「ダイダラボッチ」の版間の差分

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奈良時代に成立した『常陸国風土記』のうち、常陸国の那賀郡(なかのこおり<ref>[http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/fuudo/hitachi/hitachi03.htm 衣袖漬常陸國風土記 香島郡/那賀郡]</ref>)(現在の茨城県那珂郡〈なかぐん〉)について記された「那賀略記」には、以下のとおり、大昔の「大櫛之岡(おおくしのおか)」にいたという長大な人についての記述(平津駅家条)がある。<ref name="Kb_大串貝塚">https://kotobank.jp/word/大串貝塚 , 大串貝塚 , コトバンク, 2019-05-20 </ref><ref name="THM-鷹野講座3">http://www.thm.pref.miyagi.jp/wp-content/uploads/2016/08/868f9d73e4a3259cab3432af1a18b435.pdf , 第3回館長講座『縄紋時代の研究史 明治時代以前と大森貝塚』 , 鷹野光行(博物館学者、東北歴史博物館館長) , page=1 , format=PDF , 公式ウェブサイト , 東北歴史博物館、宮城県 , 2019-05-20</ref><ref name="Mie-U_平津駅家">廣岡義隆 , 古典のテキストについて:文学研究におけるテキスト論 , 三重大学日本語学文学 , ISSN=09184449 , 三重大学日本語学文学研究室 , 2006 , jun , 17 , pages=13-21 , naid=120000947942 , https://hdl.handle.net/10076/6639</ref><ref name="Google_上古有人">小田勝『日本語史要講』2008年 - Google "[https://books.google.co.jp/books?id=nSG62C5WHWMC&pg=PA26&lpg=PA26&dq=%E4%B8%8A%E5%8F%A4%E6%9C%89%E4%BA%BA&source=bl&ots=Lp3WS2iaP3&sig=ACfU3U0-wD1fy1IC2HMH6XpETizBzJfatQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjzvLLWwajiAhUG77wKHQc_C-gQ6AEwBXoECAYQAQ#v=onepage&q=%E4%B8%8A%E5%8F%A4%E6%9C%89%E4%BA%BA&f=false 上古有人]"</ref>
 
奈良時代に成立した『常陸国風土記』のうち、常陸国の那賀郡(なかのこおり<ref>[http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/fuudo/hitachi/hitachi03.htm 衣袖漬常陸國風土記 香島郡/那賀郡]</ref>)(現在の茨城県那珂郡〈なかぐん〉)について記された「那賀略記」には、以下のとおり、大昔の「大櫛之岡(おおくしのおか)」にいたという長大な人についての記述(平津駅家条)がある。<ref name="Kb_大串貝塚">https://kotobank.jp/word/大串貝塚 , 大串貝塚 , コトバンク, 2019-05-20 </ref><ref name="THM-鷹野講座3">http://www.thm.pref.miyagi.jp/wp-content/uploads/2016/08/868f9d73e4a3259cab3432af1a18b435.pdf , 第3回館長講座『縄紋時代の研究史 明治時代以前と大森貝塚』 , 鷹野光行(博物館学者、東北歴史博物館館長) , page=1 , format=PDF , 公式ウェブサイト , 東北歴史博物館、宮城県 , 2019-05-20</ref><ref name="Mie-U_平津駅家">廣岡義隆 , 古典のテキストについて:文学研究におけるテキスト論 , 三重大学日本語学文学 , ISSN=09184449 , 三重大学日本語学文学研究室 , 2006 , jun , 17 , pages=13-21 , naid=120000947942 , https://hdl.handle.net/10076/6639</ref><ref name="Google_上古有人">小田勝『日本語史要講』2008年 - Google "[https://books.google.co.jp/books?id=nSG62C5WHWMC&pg=PA26&lpg=PA26&dq=%E4%B8%8A%E5%8F%A4%E6%9C%89%E4%BA%BA&source=bl&ots=Lp3WS2iaP3&sig=ACfU3U0-wD1fy1IC2HMH6XpETizBzJfatQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjzvLLWwajiAhUG77wKHQc_C-gQ6AEwBXoECAYQAQ#v=onepage&q=%E4%B8%8A%E5%8F%A4%E6%9C%89%E4%BA%BA&f=false 上古有人]"</ref>
  
