこでダイダラボッチ(この地方ではダイダラボウと呼称)は村人のために山をどけてあげた。しかし、山をどけた跡の土地がえぐれてしまい、雨が溜まるようになったので、川をつくり沼底をさらって水が流れるようにした。どけた山は水戸市・笠間市・東茨城郡城里町に跨がる朝房山、作った川と沼は'''桜川、千波湖'''である<ref>「ダイダラ坊」考, 今瀬文也, 茨城の民俗, 31, 1992-12, pages=36-46, 茨城民俗学会</ref>。 |
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+ | == ダイダラボッチが登場する民話・伝説 == | ||
+ | * [http://bellis.sakura.ne.jp/k/tegalog.cgi?postid=199 デーランボー]<ref name="saku"/> | ||
== 参考文献 == | == 参考文献 == | ||
− | * | + | * Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%A9%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%81 ダイダラボッチ](最終閲覧日:22-03-20) |
− | + | * 柳田国男 , 1977 , 妖怪談義 , 講談社 , ncid=BN04293132, oclc=33519725 , isbn=406158135X | |
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== 関連項目 == | == 関連項目 == | ||
− | + | * [[巨人 (伝説の生物)]] | |
== 注釈 == | == 注釈 == |
2022年6月9日 (木) 06:12時点における最新版
ダイダラボッチは、日本の各地で伝承される巨人。類似の名称が数多く存在するが、以下では便宜的にダイダラボッチと呼称する。山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられている(鬼や大男などの妖怪伝承が巨人伝承になったという説もある。)[1][2]。
目次
概要[編集]
柳田國男が「ダイダラ坊の足跡」(1927年(昭和2年[4月、『中央公論』)で日本各地から集めたダイダラボッチ伝説を考察しており[* 1]、ダイダラボッチは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に法師を付加した「大太郎法師」で、一寸法師の反対の意味であるとしている。
名称[編集]
「でいだらぼっち[3]」、「ダイランボウ[4]」、「だいだらぼう[5]」、「でいらんぼう[6]」、「だいらぼう[7]」、「デエダラボッチ[8]」、「デイラボッチ(宮田, 1993)」、「デイラボッチャ[9]」、「デーラボッチャ(高木他, 1990)」、「デエラボッチ[10]」、「デーラボッチ[11]」、「タイタンボウ[* 2]」、「デエデエボウ[12]」、「デイデンボメ[* 3]」、「ダイトウボウシ」、「レイラボッチ」、「ダダ星」、「おおきいぼちゃぼちゃ」[13]。 等様々な呼び名がある。大太法師(だいだらぼっち)、大太郎坊(だいだらぼう)とも表記し、九州では大人弥五郎(おおひとやごろう)と呼ばれる。
文献[編集]
常陸国風土記[編集]
『常陸国風土記』那賀郡条、平津駅家条、大櫛之岡、大串貝塚[編集]
奈良時代に成立した『常陸国風土記』のうち、常陸国の那賀郡(なかのこおり[14])(現在の茨城県那珂郡〈なかぐん〉)について記された「那賀略記」には、以下のとおり、大昔の「大櫛之岡(おおくしのおか)」にいたという長大な人についての記述(平津駅家条)がある。[15][16][17][18]
《原 文》 [19]有岡 名曰 大櫛 上古有人 體極長大 身居丘壟之上 手摎海濱之蜃(大蛤也) 其所食貝 積聚成岡 時人 取大朽之義 今謂大櫛之岡 其踐跡 (長卌餘歩 廣廿餘歩 尿穴徑可廿餘歩許)、『常陸國風土記』那賀略記
《書き下し文》 [20]平津駅家(ひらつのうまや)の西一二(いちに)里(り)に岡(をか)あり。名を大櫛(おほくし)と曰(い)ふ。上古(いにしへ)、人あり。體(かたち)は極(きは)めて長大(たけたか)く、身(み)は丘壟(をか)の上(うへ)に居(ゐ)ながら、手は海浜(うみべた)の蜃(うむき)を摎(くじ)りぬ。大蛤(おほうむき)也(なり)。其(そ)の食(く)らひし貝(かひ)、積聚(つも)りて岡(をか)と成(なり)き。時人(ときのひと)、大朽(おほくち)の義(こころ)を取(と)りて、今は大櫛之岡(おほくしのをか)と謂(い)ふ。その践(ふ)みし跡(あと)は、長さ卌(しじふ) 歩(あし)余(あまり)、広さ廿(にじふ)歩(あし)余(あまり)、尿穴(ゆまりのあな)の径(わたり)廿(にじふ)歩(あし)余(あまり)許(ばかり)なり。
