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<!--※組み込むべき内容:過疎化・少子高齢化と担い手の減少。文化の伝承のほか、地域おこしなどにも関わる虫送り行事の復活。--> | <!--※組み込むべき内容:過疎化・少子高齢化と担い手の減少。文化の伝承のほか、地域おこしなどにも関わる虫送り行事の復活。--> | ||
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+ | 中国大陸では、大規模な大雨や旱魃が起こると必ずといっていいほどトノサマバッタの群生相が発生し、大規模な農被害を与えてきた。そのため蝗害(蝗災)が天災の一つに数えられている。そして、'''天災は皇帝の不徳によるものとされてきた'''ため、各時代の王朝はこの対策に取り組み、発生した天災の記録を残した。そのためもあり、中国大陸には蝗害の記録が非常に多い。 | ||
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+ | 古くは殷の甲骨文にも蝗害の記録が見られる<ref>彭邦炯 [http://www.cnki.com.cn/Article/CJFD1983-NOSE198302072.htm 商人卜螽説——兼説甲骨文的秋字]、1983年、農業考古、1983年第2期</ref>。また、周の詩篇『詩経』にもバッタ駆除の様子が書かれている<ref>中國哲學書電子化計劃 [http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=15961&if=gb 詩経·小雅·大田]</ref>。漢代になると記録が増え、紀元前175年(文帝6年)<ref>漢書 文帝紀(ウィキソース中国語版)。</ref>を始めとして、漢書、後漢書には20回以上もの蝗害の記録があり、後漢の思想家王充<ref>[http://www.guoxue.com/zibu/lunheng/lh016.htm 国学网站 子部 论衡 乱龙篇第四十七]</ref>や官僚の蔡邕<ref>李純然 [http://www.xianqiao.net:8080/gb/1/6/19/n100966.htm 蝗者、在上貪苛之所致也]</ref>も自書の中で蝗害について述べている。 | ||
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+ | 5世紀ごろから王朝の取り組みについての記録も増え、北史には北魏の文成帝の時代に、官庫を開いて窮民を救済した旨の記述がある。唐代になって儒者から「'''祭礼を怠るから'''蝗害が起こるのだ」との意見が出たり(『新唐書』五行志三)、政治の要諦を説いた『貞観政要』には、7世紀の皇帝太宗が蝗を飲み込んで蝗害を止めたという伝説が書かれている<ref>[http://guoxue.baidu.com/page/d5eab9dbd5fed2aa/31.html 『貞観政要』 巻八 務農第三十(凡四章)]</ref><ref>《贞观政要》卷8《务农》、上海古籍出版社1978年版、第237頁。</ref>。715年に淮河流域で発生した蝗害に対して、当時の宰相姚崇が対策を命じている<ref>『旧唐書』舊唐書/卷96, 姚崇伝(ウィキソース中国語版)。</ref>。記録も詳細になり、被害の様子や群れの移動の様子も書かれるようになった。 | ||
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==== 先史時代 ==== | ==== 先史時代 ==== | ||
* 縄文時代(※時代区分については諸説あり。最も早い説で前期、遅い説で末期) - 稲作(陸稲栽培)の日本伝来。日本列島においてまだ少数派であった稲作の担い手は、稲を害する虫に悩まされたであろう<ref name="JCPA-ウンカ">http://www.jcpa.or.jp/labo/column/control/08/, ウンカをめぐって, 公式ウェブサイト, 農薬工業会, 20200927194014, 2018-05-31, 農薬工業会</ref>が、当時の大多数の日本人にとって“稲虫”の害はまだ他人事であったと思われる。 | * 縄文時代(※時代区分については諸説あり。最も早い説で前期、遅い説で末期) - 稲作(陸稲栽培)の日本伝来。日本列島においてまだ少数派であった稲作の担い手は、稲を害する虫に悩まされたであろう<ref name="JCPA-ウンカ">http://www.jcpa.or.jp/labo/column/control/08/, ウンカをめぐって, 公式ウェブサイト, 農薬工業会, 20200927194014, 2018-05-31, 農薬工業会</ref>が、当時の大多数の日本人にとって“稲虫”の害はまだ他人事であったと思われる。 | ||
