「風間神社」の版間の差分

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<blockquote>『風間神社』は、日本の正史と言われる「六国史」に、推古天皇五月八日(596年)には『竜田風神信濃須波・水内神を祀らしむ』とみえています。そして清和天皇貞観二年二月(860年)『[[速飄別命|飄別神]]に叙位』の事が書かれています。<br>
 
<blockquote>『風間神社』は、日本の正史と言われる「六国史」に、推古天皇五月八日(596年)には『竜田風神信濃須波・水内神を祀らしむ』とみえています。そして清和天皇貞観二年二月(860年)『[[速飄別命|飄別神]]に叙位』の事が書かれています。<br>
 
この『水内神』『[[速飄別命|飄別神]]』はいずれも風間神社で有ると言われています。</blockquote>
 
この『水内神』『[[速飄別命|飄別神]]』はいずれも風間神社で有ると言われています。</blockquote>
とあり、祭神は[[伊勢津彦|伊勢津彦命]]、[[志那都比古神|級長津彦命]]、[[志那都比古神|級長戸辺命]]、建御名方命とされていたという。
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とあり、祭神は伊勢津彦命、[[志那都比古神|級長津彦命]]、[[志那都比古神|級長戸辺命]]、建御名方命とされていたという。
  
 
風間神社の祭神を伊勢津彦命と考証したのは有名な国学者の伴信友であるが、当社で伊勢津彦命が祀られるようになったのは信友のこの説を取り入れた結果だろう。それ以前に当社で伊勢津彦命が祀られたことがあったかどうかは分からない。ちなみに信友は、やはり水内郡の式内社、伊豆毛神社の祭神のことも伊勢津彦命だとしている。彼によるこうした考証にはどういう根拠があったのだろうか。おそらく、伊勢津彦命が信濃に退去したという『伊勢国風土記』逸文の割註をふまえ、風間神社は風神を祀っているからで、伊豆毛神社は出雲系の祭神を祀っているから祭神は伊勢津彦命だ、というふうに考えたのだろう<ref>[https://blog.goo.ne.jp/familyplot1976/e/76ddf4588acd8420a446aad5573a21c5 (2)伊勢津彦探しは神社から【風間神社】]、神社の世紀(最終閲覧日:25-01-18)</ref>。
 
風間神社の祭神を伊勢津彦命と考証したのは有名な国学者の伴信友であるが、当社で伊勢津彦命が祀られるようになったのは信友のこの説を取り入れた結果だろう。それ以前に当社で伊勢津彦命が祀られたことがあったかどうかは分からない。ちなみに信友は、やはり水内郡の式内社、伊豆毛神社の祭神のことも伊勢津彦命だとしている。彼によるこうした考証にはどういう根拠があったのだろうか。おそらく、伊勢津彦命が信濃に退去したという『伊勢国風土記』逸文の割註をふまえ、風間神社は風神を祀っているからで、伊豆毛神社は出雲系の祭神を祀っているから祭神は伊勢津彦命だ、というふうに考えたのだろう<ref>[https://blog.goo.ne.jp/familyplot1976/e/76ddf4588acd8420a446aad5573a21c5 (2)伊勢津彦探しは神社から【風間神社】]、神社の世紀(最終閲覧日:25-01-18)</ref>。
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== 私的考察 ==
 
== 私的考察 ==
持統天皇の時代に勅祭が行われた中で目立つのは、広瀬大忌神(水神)、竜田風神(風神)である。同時に勅使が遣わされたといっても、全てが風神であったとは限らないと考える。
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持統天皇の時代に勅祭が行われた中で目立つのは、広瀬大忌神(水神)、竜田風神(風神)である。同時に勅使が遣わされたといっても、全てが風神であったとは限らないと考える。風間神社は古くからの「風の神」を祀る神社とされるが、諏訪大社が風神として祀られたのかはやや疑問に思う。
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祭神に揺れがあって、地元の方にも迷う部分があると考える。祭神を[[速飄別命|飄別神]]とした場合には、出雲に'''[[速飄別命|波夜都武自和氣命]]'''(はやつむじわけのみこと)という神がいる。しかし、ごくマイナーな神であるため、風間神社の[[速飄別命|飄別神]]は、[[伊勢津彦|伊勢津彦命]]あるいは[[志那都比古神|級長津彦命]]と思われる。
  
 
== 参考文献 ==
 
== 参考文献 ==

2025年1月18日 (土) 03:35時点における版

風間神社(かざまじんじゃ)は、長野県長野市風間にある神社。由緒書きの主祭神は正殿:級長津彦命、左相殿:事代主命、右相殿:倉稲魂命。式内社に比定される。御神形は聖徳太子像である。