《口語解釈例》 [21]常陸国(ひたちのくに)の那賀郡(なかのこおり)にある交通の要衝・平津駅家(ひらつのうまや)から西へ一二(いちに)里(り)もしくは1里・2里ほど行った所[* 4]に岡(おか)(丘)があり、名を「大櫛(おおくし)」という。大昔、[この地に]人がいた。[その人の]体(からだ)は極めて長大(ちょうだい)で、岡の上にいながらにして手は海浜の蜃(うむき)を掘り起こしてしまう。[それほどの巨人であった。][ここでいう蜃(うむき)とは]大蛤(おおうむき)である(※『うむき(蜃、蛤)』はハマグリの古語)[* 5]。その[巨人の]食べた貝[の殻]は、積もり積もって岡になった。当時の人(※現代〈すなわち、奈良時代〉の我々から見て大昔の人々)は[“大量の貝が朽ちている”意をもって、この岡を]「大朽(おおくち)」と呼んだが、[それが訛って]今は「大櫛之岡(おおくしのおか)」という(※比定地は大串貝塚(おおぐし かいづか)。その所在地は、現在の茨城県水戸市塩崎町1064-1[* 6]、かつての東茨城郡常澄村塩崎大串貝塚[* 7])。その[巨人の]足跡は、おおよそ、長さ40歩あまり、幅20歩あまりで、尿の穴(※立ち小便によって穿たれた穴)は直径20歩あまりであった。
大櫛之岡、史上評価[編集]
考古学等の諸分野においても、係る「大櫛之岡の巨人伝説」とその比定地・大串貝塚は相当に重要で、縄文時代の貝塚遺跡が文献に記されている最古の例[22][23]、もっと言えば、石器時代遺跡の記録された日本最古の例[24][25]として知られている。
播磨国風土記[編集]
奈良時代に成立した『播磨国風土記』ののうち、播磨国の託賀郡(たかのこおり)(現在の兵庫県多可郡〈たかぐん〉)について記された「託賀略記」には、天が高いから楽に立って歩けると言ってこの地を好み、沼と化す数多の足跡を残した、大人(おおひと)の伝説が記されており、先述した『常陸国風土記』に所収されている“大櫛之岡の巨人伝説”(大櫛之岡の長大な人の伝説)の類型と考えられている。
《原 文》[26]右(此當為上)所以名 託賀者 昔 在大人 常勾行也 自南海到北海 自東巡行之時 到來此土云 他土卑者 常勾伏而行之 此土高者 申而行之 高哉 故曰 託賀郡(此云 高也 申 伸也)其踰跡處 數數成沼、『播磨國風土記』託賀略記
《大 意》昔、[播磨国(はりまのくに)の]託賀郡(たかのこおり)には大人(おおひと)(※巨人)がいた。[大人は]常に屈んで歩いた。[大人は]南海から北海へ到り、東を巡ってこの地にやってきた時、「他の地は[天が]低くて常に屈んで歩いていたが、この地は[天が]高くてまっすぐ立って歩ける」と言った。それゆえに、この地を「タカ(高)」の意をもって「託賀郡」という。[大人の]足跡は数々の沼になった。
各地の伝承[編集]
山を作る・運ぶ[編集]
- 富士山を作るため、甲州の土を取って土盛りした。そのため甲州は盆地になった[27]。
- 富士山を作るため近江の土を掘り、その掘った跡地が琵琶湖となった[28]。この伝説の縁で1968年に富士宮市と近江八幡市は夫婦都市となっている。
- 上州の榛名富士を土盛りして作り、掘った後は榛名湖となった。榛名富士が富士山より低いのは、もう少し土を運ぼうとしたが夜が明け、途中でやめたためである[29]。
- 浅間山が、自分より背の高い妹の富士山に嫉妬し、土を自分にわけろといった。富士山は了解し、だいだらぼっちが自分の前掛けで土を運んだ。しかし浅間山は土の量が足りないと怒り、彼を叩いた。その際にこぼれた土が前掛山となった。怒りだした浅間山はついに噴火してしまった。
- 西の富士、東の筑波と呼ばれる関東の名山の重さを量ろうとし天秤棒に2つの山を結わえつけ持ち上げると、筑波山のほうは持ち上がったが富士山は持ち上がらない。そのうちに結わえていたつるが切れ、筑波山が地上に落ちてしまった。その衝撃でもともと1つの峰だった筑波山は、2峰になってしまったという。
- 信州佐久郡で土を運んでいた時、もっこの綱が切れ、平尾山と糠塚山ができた[30]。
- 富士山と八ヶ岳が背比べをして、八ヶ岳が勝ったが、それを妬ましく思った富士山に蹴られ、山が八つに割れた。それを治そうとデエダラボッチが茅で出来たもっこで土を運び、線香を杖にしたら折れてしまい、暫く置いておいたら大泉山と小泉山が出来た(諏訪地方、茅野市)。