− | * 弥生時代早期(旧来の縄文時代末期) - 日本列島における稲作の本格的普及。このとき以来、稲作の担い手と収穫を当てにする共同体にとって、稲を害する虫の存在は常に付きまとう大きな脅威となった<ref name="JCPA-ウンカ" /><ref group="私注">ただ、弥生の共同体は稲作に関する祭祀をも持って渡来したと考えられ、祖先の霊、特に'''「害虫」などの災厄に対応する祖霊''' | + | * 弥生時代早期(旧来の縄文時代末期) - 日本列島における稲作の本格的普及。このとき以来、稲作の担い手と収穫を当てにする共同体にとって、稲を害する虫の存在は常に付きまとう大きな脅威となった<ref name="JCPA-ウンカ" /><ref group="私注">ただ、弥生の共同体は稲作に関する祭祀をも持って渡来したと考えられ、祖先の霊、特に'''「害虫」などの災厄に対応する祖霊'''を慰撫する祭祀は、弥生時代から行われていた、と管理人は考える。また、稲や野菜につく虫はウンカのみではない。虫害をウンカのみに限定するのはいかがなものか。</ref>。 |
==== 古代 ==== | ==== 古代 ==== | ||
− | * | + | * 皇極天皇3年(644年)7月に富士川のあたりで、大生部多は長さ4寸ほどの'''虫'''を指して、「これは常世の神である。この神を祭る人は、富と長寿が得られる」といい、'''虫祭り'''をすることを勧めた。巫女たちも神のお告げといつわり、「常世の神を祭ると、貧しい人は富を得、老人は若返る」といった。このために信仰は広まり、都でも田舎でも'''常世の虫をとって安置し'''、財宝を差し出したが、何の利益もなく、損失が多かった。秦河勝は民衆が騙されるのをにくみ、大生部多を捕え打ち懲らしめたところ、巫女も恐れて祭りを勧めることをやめた<ref>この場合も虫を一種の「祖霊」とみなしていたのであれば、虫送りの原型の祭祀として興味深いと感じる。</ref>。 |
− | * | + | * 大宝元年8月(701年9月頃<ref group="*">和暦の大宝元年8月1日と8月29日(同月最終日)は、西暦(ユリウス暦)では701年9月7日と10月5日。</ref>、飛鳥時代末期) - 三河国(現在の愛知県東部地域)を始めとする17か国に蝗害あり/『続日本紀』巻2 大宝元年8月辛酉条に基づく。以後、数年おきに蝗害の記録あり。 |
− | * | + | * 天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年(749年、奈良時代中期) - 下総国(現在の千葉県北部・茨城県西部地域等)に蝗害あり/『続日本紀』に基づく。 |
− | * | + | * 弘仁3年(812年、平安時代初期) - 薩摩国(現在の鹿児島県西部地域)に蝗害あり/ウンカによる。『日本後紀』巻22 弘仁3年条に基づく。 |
+ | * 寿永2年6月1日(1183年6月22日、平安時代末期) - 篠原の戦いで平氏武将・'''斎藤実盛'''(斎藤別当実盛)'''が戦死'''/その最期を伝える逸話が、後世、主として西日本で稲虫を追い払う呪術的神事と強く結びつくこととなる。 | ||
==== 中世 ==== | ==== 中世 ==== | ||
− | * | + | * 16世紀の初め頃<ref name="JCPA-ウンカ" />(戦国時代中期) - '''各地の農村で虫送りが行われ始める'''<ref name="JCPA-ウンカ" />。 |
− | * | + | * 天文9年(1540年、戦国時代末期) - 天文の飢饉が発生/前年に発生した大雨・洪水・蝗害により、この年の年明け以降、近畿地方を中心とした各地が飢饉に見舞われ、時疫(流行り病)が追い打ちをかけた。しかし世は戦国の只中で、朝廷(大和朝廷)・幕府(室町幕府)・戦国大名(細川政権)による政治的・経済的救済は皆無も同然であった。 |
==== 近世 ==== | ==== 近世 ==== | ||
− | * | + | * 江戸時代全般 - '''広く日本各地の農村で虫送りが行われていた'''<ref name="JCPA-ウンカ" />。 |
− | * | + | * 寛文元年(1661年、江戸時代初頭) - 小豆島の伝法川流域で虫送りが始まる/香川県小豆郡土庄町肥土山の自治会の史料による。 |
− | * | + | * 寛文10年(1670年) - 筑前国(現在の福岡県北西部地域)にて、鯨油を使った稲虫の注油駆除法が考案される<ref name="JCPA-ウンカ" />。 |
− | * | + | * 享保17年夏(1732年夏、江戸時代前期) - 享保の大飢饉が発生/梅雨入りから2か月も続く長雨による深刻な冷夏と稲虫(ウンカ)の大発生で西日本全域が大凶作に見舞われる。とりわけ瀬戸内の被害は甚大であった。稲虫の大発生については前年の暖冬も影響している。稲虫の大きく関わる飢饉としては日本史上最大のものとなった。 |
− | ** | + | ** これ以来、江戸幕府は、稲虫が大発生した地域の代官に対して鯨油による注油駆除法を、幕府お墨付きの唯一の害虫駆除法として布達するようになった<ref name="JCPA-ウンカ" />。 |
− | * | + | * 慶応4年5月26日(1868年7月15日、幕末) - 鹿子原の虫送り踊(島根県邑智郡邑南町矢上鹿子原の虫送り)の虫送り当日の献上物の記載あり。 |
==== 明治・大正時代 ==== | ==== 明治・大正時代 ==== | ||
− | * | + | * 明治維新以降 - 稲虫の注油駆除法で用いられる油が、鯨油から石油に置き換わる<ref name="JCPA-ウンカ" />。 |
− | * | + | * 1898年(明治31年) - 正岡子規が句集『俳句稿』を刊行。その「秋の部」に虫送りの一句「火や鉦や遠里小野の虫送」あり。 |
