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== 記録 ==
=== 日本書紀 ===
『[[日本書紀]]』では、[[神功皇后]]・[[応神天皇]](第15代)・[[仁徳天皇]](第16代)に渡って襲津彦の事績が記されている{{Sfn|『日本書紀』では、神功皇后・応神天皇(第15代)・仁徳天皇(第16代)に渡って襲津彦の事績が記されている<ref>葛城襲津彦(古代氏族)|, 2010年}}</ref>。* [[神功皇后]]5年3月7日条神功皇后5年3月7日条*: [[新羅]]王の人質の[[未斯欣|微叱旱岐]](みしこち)が一時帰国したいというので、神功皇后は微叱旱岐に襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられてしまう。これに襲津彦は怒り、使者3人を焼き殺したうえで、蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて草羅城(くさわらのさし)を落とし、捕虜を連れ帰った(桑原・佐糜・高宮・忍海の4邑の漢人らの始祖)。新羅王の人質の微叱旱岐(みしこち)が一時帰国したいというので、神功皇后は微叱旱岐に襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられてしまう。これに襲津彦は怒り、使者3人を焼き殺したうえで、蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて草羅城(くさわらのさし)を落とし、捕虜を連れ帰った(桑原・佐糜・高宮・忍海の4邑の漢人らの始祖)。* 神功皇后62年条{{refnest|<ref group="注釈"|神功皇后62年は、書紀紀年で西暦[[262年]]、干支二運を繰り下げた訂正紀年で西暦[[382年]]にあたる<ref>『新編日本古典文学全集 神功皇后62年は、書紀紀年で西暦262年、干支二運を繰り下げた訂正紀年で西暦382年にあたる(『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版))</ref>。}}
*: 新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣された。続いて『[[百済記]]』([[百済三書]]の1つ)を引用する(『百済記』に基づく一連の主文作成の際、襲津彦の不名誉のため作文を止めたものか<ref>『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、p. 462。</ref>)。
*:; 『百済記』逸文

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