<blockquote>本多善光公は信州麻績(おみ)の里(現在の飯田市座光寺)の住人で、国司に従って都に上り、ある時 難波の堀江で宿命により一光三尊の如来にめぐりあい、これを背に負って古里にお連れし 清めた'''臼'''の上に御尊像を安置し奉ったのが当山の起源である。<br>
臼からは光明がさして光り輝き「御座光の臼」と呼ばれて今も当山の霊宝となっている<ref>[https://motozenkoji.jp/about/ 元善光寺について]、本善光寺HP(最終閲覧日:25-02-02)</ref>。</blockquote>
== 大頭祭について ==
武水別神社(長野県千曲市八幡にある神社。)の祭で、12月10日から14日に行われる新嘗祭である。「大頭祭(だいとうさい)」と通称される。祭は5人の頭人(とうにん)を中心に進行し、その三番頭を「大頭」と呼ぶことが祭の名前の由来である。歴代の頭人の氏名を記した「御頭帳」では、最古は文禄元年(1592年)にまで遡っており、400年以上続く祭とされ、国の選択無形民俗文化財に選択されている<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%B0%B4%E5%88%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE 武水別神社](最終閲覧日:25-02-02)</ref>。
大頭祭に奉仕する「頭人」とは、氏子の中から選ばれた祭事の中心人物である。大頭祭では七郷(現在の千曲市八幡・更科・五加地区)の氏子から毎年5人が選ばれる。5名のうち、三番頭を「大頭」と呼ぶことが名前の由来である。頭人には順位があり、[五]⇒[四]⇒[二]⇒[一]⇒[三]という変わった順で位が上がる。各地域ごと5番頭から順次務めた後、三番頭を務める。
新嘗祭の期間中、お供え物(御供・神饌物)を神社へ奉進するお練り(献備品奉進祭)を行い、新穀を神に捧げて収穫を感謝する。
祭りの起源は明らかではないが、「御頭帳」(歴代の頭人の氏名を記した書物)の記録では、1592(文禄元)年から頭人の名前が記されているため、その頃すでに大頭祭が行われていたことがわかっている。
斎森神社から武水別神社まで(約1キロ程度)大行列をつくって、米や野菜類といったお供え物(御供・神饌物)を神社に歩き運ぶ。沿道では、豆がらを燃やして行列を迎える。途中、宝船からミカンや日用品(たわし・軍手・靴下・ティッシュペーパー)などが撒かれる。これを御供まき(ごくまき)という<ref>[https://chikuma-kanko.com/2017-12-08/post-2743/ 国選択無形民俗文化財「大頭祭」【武水別神社】]、信州千曲観光局(最終閲覧日:25-02-02)</ref>。
== 関連項目 ==