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==== 昭和時代 ==== | ==== 昭和時代 ==== | ||
− | * | + | * 第二次世界大戦終戦後間もなく - 有機合成殺虫剤であるDDTやBHCが登場し<ref name="JCPA-ウンカ" />、稲虫の注油駆除法は約280年もの長きに亘る役割を終えた<ref name="JCPA-ウンカ" />。 |
− | * | + | * 昭和30年代(1955~64年) - 滋賀県下でプロパンガスが普及し、従来の自家燃料としての菜種殻の需要が無くなる。菜種栽培の急速な衰退は虫送りに欠かせない松明の材としての菜種殻の調達が困難になったことを意味し、これを機に儀式そのものが一気に廃れていった。 |
− | * | + | * 1964年(昭和39年) - 横江の虫送り(石川県白山市横江町の虫送り)が、白山市指定無形民俗文化財となる。最も早期の例。 |
− | * | + | * 1967年(昭和42年)5月30日 - 鹿子原の虫送り踊(島根県邑智郡邑南町矢上鹿子原の虫送り)が、島根県指定無形民俗文化財となる。早期の一例。 |
− | * | + | * 1973年(昭和48年) - 青森県五所川原町(現・五所川原市内)にて「奥津軽虫と火まつり」の誕生/地元の青年会議所が地域の虫送りに火祭りの要素を取り入れたことで成立した。 |
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==== 平成時代 ==== | ==== 平成時代 ==== | ||
− | * | + | * 1991年(平成3年)2月2日 - 祖父江の虫送り(愛知県稲沢市祖父江町の虫送り)が、国の選択無形民俗文化財に選択される。 |
− | * | + | * 2010年(平成22年)7月 - 廃れていた中山虫送り(香川県小豆郡小豆島町中山の虫送り)が、松竹映画『八日目の蝉』の撮影用に再現され |
− | * | + | * 2011年(平成23年)7月 - 中山虫送りの復活。 |
== 指定文化財等 == | == 指定文化財等 == | ||
: ※丸括弧内の数字は、指定または選択された年。指定の早いものを先に記載する。数字の無いものは指定された年を確認できないもので、最後に記載する。 | : ※丸括弧内の数字は、指定または選択された年。指定の早いものを先に記載する。数字の無いものは指定された年を確認できないもので、最後に記載する。 | ||
− | * | + | * 国の選択無形民俗文化財 - 祖父江の虫送り (1991)。 |
− | + | * 都道府県指定重要無形民俗文化財 - (福島県三島町の)虫送り。 | |
− | * | + | * 都道府県指定無形民俗文化財 - 鹿子原の虫送り踊 (1967)。尾張の虫送り行事(矢田) (1984)。尾張の虫送り行事(祖父江) (1984)。北浦地方のサバー送り (2009)。相内の虫送り (2011)。 |
− | + | * 市町村指定重要無形民俗文化財 - 高橋の虫送り。 | |
− | * 都道府県指定無形民俗文化財 - | + | * 市町村選択無形民俗文化財 - 犬石の虫送り行事 (1983)。先達の虫送り (2010)。東横田の虫送り行事 (2016)。 |
− | * | + | * 市町村指定無形民俗文化財 - 横江の虫送り (1964)。肥土山の虫送り (1970)。中山虫送り (1970)。木境大物忌神社の虫除け祭り (1992)。野田の虫送り (1998)。南山田の虫送り (2005)。(福井県鯖江市の)虫おくり (2006)。善願の虫送り (2015)。(岐阜県美濃市の)虫送り。山田町虫送り。奥津軽虫と火まつり。日吉の御鍬祭り。(愛媛県西予市城川町の)実盛送り。 |
− | * 市町村選択無形民俗文化財 - | ||
− | * 市町村指定無形民俗文化財 - | ||
== 各地の虫送り == | == 各地の虫送り == | ||
− | + | 関連する神社側の名称としては、神事を分類するに当たっての「'''虫送祭'''(むしおくりさい)」がある<ref name="広島県神社庁-神事区分">http://www.hiroshima-jinjacho.jp/shinjikubun/ , 広島のまつり【神事区分】, 公式ウェブサイト, 広島県神社庁, 2018-05-28</ref>が、神事としての固有名称は神社ごとにあり、「虫送祭」「'''蝗除祭'''(こうじょさい)」「除蝗祭(じょこうさい)」「除蝗祈願祭(じょこうきがんさい)」「除虫祭(じょちゅうさい)」などがこれに当たる。一方で、「'''虫送り'''」「虫追い」「いもち送り」などは、神社の正式な神事名とは別に担い手たる農村の人々に親しまれてきた俗称である。また、行政府や保存会の定めた名称もあり、こういったものは、管理・告知・宣伝等の必要に応じて地域名を冠したり(例:相内の虫送り、中山虫送り、尾張の虫送り行事(矢田))、独自の命名がなされたりすることがある(例:奥津軽虫と火まつり)。 | |
