『国司文書 但馬故事記』気多郡に、「盾縫首は、楯縫の祖、彦狭知命を盾縫丘に祀る。(今の豊岡市日高町多田谷 楯縫神社古社地)」とある。
『国司文書 但馬神社系譜伝』第三巻 養父郡神社系譜伝(973)に「糸井郷 楯縫神社 養父郡糸井村鎮座。祭神:彦狭知命。人皇42代持統天皇の巳丑三年秋八月、楯縫連吉彦これを祀る。彦狭知命は、高皇産霊尊の御子なり。」とある。養父郡糸井村鎮座。祭神:彦狭知命。人皇42代持統天皇の巳丑三年秋八月、楯縫連吉彦これを祀る。彦狭知命は、[[高御産巣日神|高皇産霊尊]]の御子なり。」とある。
夜夫郡更杵邑に来たり。(更杵村 今の朝来市和田山町寺内)
『国司文書 但馬郷名記抄』によると、「持統天皇の時代に糸井郷に兵庫(やぐら)を設け、大兵主神を祀り、これを更杵村大兵主神社(素戔嗚神・武甕槌神・経津主神・天忍日神・宇摩志麻遅神・凡そ五社)と申しまつる(式内 更杵村大兵主神社:朝来市和田山町寺内)。また、楯縫神社、桐原神社、葦田神社、更杵村大兵主神社、桐原神社を祀った。」とのこと<ref>[https://jinja.kojiyama.net/%E5%BC%8F%E5%86%85%E3%80%80%E6%A5%AF%E7%B8%AB%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E9%A4%8A%E7%88%B6%EF%BC%89/ 楯縫神社]、神社拾遺(最終閲覧日:25-02-23)</ref>。
== 私的考察 ==
彦狭知命は忌部氏の神であり楯を作る職人集団(氏族)の祖神とされたようである。[[高御産巣日神]]の子孫とされている、ということは天太玉命の系譜に連なるのだろうか。阿波[[忌部氏]]の千葉開拓神話と共に「楯縫」の名が残っているので、どこの「忌部氏」なのかという系譜がまだ確立されていない時代に「楯縫」を名乗る人々の一部は千葉に移動しているし、その頃は布津主神を祀っていたと思われるので、[[忌部氏]]とは物部氏の一派と考える。物部氏の職人集団が中央の政治的な権力から離れて、氏族的な職人集団として確立していくうちに、物部氏本体が祀る布津主神から離れて、独自の祖神を持つようになったものではないだろうか。
== 参考文献 ==