差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
120 バイト除去 、 2024年12月26日 (木) 22:44
編集の要約なし
== 周辺地域との関係 ==
近世には、宮本である竹井村の他に近郷諸村の共同の氏神とされたため「摩気郷十一ヶ村<ref>摩気郷十一ヶ村とは下新江(現園部町仁江。以下同)、船阪(園部町船阪)、大西(園部町大西)、宍人(ししうど)(園部町宍人)、半田(園部町半田)、黒田(園部町黒田)、[[園部町横田|横田]](園部町横田)、大村(園部町城南町)、口八田(くちはった)([[京丹波町]]口八田)、口人(園部町口人)、口司(こうし)(園部町口司)の11村を指す。「摩気郷十一ヶ村の総鎮守」とされる場合は口人と口司村は除かれる。摩気郷十一ヶ村とは下新江(現園部町仁江。以下同)、船阪(園部町船阪)、大西(園部町大西)、宍人(ししうど)(園部町宍人)、半田(園部町半田)、黒田(園部町黒田)、横田(園部町横田)、大村(園部町城南町)、口八田(くちはった)(京丹波町口八田)、口人(園部町口人)、口司(こうし)(園部町口司)の11村を指す。「摩気郷十一ヶ村の総鎮守」とされる場合は口人と口司村は除かれる。</ref>の総鎮守」とも称されていた。
近世の村単位だと宮本の竹井村が篠田、摩気、上新江の3村に分かれていたように(上新江村は当神社祭礼に関する場合、更に今井、辻田の2村に分かれた<ref name="調査報告" />)、他の集落も複数の村に分かれており、総鎮守とした村は都合19個村にも及んでいた(右表参照)。「十一ヶ村」の称には符合しないが、当社の氏子集落には別に村単位の氏神が合計11社あってそれらを当神社の末社として位置付けていた。そのことから、この場合の「十一ヶ村の総鎮守」とはその11社の上位に位する総氏神という意味である)、他の集落も複数の村に分かれており、総鎮守とした村は都合19個村にも及んでいた。「十一ヶ村」の称には符合しないが、当社の氏子集落には別に村単位の氏神が合計11社あってそれらを当神社の末社として位置付けていた。そのことから、この場合の「十一ヶ村の総鎮守」とはその11社の上位に位する総氏神という意味である<ref name="神々" />。また、「摩気郷」という郷名は史料に確認できないので地域的な通称と思われるが、祭祀圏が周辺村落に展開されていた点に極めて中世的な姿が認められることから中世に遡る広域名称であったことが想定できる。この地域が藩政時代にあって[[園部藩|園部]]、[[丹波亀山藩|亀山]]両藩に分かれながらも藩政の枠を超えて共同で祭祀を担当していたこともその一証とされる。また、「摩気郷」という郷名は史料に確認できないので地域的な通称と思われるが、祭祀圏が周辺村落に展開されていた点に極めて中世的な姿が認められることから中世に遡る広域名称であったことが想定できる。この地域が藩政時代にあって園部、亀山両藩に分かれながらも藩政の枠を超えて共同で祭祀を担当していたこともその一証とされる<ref name="神々" />。
== 歴史 ==
=== 概史 ===
創祀の年代等は不詳。『[[新抄格勅符抄]]』所収の[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])の[[牒]]に[[神護景雲]]4年([[770年]])に[[神封]]1戸が充てられたことが見え、当時には祭祀が行われていたことがわかる。創祀の年代等は不詳。『新抄格勅符抄』所収の大同元年(806年)の牒に神護景雲4年(770年)に神封1戸が充てられたことが見え、当時には祭祀が行われていたことがわかる。
創建当初は現鎮座地よりも更に奥まった山裾に鎮座し、豪雨による山崩れと参拝の便から現鎮座地へ遷されたとされる。ただし、年代も含めてそれを証する記録は残されていない<ref name="調査報告" />。鎮座地周辺には園部町口人(くちうど)の安谷古墳群を始めとする[[古墳]]が散在しているほか古銭出土地もあり、当地一帯が早くから開けた地であった事がうかがわれる<ref name="神々" />。

案内メニュー