- 信州安曇郡西側の飛騨山脈から削り取った土を東側の山地に運んでいた時、もっこの綱が切れ、室山ができた。
足あと・手のあとを残す[編集]
- 上州の赤城山に腰掛けて踏ん張ったときに窪んで出来た足跡が水たまりになった。木部の赤沼がそれである。
- 長野県大町市北部の青木湖、中綱湖、木崎湖からなる仁科三湖はいずれもダイダラボッチの足あとである。
- 遠州の山奥に住んでいたダイダラボッチが子供たちを手にのせて歩いている時に、腰くらいの高さの山をまたいだ拍子に子供たちを手から投げ出してしまった。びっくりした子供たちとダイダラボッチは泣き出してしまい、手をついてできた窪みに涙が流れ込んで浜名湖となった。
- 現在、東京都世田谷区にある地名「代田」(だいた)や、さいたま市の「太田窪」(だいたくぼ)は、ダイタ坊(ダイダラボッチ、ダーダラボッチ)の足跡に由来すると言われている[31]。なお、代田のダイダラボッチについては2021.3.28日に小田急線世田谷代田駅前にダイダラボッチをかたどった駅前広場が完成した。これを記念して当日づけで『巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ』(著作:きむらけん、発行:世田谷代田駅 駅前広場記念事業委員会)が発行された。「代田ダイダラボッチ音頭」も作曲された。[32]
- 長野県戸隠山の大座法師池、三重県志摩郡の大王町はダイダラボッチに由来する地名である。
- 静岡市のだいらぼう山頂には全長150mほどの窪みがあるが、ダイダラボッチが左足を置いた跡と伝えられている。琵琶湖から富士山へ土を運ぶ途中に遺したものであるという。
- 相模原市の伝説ではデイラボッチと呼ばれ、富士山を持ち上げ違う場所に運ぶ途中、疲れたので、富士山に乗っかり休んだところそこにまた根が生えてしまいもちあげようとするが、持ち上がらずそのときふんばった所が今の鹿沼公園であるという。また、相模原市南区に「大沼・小沼」の地名が残るが、かつて実在したこの二つの沼はデイラボッチが尻餅をついた跡であり、その間に「ふんどし窪」という溝状のくぼ地があったという伝承もある。
- 小便をしようと飯野山(香川県中部)に足をかけた際に山頂付近に足跡が付いた(現在もその跡であるという伝説の足跡が残っているが非常に小さい)。なお、その小便の際に出来たのが大束川といわれる。
- 愛知県東海市の南側に加木屋町陀々法師(だだぼうし)という地名があり、ダイダラボッチが歩いて移動する際に出来た足跡が池になったとして伝説が残っている。この「足跡池」(「陀々法師池」ともいう)は名古屋鉄道八幡新田駅の南方100m辺りにあったが、1986~1987年(昭和61~62年)頃に埋め立てられ(ゼンリン住宅地図「東海市」1986年発行の1986年版、1987年発行の1988年版による)、2000年(平成12年)頃にモータースが出来て、現在その形跡はない(「ものがたり通信」の「18.ダイダラボッチの足跡」参照)。
- 長野県佐久市安原にある二つの丸い水田は、デーラン坊の足跡だと言われる[30]。
- 比叡山につまづいて怒って蹴っ飛ばした地面に空いた穴が琵琶湖、飛んで行った土塊が淡路島になった[33]。
休む・洗う・食べる[編集]
- 赤城山に腰掛けて、利根川で足を洗った[34]。
- 羽黒山には人間がまだ誕生しない大昔、でいだらぼっちが羽黒山に腰掛けて鬼怒川で足を洗ったという言い伝えがある。
- 長野県塩尻市の高ボッチ高原はダイダラボッチが腰を下ろして一休みした場所であるという(諸説あり)。
- 「常陸国風土記」によると、茨城県水戸市東部にある大串貝塚は、ダイダラボッチが貝を食べて、その貝殻を捨てた場所だと言われている。その言い伝えから、近くにダイダラボッチの巨大な石像が創られている。[35]
- 碓氷峠で休んでいる時に、足が妙義山まで届き、その足の指を猪が芋と間違えかじったので、猪を握り潰して浅間山で猪鍋を煮た。なお、鍋をこぼした場所から塩気のある温泉が湧いたという[30]。
人間を助ける[編集]
- 秋田県の横手盆地が湖であったので干拓事業を行った際、ダイダラボッチが現れて水をかき、泥を掬ったため工事がはかどった(鳥の海の干拓伝説)[36]。このダイダラボッチは秋田市の太平山三吉神社の化身と考えられている。太平山及び山麓の太平地区の名は現在「たいへい」と読まれるが、明治期までは「おいだら」と読まれており、由来を巨人「オイダラボッチ」であるとする説(秋田の今と昔)がある。