{{Quotation|《[[原文| 原 文 ]]》 {{small|※縮小文字は原本上の補足。※[[和字間隔]]は現代の補足。}}<br />平津驛家西一二里 有岡 名曰 大櫛 上古有人 體極長大 身居丘壟之上 手摎海濱之蜃 {{small|大蛤也}} 其所食貝 積聚成岡 時人 取大朽之義 今謂大櫛之岡 其踐跡 {{small|長卌餘歩 廣廿餘歩 尿穴徑可廿餘歩許}}|『常陸國風土記』那賀略記}}
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<blockquote>《原 文》 <ref>※縮小文字は原本上の補足。※和字間隔は現代の補足。</ref>有岡 名曰 大櫛 上古有人 體極長大 身居丘壟之上 手摎海濱之蜃(大蛤也) 其所食貝 積聚成岡 時人 取大朽之義 今謂大櫛之岡 其踐跡 (長卌餘歩 廣廿餘歩 尿穴徑可廿餘歩許)、『常陸國風土記』那賀略記</blockquote>
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<blockquote>《[[原文#現代日本語訳|口語解釈]]例》 {{small|※振り仮名は[[口語]]体。[ ]内は文意を整えるための補足文。( )内の※に続く記述は注釈。}}<br />[{{ruby|[[常陸国]]|ひたちのくに}}の{{ruby|[[那珂郡|那賀郡]]|なかのこおり}}にある交通の要衝・]{{ruby|平津駅家|ひらつのうまや}}から西へ{{ruby|一二|いちに}}{{ruby|[[里 (尺貫法)|里]]|り}}もしくは1里・2里ほど行った所<ref group="*">「一二(いちに)」は「わずか」の意。従って「一二里」は「里の単位でわずかな距離」の意。しかし「一二里」を「1・2里」の意で捉えれば、具体的距離を示すものとなり、古代日本の1里は約5.3[[キロメートル|km]]<!--約533.5m-->、2里は約10.7km<!--約10677.9m-->と、数値を割り出すことができる。</ref>に{{ruby|岡|おか}}([[丘]])があり、名を「大櫛(おおくし)」という。大昔、[この地に]人がいた。[その人の]{{ruby|体|からだ}}は極めて{{ruby|長大|ちょうだい}}で、岡の上にいながらにして手は[[海浜]]の{{ruby|蜃|うむき}}を掘り起こしてしまう。[それほどの[[巨人 (伝説の生物)|巨人]]であった。][ここでいう{{ruby|蜃|うむき}}とは]{{ruby|大蛤|おおうむき}}である(※『うむき(蜃、蛤)』は[[ハマグリ]]の[[古語]])<ref group="*">市井の娯楽本やインターネット上の記述で、本文中の「蜃」を[[妖怪]]の「[[蜃]](しん)」と関連付けるものが見られるが、ここで語られている「蜃(うむき、うむぎ)」は実体があって食用にされる[[貝類]]の「蛤(うむき、うむぎ)」、すなわち「蛤(はまぐり)」のことであって、妖怪ではない。</ref>。その[巨人の]食べた[[貝]][の[[貝殻|殻]]]は、積もり積もって岡になった。当時の人(※現代〈すなわち、奈良時代〉の我々から見て大昔の人々)は[“大量の貝が朽ちている”意をもって、この岡を]「大朽(おおくち)」と呼んだが、[それが[[転訛|訛って]]]今は「大櫛之岡(おおくしのおか)」という(※比定地は{{ruby|[[大串貝塚]]|おおぐし かいづか}}。その所在地は、現在の茨城県[[水戸市]]塩崎町1064-1<ref group="*">水戸市塩崎町1064-1({{googlemap|水戸市塩崎町1064-1}}</ref>、かつての[[東茨城郡]][[常澄村]]塩崎{{r|Kb_大串貝塚}}<ref group="*">[[江戸時代]]における[[常陸国]][[茨城郡]]塩ヶ崎村、[[幕藩体制]]下の[[常陸国|常州]][[水戸藩]][[地方知行|知行]]等塩ヶ崎村。</ref>)。その[巨人の]足跡は、おおよそ、長さ40[[歩 (尺貫法)|歩]]あまり、幅20[[歩 (尺貫法)|歩]]あまりで、[[尿]]の穴(※[[排尿#立ち小便|立ち小便]]によって穿たれた穴)は直径20[[歩 (尺貫法)|歩]]あまりであった。</blockquote>
  
 
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2022年3月19日 (土) 23:26時点における版

ダイダラボッチは、日本の各地で伝承される巨人。類似の名称が数多く存在するが、以下では便宜的にダイダラボッチと呼称する。山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられている(鬼や大男などの妖怪伝承が巨人伝承になったという説もある。)[1]

概要

柳田國男が「ダイダラ坊の足跡」(1927年(昭和2年[4月、『中央公論』)で日本各地から集めたダイダラボッチ伝説を考察しており[* 1]、ダイダラボッチは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に法師を付加した「大太郎法師」で、一寸法師の反対の意味であるとしている。