− | * | + | * ここでは、存続している(あるいは廃絶した)虫送りを、地方別・都道府県別(※基準は全国地方公共団体コード)で列記する<!--※ウィキペディアは百科事典であって観光ガイドや役所の保存リストではありませんので、消滅したものも情報に信頼性のあるものは「消滅したもの」としてなるべくなら記載して下さい。-->。なお、学術調査が全国規模で行われた記録は無く、保存状態の全容は掴めない<ref name="服部(1978)">服部旦, 1978-03, http://id.nii.ac.jp/1114/00003596/, 滋賀県竜王町岡屋の「虫送り」行事について:調査報告並びにその機能的研究,及び日本民俗学の一傾向に関する若干の反省 (附)古文書「岡屋地区氏子総代相伝文書」(仮称)紹介・解説, 大妻女子大学文学部紀要, issue:10, pages:1-65,図巻頭1枚, naid:110000128187, ISSN:03020304, 大妻女子大学</ref>。 |
− | * | + | * 近代や近世以前にまで時代を遡れるものは、当時の慣習地名(○国〈形骸化した令制国〉△郡□村など)や行政地名(○州△藩知行□村、○県△郡□村など)をなるべく併記する。 |
=== 東北地方 === | === 東北地方 === | ||
− | :* 参考資料 - | + | :* 参考資料 - 文化庁 文化財部 伝統文化課, 2014-03-31, https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/minzoku/mukei_kiroku/pdf/aomori_mushiokuri.pdf, 青森県南部地方の虫送り ─調査報告書─ , PDF, 公式ウェブサイト, 文化庁, 2018-05-29, ACA-20140331 |
− | ; | + | ;青森県の虫送り |
* 虫送り | * 虫送り | ||
− | ::: | + | ::: 青森県]][[五所川原市域では、漆川、飯詰、鶴ケ岡、高瀬、金山、前田野目などといった集落でもかつては虫送りを行っていたが、衰退したり何らかの事由で失伝したりしたという<ref name="陸奥新報-20150601" />。なお、後述する「奥津軽虫と火まつり」は農村部の各集落から市街地に集めて大規模化した虫送り行事に別の祭事(火祭り)を加えて新たに創出した祭事(神事)であり催事(イベント)であって、従来の虫送り行事を引き継ぎながら異なる点も多い。 |
:* {{Anchors|相内の虫送り}}相内の虫送り({{small|あいうちのむしおくり}})<ref name="ACA-CHO-241103">{{Cite web|和書|url=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/241103 |title=相内の虫送り |work=文化遺産オンライン(公式ウェブサイト) |publisher=[[文化庁]] |accessdate=2018-05-29 }}</ref><ref name="五所川原市-相内の虫送り">{{Cite web|和書|url=http://www.city.goshogawara.lg.jp/kyouiku/bunka/aiuchimushiokuri.html |title=相内の虫送り |work=公式ウェブサイト |publisher=五所川原市 |accessdate=2018-05-27 }}</ref> | :* {{Anchors|相内の虫送り}}相内の虫送り({{small|あいうちのむしおくり}})<ref name="ACA-CHO-241103">{{Cite web|和書|url=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/241103 |title=相内の虫送り |work=文化遺産オンライン(公式ウェブサイト) |publisher=[[文化庁]] |accessdate=2018-05-29 }}</ref><ref name="五所川原市-相内の虫送り">{{Cite web|和書|url=http://www.city.goshogawara.lg.jp/kyouiku/bunka/aiuchimushiokuri.html |title=相内の虫送り |work=公式ウェブサイト |publisher=五所川原市 |accessdate=2018-05-27 }}</ref> | ||
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2024年11月22日 (金) 00:47時点における版
虫送り(むしおくり)は、日本の伝統行事のひとつ。農村において、農作物につく害虫を駆除・駆逐し、その年の豊作を祈願する呪術的行事である[1]。虫追い(むしおい)など、西日本では実盛送り(さねもりおくり)または実盛祭(さねもりまつり)など数多くの別名がある。
目次
概要
虫による害は、不幸な死をとげてしまった人の怨霊と考える御霊信仰[2]に関係した[1]、「害のあるものを外に追い出す」呪いの一つである。神社で行われる紙の形代[私注 1]に穢れを移す[3]風習との共通性が見られる。
春から夏にかけての頃(おもに初夏)、夜間たいまつを焚いて行う。また、藁人形を作って悪霊にかたどり、害虫をくくりつけて、鉦や太鼓を叩きながら行列して村境に行き、川などに流すことが行われる地域もある。地域によっては七夕行事と関連をもって行われる。
