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54 バイト追加 、 2024年12月11日 (水) 16:56
を祀る。式内社 丹波郡の「比治真名井神社」と比定される。
主祭神の'''豊受大神'''は、現在の京丹後市峰山町五箇の磯砂山(いさなごさん)に天降り、神社由緒には『遠き神代の昔、此の真名井原の地にて、田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、また、蚕を飼って衣食の糧となる技を始められた』とあり、丹後地方にはじめて稲作の指導をした神とされる。『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として次のような話が掲載されている。丹波郡比治里の比治山頂にある真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人が和奈佐老夫(わなさおきな)、和奈佐老婦(わなさおみな)という老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住み万病に効く酒を造って夫婦を富ましめた。それでその里を土形の里(ひぢかたのさと)と呼ぶようになった。しかし、天女は十余年後に家を追い出され、荒鹽の村(あらしほのむら)に至った。よって、その村を比治里の'''荒鹽村'''という。また、天女は丹波の里の哭木の村(なききのむら)に至り、槻木(つきのき)にもたれて哭いた。故にそこは、という。また、天女は丹波の里の哭木の村(なききのむら、峰山町内記)に至り、槻木(つきのき)にもたれて哭いた。故にそこは、'''哭木村'''という。それから天女は竹野の郡(たかののこほり)の船木の里(ふなきのさと)の奈具の村(なぐのむら)に至りそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売命(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという。日本農業発祥の地とも伝えられ、峰山町五箇の苗代地区に現在も残る「という。それから天女は竹野の郡(たかののこほり)の船木の里(ふなきのさと、弥栄町船木の里とされる)の奈具の村(なぐのむら)に至りそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売命(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという。日本農業発祥の地とも伝えられ、峰山町五箇の苗代地区に現在も残る「[[月の輪田]]」などがその遺跡と伝わる<ref>峰山郷土史 上, 臨川書店, 1963, p5</ref>。京丹後市に今も残る絹織物産業(丹後ちりめん)に関連する記述もあることから、当社が'''養蚕や絹織物発祥にも所縁ある'''社であることがうかがえる<ref>[https://omouhana.com/2024/04/22/%E6%AF%94%E6%B2%BC%E9%BA%BB%E5%A5%88%E7%82%BA%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%9A%E5%B8%B8%E4%B8%96%E3%83%8B%E9%99%8D%E3%83%AB%E8%8A%B1%E3%80%80%E5%92%8C%E5%A5%88%E4%BD%90%E8%96%84%E6%9C%88%E7%AF%87%E3%80%8005/ 比沼麻奈為神社:常世ニ降ル花 和奈佐薄月篇 05]、偲フ花(最終閲覧日:24-12-11)</ref>。
一般に、丹後地方における羽衣伝承の発端とされる「比治山の真名井」は、磯砂山の女池と考えられている。

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