名称

「でいだらぼっち[2]」、「ダイランボウ[3]」、「だいだらぼう[4]」、「でいらんぼう[5]」、「だいらぼう[6]」、「デエダラボッチ[7]」、「デイラボッチ(宮田, 1993)」、「デイラボッチャ[8]」、「デーラボッチャ(高木他, 1990)」、「デエラボッチ[9]」、「デーラボッチ[10]」、「タイタンボウ[* 2]」、「デエデエボウ[11]」、「デイデンボメ[* 3]」、「ダイトウボウシ」、「レイラボッチ」、「ダダ星」、「おおきいぼちゃぼちゃ」[12]。 等様々な呼び名がある。大太法師(だいだらぼっち)、大太郎坊(だいだらぼう)とも表記し、九州では大人弥五郎(おおひとやごろう)と呼ばれる。

文献

常陸国風土記

『常陸国風土記』那賀郡条、平津駅家条、大櫛之岡、大串貝塚

奈良時代に成立した『常陸国風土記』のうち、常陸国の那賀郡(なかのこおり[13])(現在の茨城県那珂郡〈なかぐん〉)について記された「那賀略記」には、以下のとおり、大昔の「大櫛之岡(おおくしのおか)」にいたという長大な人についての記述(平津駅家条)がある。[14][15][16][17]

《原 文》 [18]有岡 名曰 大櫛 上古有人 體極長大 身居丘壟之上 手摎海濱之蜃(大蛤也) 其所食貝 積聚成岡 時人 取大朽之義 今謂大櫛之岡 其踐跡 (長卌餘歩 廣廿餘歩 尿穴徑可廿餘歩許)、『常陸國風土記』那賀略記

《書き下し文》 [19]平津駅家(ひらつのうまや)の西一二(いちに)里(り)に岡(をか)あり。名を大櫛(おほくし)と曰(い)ふ。上古(いにしへ)、人あり。體(かたち)は極(きは)めて長大(たけたか})く、身(み)は丘壟(をか)の上(うへ)に居(ゐ)ながら、手は海浜(うみべた)の蜃(うむき)を摎(くじ)りぬ。大蛤(おほうむき)也(なり)。其(そ)の食(く)らひし貝(かひ)、積聚(つも)りて岡(をか)と成(なり)き。テンプレート:Rubyテンプレート:Rubyテンプレート:Rubyテンプレート:Rubyりて、今はテンプレート:Rubyテンプレート:Rubyふ。そのテンプレート:Rubyみしテンプレート:Rubyは、長さテンプレート:Ruby テンプレート:Rubyテンプレート:Ruby、広さテンプレート:Ruby テンプレート:Rubyテンプレート:Rubyテンプレート:Rubyテンプレート:Ruby テンプレート:Ruby テンプレート:Rubyテンプレート:Ruby テンプレート:Rubyなり。

口語解釈例》 テンプレート:Small
テンプレート:Rubyテンプレート:Rubyにある交通の要衝・]テンプレート:Rubyから西へテンプレート:Rubyテンプレート:Rubyもしくは1里・2里ほど行った所[* 4]テンプレート:Ruby)があり、名を「大櫛(おおくし)」という。大昔、[この地に]人がいた。[その人の]テンプレート:Rubyは極めてテンプレート:Rubyで、岡の上にいながらにして手は海浜テンプレート:Rubyを掘り起こしてしまう。[それほどの巨人であった。][ここでいうテンプレート:Rubyとは]テンプレート:Rubyである(※『うむき(蜃、蛤)』はハマグリ古語[* 5]。その[巨人の]食べた[の]は、積もり積もって岡になった。当時の人(※現代〈すなわち、奈良時代〉の我々から見て大昔の人々)は[“大量の貝が朽ちている”意をもって、この岡を]「大朽(おおくち)」と呼んだが、[それが訛って]今は「大櫛之岡(おおくしのおか)」という(※比定地はテンプレート:Ruby。その所在地は、現在の茨城県水戸市塩崎町1064-1[* 6]、かつての東茨城郡常澄村塩崎テンプレート:R[* 7])。その[巨人の]足跡は、おおよそ、長さ40あまり、幅20あまりで、尿の穴(※立ち小便によって穿たれた穴)は直径20あまりであった。

テンプレート:Anchors 考古学等の諸分野においても、係る「大櫛之岡の巨人伝説」とその比定地・大串貝塚は相当に重要で、縄文時代貝塚遺跡文献に記されている最古の例[20][21]、もっと言えば、石器時代遺跡の記録された日本最古の例[22][23]として知られている。