かつては全国各地に数多く見られたが、農薬が普及するに連れて害虫の脅威が低減したことに加え、過疎化、少子高齢化、米価の下落などによる農業の衰退と、その結果としての担い手不足も大きく影響し、次第に行わない地域が多くなっていった[4]。火事の危険などを理由に取り止めた地域もある。現在行われているものも、原形を留めるものは少ないといわれている[4]。農業と地域社会に深く関わる伝統行事であるため、その保存には農業および地域社会の活性化と維持が不可欠で、大きな課題となっている[4]。
実盛について
『平家物語』でも知られる平安時代末期の平氏武将・斎藤実盛(斎藤別当実盛)は、篠原の戦いのさなか、乗っていた馬が田の稲株につまずいて倒れたところを源氏方の敵兵に付け込まれ、討ち取られてしまったため、その恨みゆえに稲虫(稲につく害虫)と化して稲を食い荒らすようになったという言い伝えが古くから存在した[5][4]。そのため、稲虫(特にウンカ)は「実盛虫(さねもりむし)」とも呼ばれ、主として西日本では、実盛の霊を鎮めて稲虫を退散させるという由来を伝え[4]、この種の「虫送り」を指して、実盛送り(さねもりおくり)または実盛祭(さねもりまつり)と呼んでいる[6][7]。また、砕けた表現として実盛さん(さねもりさん)[8]とも呼ばれる。
この実盛という語は、田植えの行事「サノボリ」(早のぼり)が転訛という説もある[9]。
歴史
年表
中国大陸
中国大陸では、大規模な大雨や旱魃が起こると必ずといっていいほどトノサマバッタの群生相が発生し、大規模な農被害を与えてきた。そのため蝗害(蝗災)が天災の一つに数えられている。そして、天災は皇帝の不徳によるものとされてきたため、各時代の王朝はこの対策に取り組み、発生した天災の記録を残した。そのためもあり、中国大陸には蝗害の記録が非常に多い。
古くは殷の甲骨文にも蝗害の記録が見られる[10]。また、周の詩篇『詩経』にもバッタ駆除の様子が書かれている[11]。漢代になると記録が増え、紀元前175年(文帝6年)[12]を始めとして、漢書、後漢書には20回以上もの蝗害の記録があり、後漢の思想家王充[13]や官僚の蔡邕[14]も自書の中で蝗害について述べている。
5世紀ごろから王朝の取り組みについての記録も増え、北史には北魏の文成帝の時代に、官庫を開いて窮民を救済した旨の記述がある。唐代になって儒者から「祭礼を怠るから蝗害が起こるのだ」との意見が出たり(『新唐書』五行志三)、政治の要諦を説いた『貞観政要』には、7世紀の皇帝太宗が蝗を飲み込んで蝗害を止めたという伝説が書かれている[15][16]。715年に淮河流域で発生した蝗害に対して、当時の宰相姚崇が対策を命じている[17]。記録も詳細になり、被害の様子や群れの移動の様子も書かれるようになった。
先史時代
- 縄文時代(※時代区分については諸説あり。最も早い説で前期、遅い説で末期) - 稲作(陸稲栽培)の日本伝来。日本列島においてまだ少数派であった稲作の担い手は、稲を害する虫に悩まされたであろう[18]が、当時の大多数の日本人にとって“稲虫”の害はまだ他人事であったと思われる。
- 弥生時代早期(旧来の縄文時代末期) - 日本列島における稲作の本格的普及。このとき以来、稲作の担い手と収穫を当てにする共同体にとって、稲を害する虫の存在は常に付きまとう大きな脅威となった[18][私注 2]。
古代
- 皇極天皇3年(644年)7月に富士川のあたりで、大生部多は長さ4寸ほどの虫を指して、「これは常世の神である。この神を祭る人は、富と長寿が得られる」といい、虫祭りをすることを勧めた。巫女たちも神のお告げといつわり、「常世の神を祭ると、貧しい人は富を得、老人は若返る」といった。このために信仰は広まり、都でも田舎でも常世の虫をとって安置し、財宝を差し出したが、何の利益もなく、損失が多かった。秦河勝は民衆が騙されるのをにくみ、大生部多を捕え打ち懲らしめたところ、巫女も恐れて祭りを勧めることをやめた[19]。
- 大宝元年8月(701年9月頃[* 1]、飛鳥時代末期) - 三河国(現在の愛知県東部地域)を始めとする17か国に蝗害あり/『続日本紀』巻2 大宝元年8月辛酉条に基づく。以後、数年おきに蝗害の記録あり。
- 天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年(749年、奈良時代中期) - 下総国(現在の千葉県北部・茨城県西部地域等)に蝗害あり/『続日本紀』に基づく。
- 弘仁3年(812年、平安時代初期) - 薩摩国(現在の鹿児島県西部地域)に蝗害あり/ウンカによる。『日本後紀』巻22 弘仁3年条に基づく。
- 寿永2年6月1日(1183年6月22日、平安時代末期) - 篠原の戦いで平氏武将・斎藤実盛(斎藤別当実盛)が戦死/その最期を伝える逸話が、後世、主として西日本で稲虫を追い払う呪術的神事と強く結びつくこととなる。
中世
- 16世紀の初め頃[18](戦国時代中期) - 各地の農村で虫送りが行われ始める[18]。
- 天文9年(1540年、戦国時代末期) - 天文の飢饉が発生/前年に発生した大雨・洪水・蝗害により、この年の年明け以降、近畿地方を中心とした各地が飢饉に見舞われ、時疫(流行り病)が追い打ちをかけた。しかし世は戦国の只中で、朝廷(大和朝廷)・幕府(室町幕府)・戦国大名(細川政権)による政治的・経済的救済は皆無も同然であった。
近世
- 江戸時代全般 - 広く日本各地の農村で虫送りが行われていた[18]。
- 寛文元年(1661年、江戸時代初頭) - 小豆島の伝法川流域で虫送りが始まる/香川県小豆郡土庄町肥土山の自治会の史料による。
- 寛文10年(1670年) - 筑前国(現在の福岡県北西部地域)にて、鯨油を使った稲虫の注油駆除法が考案される[18]。
