今までの研究では、上社大祝を現人神とする信仰は古代からのもので、原始信仰の名残とするのが一般的であった。これに対して、津田勉(2002年)<ref>津田勉「諏訪「大祝」職の発生」『国学院雑誌』1139、國學院大學総合企画部広報課、2002年、478−485頁。</ref>と井原今朝男(2008年)は大祝を権威や権力から超越した現人神とする思想の成立は神祇制度下では不可能と指摘し、むしろ鎌倉時代に出来上がったものとみるべきであると提唱している<ref>井原今朝男, 鎌倉期の諏訪神社関係史料にみる神道と仏道:中世御記文の時代的特質について, 2008, 国立歴史民俗博物館 , 国立歴史民俗博物館研究報告, volume139, https://doi.org/10.15024/00001521, ncid:AN00377607, doi:10.15024/00001521, p162</ref>。
青木隆幸(2012年)は、大祝に関わる伝承やその即位式を中世に発生したものとしている。なお、幼童を大祝に当てるというのは『画詞』成立以前には見られないため(『信重解状』にも初代大祝の年齢が書かれていない)、8歳にして諏訪明神に選ばれた有員を7歳に大祝となり、8歳に復位した諏訪頼継([[諏訪時継]]の子)をモデルにした『画詞』を編纂した諏訪円忠による創作と主張している。また、これと一致している乙頴を「諏訪大神大祝」とする『異本阿蘇氏系図』の記述は後世の付加と推測している青木隆幸(2012年)は、大祝に関わる伝承やその即位式を中世に発生したものとしている。なお、幼童を大祝に当てるというのは『画詞』成立以前には見られないため(『信重解状』にも初代大祝の年齢が書かれていない)、8歳にして諏訪明神に選ばれた有員を7歳に大祝となり、8歳に復位した諏訪頼継(諏訪時継の子)をモデルにした『画詞』を編纂した諏訪円忠による創作と主張している。また、これと一致している乙頴を「諏訪大神大祝」とする『異本阿蘇氏系図』の記述は後世の付加と推測している<ref name="aoki2012ohori">青木隆幸「中世的神話世界の形成―諏訪上社大祝と『諏訪大明神絵詞』をめぐって―」『長野県立歴史館研究紀要』18、2012年、24-26, 31頁。</ref>。
==妻・子孫=====妃神===タケミナカタの妻とされるのは下社の主祭神・{{読み仮名|建御名方神の妻とされるのは下社の主祭神・[[八坂刀売神]]|ヤサカトメ}}である。(ヤサカトメ)である。
===御子神===
タケミナカタとヤサカトメの間に生まれた御子神の数は資料や各地神社の由緒によって違いがあり、すべての神名を拾ってみると、おおよその二十五柱の御子神が確認できる。また、異名による重複が含まれている可能性も非常に高い<ref>建御名方神と[[石埜三千穂八坂刀売神]]「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム の間に生まれた御子神の数は資料や各地神社の由緒によって違いがあり、すべての神名を拾ってみると、おおよその二十五柱の御子神が確認できる。また、異名による重複が含まれている可能性も非常に高い<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、86頁。</ref>。
一例としては、山田肇(1929年)に記されている21柱の御子神をここで挙げる<ref name="yamada">山田肇『諏訪大明神』信濃郷土文化普及会 <信濃郷土叢書 第1編>、1929年、136-138頁。</ref>。
* {{読み仮名|[[建御名方彦神別命|神別命]]|かむわけのみこと(かむわけのみこと/かみわけのみこと}} かみわけのみこと) - [[健御名方富命彦神別神社]]の祭神。* {{読み仮名|[[健隈照命|八重隈根命]]|やえくまねのみこと}}(やえくまねのみこと)
* {{読み仮名|[[出早雄命]]|いずはやおのみこと}} - 上社境内、[[諏訪郡]][[長地村]]西山田区(現在の[[岡谷市]])にある下社摂社・出早雄神社<ref>{{Cite web|和書|url=http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/simosya/izuhaya.htm|title=出早雄小萩神社 岡谷市長地|website=諏訪大社と諏訪神社(附・神社参拝記)|publisher=八ヶ岳原人|accessdate=2018-07-27}}</ref>の祭神。大祝[[諏訪氏]]の祖。
* {{読み仮名|[[片倉辺命]]|かたくらべのみこと}} - 御子神の{{読み仮名|[[児玉彦命]]|こだまひこのみこと}}が[[千鹿頭神]]を継いで[[守矢氏]]の祖となったという。