播磨国風土記

奈良時代に成立した『播磨国風土記』ののうち、播磨国の託賀郡(テンプレート:Small)(現在の兵庫県多可郡テンプレート:Small〉)について記された「託賀略記」には、天が高いから楽に立って歩けると言ってこの地を好み、沼と化す数多の足跡を残した、大人(おおひと)の伝説が記されており、先述した『常陸国風土記』に所収されている“大櫛之岡の巨人伝説”(大櫛之岡の長大な人の伝説)の類型と考えられている。

テンプレート:Quotation テンプレート:Quotation

各地の伝承

山を作る・運ぶ

  • 富士山を作るため、甲州の土を取って土盛りした。そのため甲州は盆地になった[24]
  • 富士山を作るため近江の土を掘り、その掘った跡地が琵琶湖となった[25]。この伝説の縁で1968年富士宮市近江八幡市は夫婦都市となっているテンプレート:R
  • 上州の榛名富士を土盛りして作り、掘った後は榛名湖となった。榛名富士が富士山より低いのは、もう少し土を運ぼうとしたが夜が明け、途中でやめたためである[26]
  • 浅間山が、自分より背の高い妹の富士山に嫉妬し、土を自分にわけろといった。富士山は了解し、だいだらぼっちが自分の前掛けで土を運んだ。しかし浅間山は土の量が足りないと怒り、彼を叩いた。その際にこぼれた土が前掛山となった。怒りだした浅間山はついに噴火してしまった。
  • 西の富士、東の筑波と呼ばれる関東の名山の重さを量ろうとし天秤棒に2つの山を結わえつけ持ち上げると、筑波山のほうは持ち上がったが富士山は持ち上がらない。そのうちに結わえていたつるが切れ、筑波山が地上に落ちてしまった。その衝撃でもともと1つの峰だった筑波山は、2峰になってしまったという。
  • 信州佐久郡を運んでいた時、もっこが切れ、平尾山と糠塚山ができた[27]
  • 富士山と八ヶ岳が背比べをして、八ヶ岳が勝ったが、それを妬ましく思った富士山に蹴られ、山が八つに割れた。それを治そうとデエダラボッチが茅で出来たもっこで土を運び、線香を杖にしたら折れてしまい、暫く置いておいたら大泉山と小泉山が出来た(諏訪地方茅野市)。
  • 信州安曇郡で西側の飛騨山脈から削り取った土を東側の山地に運んでいた時、もっこの綱が切れ、室山ができた。

足あと・手のあとを残す

  • 上州の赤城山に腰掛けて踏ん張ったときに窪んで出来た足跡が水たまりになった。木部の赤沼がそれであるテンプレート:R
  • 長野県大町市北部の青木湖中綱湖木崎湖からなる仁科三湖はいずれもダイダラボッチの足あとである。
  • 遠州の山奥に住んでいたダイダラボッチが子供たちを手にのせて歩いている時に、腰くらいの高さの山をまたいだ拍子に子供たちを手から投げ出してしまった。びっくりした子供たちとダイダラボッチは泣き出してしまい、手をついてできた窪みに涙が流れ込んで浜名湖となった。
  • 現在、東京都世田谷区にある地名「代田」(だいた)やテンプレート:Rさいたま市の「太田窪」(だいたくぼ)は、ダイタ坊(ダイダラボッチ、ダーダラボッチ)の足跡に由来すると言われている[28]。なお、代田のダイダラボッチについては2021.3.28日に小田急線世田谷代田駅前にダイダラボッチをかたどった駅前広場が完成した。これを記念して当日づけで『巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ』(著作:きむらけん、発行:世田谷代田駅 駅前広場記念事業委員会)が発行された。「代田ダイダラボッチ音頭」も作曲された。[29]
  • 長野県戸隠山大座法師池三重県志摩郡大王町はダイダラボッチに由来する地名であるテンプレート:R
  • 静岡市のだいらぼう山頂には全長150mほどの窪みがあるが、ダイダラボッチが左足を置いた跡と伝えられている。琵琶湖から富士山へ土を運ぶ途中に遺したものであるという。
  • 相模原市の伝説ではデイラボッチと呼ばれ、富士山を持ち上げ違う場所に運ぶ途中、疲れたので、富士山に乗っかり休んだところそこにまた根が生えてしまいもちあげようとするが、持ち上がらずそのときふんばった所が今の鹿沼公園であるという。また、相模原市南区に「大沼・小沼」の地名が残るが、かつて実在したこの二つの沼はデイラボッチが尻餅をついた跡であり、その間に「ふんどし窪」という溝状のくぼ地があったという伝承もある。
  • 小便をしようと飯野山香川県中部)に足をかけた際に山頂付近に足跡が付いた(現在もその跡であるという伝説の足跡が残っているが非常に小さい)。なお、その小便の際に出来たのが大束川といわれる。
  • 愛知県東海市の南側に加木屋町陀々法師(だだぼうし)という地名があり、ダイダラボッチが歩いて移動する際に出来た足跡が池になったとして伝説が残っている。この「足跡池」(「陀々法師池」ともいう)は名古屋鉄道八幡新田駅の南方100m辺りにあったが、1986~1987年(昭和61~62年)頃に埋め立てられ(ゼンリン住宅地図「東海市」1986年発行の1986年版、1987年発行の1988年版による)、2000年(平成12年)頃にモータースが出来て、現在その形跡はない(「ものがたり通信」の「18.ダイダラボッチの足跡」参照)。
  • 長野県佐久市安原にある二つの丸い水田は、デーラン坊の足跡だと言われる[30]
  • 比叡山につまづいて怒って蹴っ飛ばした地面に空いた穴が琵琶湖、飛んで行った土塊が淡路島になった[31]