- 享保17年夏(1732年夏、江戸時代前期) - 享保の大飢饉が発生/梅雨入りから2か月も続く長雨による深刻な冷夏と稲虫(ウンカ)の大発生で西日本全域が大凶作に見舞われる。とりわけ瀬戸内の被害は甚大であった。稲虫の大発生については前年の暖冬も影響している。稲虫の大きく関わる飢饉としては日本史上最大のものとなった。
- これ以来、江戸幕府は、稲虫が大発生した地域の代官に対して鯨油による注油駆除法を、幕府お墨付きの唯一の害虫駆除法として布達するようになった[18]。
- 慶応4年5月26日(1868年7月15日、幕末) - 鹿子原の虫送り踊(島根県邑智郡邑南町矢上鹿子原の虫送り)の虫送り当日の献上物の記載あり。
明治・大正時代
- 明治維新以降 - 稲虫の注油駆除法で用いられる油が、鯨油から石油に置き換わる[18]。
- 1898年(明治31年) - 正岡子規が句集『俳句稿』を刊行。その「秋の部」に虫送りの一句「火や鉦や遠里小野の虫送」あり。
昭和時代
- 第二次世界大戦終戦後間もなく - 有機合成殺虫剤であるDDTやBHCが登場し[18]、稲虫の注油駆除法は約280年もの長きに亘る役割を終えた[18]。
- 昭和30年代(1955~64年) - 滋賀県下でプロパンガスが普及し、従来の自家燃料としての菜種殻の需要が無くなる。菜種栽培の急速な衰退は虫送りに欠かせない松明の材としての菜種殻の調達が困難になったことを意味し、これを機に儀式そのものが一気に廃れていった。
- 1964年(昭和39年) - 横江の虫送り(石川県白山市横江町の虫送り)が、白山市指定無形民俗文化財となる。最も早期の例。
- 1967年(昭和42年)5月30日 - 鹿子原の虫送り踊(島根県邑智郡邑南町矢上鹿子原の虫送り)が、島根県指定無形民俗文化財となる。早期の一例。
- 1973年(昭和48年) - 青森県五所川原町(現・五所川原市内)にて「奥津軽虫と火まつり」の誕生/地元の青年会議所が地域の虫送りに火祭りの要素を取り入れたことで成立した。
平成時代
- 1991年(平成3年)2月2日 - 祖父江の虫送り(愛知県稲沢市祖父江町の虫送り)が、国の選択無形民俗文化財に選択される。
- 2010年(平成22年)7月 - 廃れていた中山虫送り(香川県小豆郡小豆島町中山の虫送り)が、松竹映画『八日目の蝉』の撮影用に再現され
- 2011年(平成23年)7月 - 中山虫送りの復活。
指定文化財等
- ※丸括弧内の数字は、指定または選択された年。指定の早いものを先に記載する。数字の無いものは指定された年を確認できないもので、最後に記載する。
- 国の選択無形民俗文化財 - 祖父江の虫送り (1991)。
- 都道府県指定重要無形民俗文化財 - (福島県三島町の)虫送り。
- 都道府県指定無形民俗文化財 - 鹿子原の虫送り踊 (1967)。尾張の虫送り行事(矢田) (1984)。尾張の虫送り行事(祖父江) (1984)。北浦地方のサバー送り (2009)。相内の虫送り (2011)。
- 市町村指定重要無形民俗文化財 - 高橋の虫送り。
- 市町村選択無形民俗文化財 - 犬石の虫送り行事 (1983)。先達の虫送り (2010)。東横田の虫送り行事 (2016)。
- 市町村指定無形民俗文化財 - 横江の虫送り (1964)。肥土山の虫送り (1970)。中山虫送り (1970)。木境大物忌神社の虫除け祭り (1992)。野田の虫送り (1998)。南山田の虫送り (2005)。(福井県鯖江市の)虫おくり (2006)。善願の虫送り (2015)。(岐阜県美濃市の)虫送り。山田町虫送り。奥津軽虫と火まつり。日吉の御鍬祭り。(愛媛県西予市城川町の)実盛送り。
各地の虫送り
関連する神社側の名称としては、神事を分類するに当たっての「虫送祭(むしおくりさい)」がある[20]が、神事としての固有名称は神社ごとにあり、「虫送祭」「蝗除祭(こうじょさい)」「除蝗祭(じょこうさい)」「除蝗祈願祭(じょこうきがんさい)」「除虫祭(じょちゅうさい)」などがこれに当たる。一方で、「虫送り」「虫追い」「いもち送り」などは、神社の正式な神事名とは別に担い手たる農村の人々に親しまれてきた俗称である。また、行政府や保存会の定めた名称もあり、こういったものは、管理・告知・宣伝等の必要に応じて地域名を冠したり(例:相内の虫送り、中山虫送り、尾張の虫送り行事(矢田))、独自の命名がなされたりすることがある(例:奥津軽虫と火まつり)。
- ここでは、存続している(あるいは廃絶した)虫送りを、地方別・都道府県別(※基準は全国地方公共団体コード)で列記する。なお、学術調査が全国規模で行われた記録は無く、保存状態の全容は掴めない[21]。
- 近代や近世以前にまで時代を遡れるものは、当時の慣習地名(○国〈形骸化した令制国〉△郡□村など)や行政地名(○州△藩知行□村、○県△郡□村など)をなるべく併記する。
東北地方
- 参考資料 - 文化庁 文化財部 伝統文化課, 2014-03-31, https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/minzoku/mukei_kiroku/pdf/aomori_mushiokuri.pdf, 青森県南部地方の虫送り ─調査報告書─ , PDF, 公式ウェブサイト, 文化庁, 2018-05-29, ACA-20140331
- 青森県の虫送り
- 虫送り
