明神、彼の藤鎰を以て当社の前に植ゑしめ給ふ。藤は枝葉を栄え「藤諏訪の森」と号す。毎年二ヶ度の御神事之を勤む。爾(それ)より以来、当郡を以て「諏方」と名づく。<small>(原漢文)</small><ref name="SuwaShishi682" /><ref name="shimosuwa">下諏訪町誌編纂委員会 編「第四編 上代の下諏訪」『下諏訪町誌 上巻』甲陽書房、1963年、564-565頁。</ref></blockquote>
この話は[[室町時代]][[延文]]元年(1356年)の『[[諏方大明神画詞]]』「祭 この話は室町時代延文元年(1356年)の『諏方大明神画詞』「祭 第三夏 下」のうち、6月晦日に摂社[[諏訪大社#摂末社|藤島社]]([[諏訪市]]中洲神宮寺)で行われるお田植神事の項にも出てくる。ここでは両者の武器が「藤の枝」と「鉄輪」になっている下」のうち、6月晦日に摂社藤島社(諏訪市中洲神宮寺)で行われるお田植神事の項にも出てくる。ここでは両者の武器が「藤の枝」と「鉄輪」になっている<ref>福田晃,二本松康宏,徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、124頁。</ref>。
<blockquote>{{読み仮名|抑|そもそも}}この藤島の明神と申すは、尊神垂迹の昔、洩矢の悪賊、神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持して争ひ、明神は藤の枝をとりて是を伏し給ふ。ついに邪輪を降ろして正法を興す。明神誓いを発して藤枝をなげ給ひしかば、即ち根をさして枝葉をさかへ、花蘂あざやかにして戦場のしるしを万代に残す。藤島の明神と号するこのゆえなり。抑(そもそも)この藤島の明神と申すは、尊神垂迹の昔、洩矢の悪賊、神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持して争ひ、明神は藤の枝をとりて是を伏し給ふ。ついに邪輪を降ろして正法を興す。明神誓いを発して藤枝をなげ給ひしかば、即ち根をさして枝葉をさかへ、花蘂あざやかにして戦場のしるしを万代に残す。藤島の明神と号するこのゆえなり。<ref name="Hanaya">塙保己一編「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936498/45 続群書類従巻七十三 諏訪大明神絵詞]」『続群書類従 第3輯ノ下 神祇部』続群書類従完成会、1925年、494-539頁。</ref><ref>諏訪教育会編「[[諏方大明神画詞]]」『諏訪史料叢書 諏訪教育会編「諏方大明神画詞」『諏訪史料叢書 巻2』1926年、39頁。</ref></blockquote>
『画詞』の作者である諏訪円忠は、『古事記』に登場する[[ファイル:Fujishima Shrine - 藤島神社 (川岸天竜河畔諏訪明神入諏伝説の地).jpg|サムネイル|200px|右|{{Center|藤島神社・諏訪明神入諏伝説の地([[岡谷市]建御名方神])}}]]『画詞』の作者である[[諏訪円忠]]は、『古事記』に登場する建御名方神を巻頭に出し、地元伝承の明神入諏神話を藤島社の由来にかけて述べている。明神と守矢の抗争の伝承を巻頭に出さず、小さく扱ったものとみられるを巻頭に出し、地元伝承の明神入諏神話を藤島社の由来にかけて述べている。明神と守矢の抗争の伝承を巻頭に出さず、小さく扱ったものとみられる<ref>諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、681-684頁。</ref>。なお同じ作者による『諏方大明神[[講式]]』。なお同じ作者による『諏方大明神講式』<ref> 「諏方大明神講式」『神道大系 神社編30 諏訪』竹内秀雄編、神道大系編纂会、1982年、237-249頁。</ref>にもこの伝承が採り上げられているが、諏訪明神を[[タケミナカタ#天竺波提国王|天竺出身の王とする説話]]と結び付けられている(詳細は後述)。にもこの伝承が採り上げられているが、諏訪明神を天竺出身の王とする説話と結び付けられている(詳細は後述)。
[[諏訪氏]]の家系図である『神氏系図(前田氏本)』<ref>[[宮地直一]]「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1076393/106 附録 一 神氏系図]」『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、1頁。</ref>と『神家系図(千野家本)』<ref>諏訪教育会 編「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185913/9 神家系図]」『諏訪史料叢書 巻28』1938年、1-7頁。</ref>にも、諏訪明神が「守屋」を追い落とし守屋山麓に社壇を構えたという同系統の伝承が語られている<ref>諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、690頁。</ref>。また、[[江戸時代]]に書かれた伝承記録では、守屋大明神(洩矢神)と藤島大明神(諏訪明神)が相争った際に[[天竜川]]の両側に立つ藤の木を絡ませたという異伝も見られる<ref name="Yamamoto" />。