休む・洗う・食べる

  • 赤城山に腰掛けて、利根川で足を洗った[32]
  • 羽黒山には人間がまだ誕生しない大昔、でいだらぼっちが羽黒山に腰掛けて鬼怒川を洗ったという言い伝えがある。
  • 長野県塩尻市高ボッチ高原はダイダラボッチが腰を下ろして一休みした場所であるという(諸説あり)。
  • 常陸国風土記」によると、茨城県水戸市東部にある大串貝塚は、ダイダラボッチが貝を食べて、その貝殻を捨てた場所だと言われている。その言い伝えから、近くにダイダラボッチの巨大な石像が創られている。[33]
  • 碓氷峠で休んでいる時に、妙義山まで届き、その足のを猪が芋と間違えかじったので、猪を握り潰して浅間山猪鍋を煮た。なお、鍋をこぼした場所から塩気のある温泉が湧いたという[34]

人間を助ける

  • 秋田県横手盆地が湖であったので干拓事業を行った際、ダイダラボッチが現れて水をかき、泥を掬ったため工事がはかどった(鳥の海の干拓伝説)[35]。このダイダラボッチは秋田市太平山三吉神社の化身と考えられているテンプレート:R太平山及び山麓の太平地区の名は現在「たいへい」と読まれるが、明治期までは「おいだら」と読まれており、由来を巨人「オイダラボッチ」であるとする説(秋田の今と昔)がある。
  • 昔、東信濃の底だったが、デイラボッチは「岩鼻」という山を砕き水を排出し、平地を作った。それから後、その土地を、大佐久(南北佐久)と小佐久(小県)と言うようになった[36][* 8]
  • 茨城県水戸市大足(おおだら)は、土地の西南にあった山のおかげで村は一日の半分は日陰になり、日が早く暮れてしまい困っていた。そこでダイダラボッチ(この地方ではダイダラボウと呼称)は村人のために山をどけてあげた。しかし、山をどけた跡の土地がえぐれてしまい、雨が溜まるようになったので、川をつくり沼底をさらって水が流れるようにした。どけた山は水戸市・笠間市東茨城郡城里町に跨がる朝房山、作った川と沼は桜川、千波湖である[37]

参考文献

脚注

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関連項目

注釈

参照

  1. 『妖怪の本』学習研究社、1999年、92,98頁。92頁の挿絵(加賀国河北郡木越の光林寺跡で大太法師の足跡を見物する人々)は『北越奇談』のものと書かれているが、正確には『古今角偉談』巻之二の「大足跡と大足跡との角偉」である。
  2. http://www.snsagami.org/hyakusen/j_so/minwa/deidara.htm , でいだらぼっち, さがみはら百選, シニアネット相模原 , 2011年2月13日
  3. 井ノ口章次他編, 1955, 静岡県庵原郡両河内, 民俗採訪, 昭和29年度号, id=NCID|BN13889905, pages=109頁, 國學院大學民俗学研究会
  4. 村上健司編著, 日本妖怪大事典, 2005, 角川書店, Kwai books, isbn=978-4-04-883926-6, pages=195-196頁
  5. 和田孝弌, http://deiranbou.s43.xrea.com/ , 「信濃でぃらんぼう音舞」普及保存会ホームページ, 信濃でぃらんぼう音舞普及保存 , 2011年2月13日
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  18. ※縮小文字は原本上の補足。※和字間隔は現代の補足。
  19. 振り仮名は文語体。
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  37. テンプレート:Cite journal


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