- 青森県]][[五所川原市域では、漆川、飯詰、鶴ケ岡、高瀬、金山、前田野目などといった集落でもかつては虫送りを行っていたが、衰退したり何らかの事由で失伝したりしたという[22]。なお、後述する「奥津軽虫と火まつり」は農村部の各集落から市街地に集めて大規模化した虫送り行事に別の祭事(火祭り)を加えて新たに創出した祭事(神事)であり催事(イベント)であって、従来の虫送り行事を引き継ぎながら異なる点も多い。
- テンプレート:Anchors奥津軽虫と火まつり(テンプレート:Small)[26][27][28]
- 青森県五所川原市(旧・北津軽郡五所川原村界隈。江戸時代における陸奥国津軽郡の喰川村・平井村・柏原村界隈、幕藩体制下の弘前藩知行喰川村・平井村・柏原村界隈)に伝わる。五所川原市指定無形民俗文化財。1964年(昭和39年)、常陸宮正仁親王と旧弘前藩津軽家出身の津軽華子(華子妃)が、結婚の報告のために五所川原を訪れた際、各集落ごとに実施されていた虫送りを中心市街地に集めて盛大に執り行ったことをきっかけに、虫送りは市の祭りとして実施されるようになった[29]。さらに1973年(昭和48年)、五所川原青年会議所が地域の虫送りに火祭りの要素を取り入れたことで現在の「奥津軽虫と火まつり」が誕生した[29]。
- テンプレート:Anchors木境大物忌神社の虫除け祭り(テンプレート:Small)[30][31]
- 蝗除祭(テンプレート:Small、俗称:虫送り)
- 虫送り
-
- テンプレート:Anchors高橋の虫送り
関東地方
- テンプレート:Anchors門平の虫送り - 埼玉県秩父郡皆野町門平に伝わる。[40]
- テンプレート:Anchors立沢の虫送り - 埼玉県秩父郡皆野町立沢に伝わる。[40]
- テンプレート:Anchors川和の虫送り(テンプレート:Small)
- テンプレート:Anchors南山田の虫送り
- 神奈川県横浜市都筑区南山田(旧・都筑郡中川村山田。江戸時代における武蔵国都筑郡山田村、幕藩体制下の御料もしくは旗本領武州山田村)に、江戸時代より伝わる[43]。横浜市指定無形民俗文化財[44](2005年〈平成17年〉指定[43])。戦後(第二次世界大戦後)は途絶えていたが、1976年(昭和51年)に復活した[44]。新暦時代の現在は7月の土用入り後の最初の土曜日に行われている[44]。視点は氏神である山田神社[44]。獅子頭、独自の囃子「虫送りの曲」、空き缶に火を灯した松明、囃子連によるひょっとこ踊と獅子舞など、多くの独自性が見られる[44]。地域は宅地化されて往時の農村風景を失っているが、保存会(虫送り行事保存会)と町内会を主催とし[43]、地域の夏の恒例行事として伝承されている[44]。松明の数を、200本であった2015年(平成27年)に対して翌2016年(平成28年)は250本に増やすなどしている[43]。
中部地方・東海地方・北陸地方
- テンプレート:Anchors善願の虫送り(テンプレート:Small)[45]
- テンプレート:Anchors下田の虫送り(テンプレート:Small)
- テンプレート:Anchors床鍋の虫送り(テンプレート:Small、別名:虫送り 大松明火祭り)
- 富山県氷見市床鍋[* 10](1896年〈明治29年〉以前の氷見郡速川村床鍋、1889年〈明治22年〉以前の射水郡床鍋村。江戸時代における越中国射水郡床鍋村、幕藩体制下の加賀藩知行越中床鍋村)に伝わる[47]。約130年前(テンプレート:Small時点)に始まり、一時途絶えたが、1990年(平成2年)に復活した[47]。現在は新暦6月中旬に行われる[48]。幣帛を立てて[48]竹と藁を主材に作られた直径約1メートル・長さ約8メートルの円筒形の大松明に村外れで火を点けた後[47][48]、山道や畦道を曳き廻し[47]、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら「泥虫どろむしほーい、泥虫ほい」の囃子文句と共に練り歩き[47]、最後に大松明を(現在は1992年〈平成4年〉に廃校した旧床鍋小学校跡のグラウンドに[48])立て、一気に燃え上がる炎で稲虫を追い払う[47]。2004年(平成16年)に富山県教育委員会主催で選定された「とやまの祭り百選」の選定物件の一つ(選定名称:床鍋の虫送り)[49]。
- 除蝗祭(テンプレート:Small)
- テンプレート:Anchors横江の虫送り
- 石川県白山市横江町[* 12](旧・石川郡横江村。江戸時代における加賀国石川郡横江村、幕藩体制下の加賀藩知行加州横江村)に、江戸時代より伝わる[51]。白山市指定無形民俗文化財(1964年〈昭和39年〉11月1日指定)[51]。起源については、加州郡代(郡奉行)に願い出たという江戸時代の史料等が残っている程度で、いつごろ始められたかなどは不明[51]。新暦時代において以前は毎年7月21日の夜に行われてきたが、現在7月の海の日の前日に行われている[51]。起点であるなど、関連社として宇佐八幡神社(横江町1に所在)[1]が大きな役割を果たす[51]。横江の虫送りは、伝承の古さと規模の大きさも特徴といえる[51]。
- なお、日本各地と同様、現・白山市域でも山麓部から平野部まで農村で古くから広く行われていたが、農薬が普及するに連れてほとんどの集落で廃れ、今では極わずかな集落でしか見ることができない[51]。
- テンプレート:Anchors犬石の虫送り行事[8](テンプレート:Small、別名:虫追い、さねもりさん[8])