- 昔、東信濃は湖の底だったが、デイラボッチは「岩鼻」という山を砕き水を排出し、平地を作った。それから後、その土地を、大佐久(南北佐久)と小佐久(小県)と言うようになった[37][* 8]。
- 茨城県水戸市大足(おおだら)は、土地の西南にあった山のおかげで村は一日の半分は日陰になり、日が早く暮れてしまい困っていた。そこでダイダラボッチ(この地方ではダイダラボウと呼称)は村人のために山をどけてあげた。しかし、山をどけた跡の土地がえぐれてしまい、雨が溜まるようになったので、川をつくり沼底をさらって水が流れるようにした。どけた山は水戸市・笠間市・東茨城郡城里町に跨がる朝房山、作った川と沼は桜川、千波湖である[38]。
ダイダラボッチが登場する民話・伝説[編集]
参考文献[編集]
- Wikipedia:ダイダラボッチ(最終閲覧日:22-03-20)
- 柳田国男 , 1977 , 妖怪談義 , 講談社 , ncid=BN04293132, oclc=33519725 , isbn=406158135X
関連項目[編集]
注釈[編集]
- ↑ 柳田, 1977の「じんだら沼記事」(『妖怪談義』所収)にて相模原市大沼に調査に行ったとの記述あり。その地ではダイダラボッチの伝説は無かったと落胆しているが、ダイダラボッチ伝説があるのは北に5キロメートルほどずれた鹿沼であった。
- ↑ 藤澤衛彦「巨人伝説考」、『日本伝説研究第三巻』所収。ただし、石川県立図書館の調査によれば、能登地方に「たいたん坊」という呼称は見つかっておらず、藤澤の創作の可能性がある。
- ↑ 高木敏雄『日本伝説集』より。柳田国男の「ダイダラ坊の足跡」には「デンデンボメ」とあるが、元の出典である『日本伝説集』には「デイデンボメ」とあり、誤記である。『定本柳田国男集5』311頁参照。
- ↑ 「一二(いちに)」は「わずか」の意。従って「一二里」は「里の単位でわずかな距離」の意。しかし「一二里」を「1・2里」の意で捉えれば、具体的距離を示すものとなり、古代日本の1里は約5.3km、2里は約10.7kmと、数値を割り出すことができる。
- ↑ 市井の娯楽本やインターネット上の記述で、本文中の「蜃」を妖怪の「蜃(しん)」と関連付けるものが見られるが、ここで語られている「蜃(うむき、うむぎ)」は実体があって食用にされる貝類の「蛤(うむき、うむぎ)」、すなわち「蛤(はまぐり)」のことであって、妖怪ではない。
- ↑ 水戸市塩崎町1064-1
- ↑ 江戸時代における常陸国茨城郡塩ヶ崎村、幕藩体制下の常州水戸藩知行等塩ヶ崎村。
- ↑ 大鼠が岩鼻を食い破ったことで湖水が排水されたとする伝説もある(『日本伝説叢書 信濃の巻』, NDLDC, 953569/106 157 - NDLDC, 953569/107, 159ページ)。
参照[編集]
- ↑ 『妖怪の本』学習研究社、1999年、92,98頁。92頁の挿絵(加賀国河北郡木越の光林寺跡で大太法師の足跡を見物する人々)は『北越奇談』のものと書かれているが、正確には『古今角偉談』巻之二の「大足跡と大足跡との角偉」である。
- ↑ 宇迦之御魂神・太多羅持男と関連はあるのか?
- ↑ http://www.snsagami.org/hyakusen/j_so/minwa/deidara.htm , でいだらぼっち, さがみはら百選, シニアネット相模原 , 2011年2月13日
- ↑ 井ノ口章次他編, 1955, 静岡県庵原郡両河内, 民俗採訪, 昭和29年度号, id=NCID|BN13889905, pages=109頁, 國學院大學民俗学研究会
- ↑ 村上健司編著, 日本妖怪大事典, 2005, 角川書店, Kwai books, isbn=978-4-04-883926-6, pages=195-196頁
- ↑ 和田孝弌, http://deiranbou.s43.xrea.com/ , 「信濃でぃらんぼう音舞」普及保存会ホームページ, 信濃でぃらんぼう音舞普及保存 , 2011年2月13日
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- ↑ 高木直子他, 塚田正朋他編, 長野県史民俗編, 1990, 長野県, 3巻3号, pages=483-484, その他の伝説
- ↑ 中村成文, 1916, 10, 大太法師伝説四種, 郷土研究, 4巻, 7号, pages=50-51, 郷土研究社
- ↑ 井田安雄, 志村彦衛他編, 群馬県史資料編27民俗3, 1982, 群馬県, pages=773, 群馬の伝説の代表例
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