概要

社伝によると、当社は『日本書紀』に記されている水内神とされ、持統天皇五年(691)勅使が遣わされ、諏訪大社と共に勅祭が行われた。ただし、水内神は水内郡の名神大社で、水内大社とも称される健御名方富命彦神別神社のこととする説もある。

『日本書紀』には「辛酉に、使者を遣して、竜田風神、信濃の須波・水内等の神を祭らしむ。」とある[1]

また、当社は『三代実録』に記されている飄別神とも考えられる[2]

860年(貞観2年)「飄別神に叙位」との記述がある。979年(天元2年)には諏訪氏の庶流・矢島忠直が庄司として派遣され風間姓を名乗り、これが各地の風間氏の発祥となっている。

神社に伝わる「太々神楽獅子舞」は1822年(文政5年)から続く、歌詞がなく太刀を持つ雄獅子であり、1998年(平成10年)に長野市選択無形民俗文化財に選択されている[3]

御神形について

風間神社の御神形は、吉田神社と深い関係がある。吉田神道は、唯一神を信じる神道で、「唯一神道」または「唯一宗源神道」と呼ばれた。聖徳太子が学んだ神道は「宗源道」といい、それは、日本古来の唯一神教の神道だった。それゆえ、聖徳太子像が風間神社の御神形になった。

由緒書きの変遷

現在の由緒書き

裾花川は昔、暴れ川と呼ばれるほど氾濫が多く、人々を悩ませていました。村人たちは、裾花川の流れを治め、豊かな恵みを願い、田畑を開墾し「五穀豊穣」を祈念し、お社を祀られたと言われています。

過去の由緒書き

『風間神社』は、日本の正史と言われる「六国史」に、推古天皇五月八日(596年)には『竜田風神信濃須波・水内神を祀らしむ』とみえています。そして清和天皇貞観二年二月(860年)『飄別神に叙位』の事が書かれています。
この『水内神』『飄別神』はいずれも風間神社で有ると言われています。

とあり、祭神は伊勢津彦命、級長津彦命級長戸辺命、建御名方命とされていたという。

風間神社の祭神を伊勢津彦命と考証したのは有名な国学者の伴信友であるが、当社で伊勢津彦命が祀られるようになったのは信友のこの説を取り入れた結果だろう。それ以前に当社で伊勢津彦命が祀られたことがあったかどうかは分からない。ちなみに信友は、やはり水内郡の式内社、伊豆毛神社の祭神のことも伊勢津彦命だとしている。彼によるこうした考証にはどういう根拠があったのだろうか。おそらく、伊勢津彦命が信濃に退去したという『伊勢国風土記』逸文の割註をふまえ、風間神社は風神を祀っているからで、伊豆毛神社は出雲系の祭神を祀っているから祭神は伊勢津彦命だ、というふうに考えたのだろう[4]

歴史

  • 596年(推古天皇5年)8月 - 日本書紀に記述が見える。
  • 860年(貞観2年)2月 - 日本三代実録に記述が見える。
  • 979年(天元2年) - 諏訪氏の庶流・矢島忠直が庄司として派遣され、風間氏を名乗る。
  • 1697年(元禄10年) - 諏訪社から風間大明神に改称[5]
  • 1822年(文政5年9月) - 神祇管領長吉田家により風間神社と改称。
  • 1998年(平成10年)8月1日 - 「風間神社太々神楽獅子舞」が長野市選択無形民俗文化財に選択される。

私的考察

持統天皇の時代に勅祭が行われた中で目立つのは、広瀬大忌神(水神)、竜田風神(風神)である。同時に勅使が遣わされたといっても、全てが風神であったとは限らないと考える。風間神社は古くからの「風の神」を祀る神社とされるが、諏訪大社が風神として祀られたのかはやや疑問に思う。

祭神に揺れがあって、地元の方にも迷う部分があると考える。祭神を飄別神とした場合には、出雲に波夜都武自和氣命(はやつむじわけのみこと)という神がいる。しかし、ごくマイナーな神であるため、風間神社の飄別神は、伊勢津彦命あるいは級長津彦命と思われる。

参考文献

  • Wikipedia:風間神社(最終閲覧日:25-01-15)
    • 『信州の文化シリーズ 寺と神社』1981年 信濃毎日新聞社
  • 風間神社(長野市風間)、ハッシー27のブログ(最終閲覧日:25-01-16)
  • 風間神社、玄松子(最終閲覧日:25-01-16)

関連項目

外部リンク

脚注

  1. 日本書紀3、小島憲之他校注・訳、日本古典文学全集、小学館、p519
  2. 風間神社、玄松子(最終閲覧日:25-01-16)
  3. 風間神社太々神楽獅子舞 - 長野市文化財データベース
  4. (2)伊勢津彦探しは神社から【風間神社】、神社の世紀(最終閲覧日:25-01-18)
  5. 127 風間神社 〜式内社に改名した風神〜 - 週刊長野