- テンプレート:Anchors東横田の虫送り行事(テンプレート:Small)
- テンプレート:Anchors先達の虫送り(テンプレート:Small)
- cf. テンプレート:Anchors日吉の御鍬祭り(テンプレート:Small)
- テンプレート:Anchors尾張の虫送り行事(テンプレート:Small)[60][61]
- テンプレート:Anchors矢田の虫送り行事(テンプレート:Small)
- テンプレート:Anchors祖父江の虫送り(テンプレート:Small)[62]
- テンプレート:Anchors虫送り - 三重県四日市市富田(旧・朝明郡富田村)[* 24]に伝わる。
- テンプレート:Anchors除虫祭(テンプレート:Small) - 三重県四日市市の八王子町と小林町(旧・三重郡八王子村など)に伝わる。[65]
近畿地方
- テンプレート:Anchorsいもち送り
- 滋賀県蒲生郡竜王町の6集落(岡屋[* 27]、小口おぐち、薬師、山之上、田中、綾戸。テンプレート:Small)で存続、11集落(鏡、山面やまづら、西川、須恵すえ、橋本、弓削ゆげ、信濃、庄、川上、林、駕輿丁かよちょう。テンプレート:Small)で廃絶[21][* 28]。地域性から「竜王町の虫送り」と呼んで差し支えないと思えるが、固有の公式名称は無い。滋賀県下ではどこも同じで、プロパンガスが普及することで従来の自家燃料としての菜種殻の需要が無くなったがゆえに菜種栽培が急速に衰退した昭和30年代(1955~64年)に、虫送りに欠かせない松明の材としての菜種殻の調達が困難になったことを機に、儀式そのものが急激に衰退したという[21]。[69][70]
- テンプレート:Anchors蝗除祭(テンプレート:Small、俗称:いもち送り)[71]
- テンプレート:Anchors虫送り[74][75](総称としての別名:山田町虫送り、山田町の虫送り[76]、山田の虫送り)
中国地方
- 島根県邑智郡邑南町矢上やかみ鹿子原[* 34](江戸時代における石見国邑智郡矢上村鹿子原、幕藩体制下の石見浜田藩知行矢上村鹿子原)に伝わる。島根県指定無形民俗文化財(1967年〈昭和42年〉5月30日指定[79])[80]。太平洋戦争中も中止することなく続けられた[4]。古形を残す虫送り行事として全国でも数少ないものの一つ[81][4][82]で、斎藤実盛由来の虫送りである実盛送りに、安芸国芸北地方(現・広島県芸北地方)より習い伝えられた太鼓踊が附随するという全国でもほとんど例が無い希少性でも高く評価されている[4]。1937年(昭和12年)に編纂された『邑智郡誌』(森脇太一編)によれば、慶応4年5月26日(テンプレート:Small:1868年7月15日)に行われた虫送り当日の献上物の記載があり、少なくともこの頃には行われていたことが分かっている[4]。保存会は1963年(昭和38年)に結成された[4]。虫送り踊が奉納される諏訪神社は、平安時代中期にあたる承和2年(835年)、荒地を開拓するために信濃国の諏訪大社から農業神を分霊した社で、健御名方神(タケミナカタノカミ)と八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)という夫婦神を祭神とする[4]。
- テンプレート:Anchors蟲送り神事(テンプレート:Small)
- テンプレート:Anchors北浦地方のサバー送り[88](別名:サバー送り[89][90])
- 山口県長門市の深川湾に面した地域(かつての大津郡深川村および日置村。江戸時代における長門国大津郡深川村および日置3か村、幕藩体制下の長州藩知行深川村および日置3か村)を核として今に伝えられる。古来、地元では「サバー送り」と通称されるが、山口県指定無形民俗文化財(2009年〈平成21年〉4月14日指定[91])としての指定名称は「北浦地方のサバー送り」である[88]。北浦地区(長北地区)の名を冠してはいるが、行われているのはその一角。現在は新暦7月1日に行われる[89]。当地域では、藁を主材として作られた2躯の実盛人形を長門市東深川藤中ふんじゅうから下関市豊北町粟野まで送り継ぐことで稲虫の災禍を追い払う[88][89]。2躯の実盛人形は共に長さ約2メートル・高さ約1メートルの騎馬武者姿で[89]、それぞれに「サバーサマ」「サネモリサマ」と呼ばれるが[89]、前者はウンカである稲虫の化身であり、後者は斎藤実盛の霊を指すという[89][90]。実盛人形の基となる藁人形は、東深川藤中にある飯山八幡宮社務所[* 40]で、8名の氏子によって送り継ぎの始まるおよそ1週間前に作成される[88][89]。その藁人形は八幡宮宮司に引き継がれ[88]、送り継ぎ開始前々日までに、和紙に書いた顔、和紙で作成された兜、羽織の代わりとされる和紙、木の刀が着けられ、騎馬武者姿に仕立てられる[88]。兜と羽織には毛利家の印である「一○」が記される[88]。この後、送り継ぎ開始当日までの2日間、八幡宮で虫除けの神事が行われる[88]。送り継ぎは先の藤中から中山・江良・上郷の順に二十数か所の集落で行われる[89]。その後は年によって違うが、人形は送り継いだ地域の住民によって抱えられ、西深川境川を経由した後、日置上長崎へきかみ ながさこ[* 41](旧・大津郡日置上村長崎)まで運ばれる[89](※2010年代現在は経路の多くで軽トラックが使われる[90])。その後は、各自治会や子供会などの手で数週間かけて各地域を送り継ぎ、下関市豊北町粟野[* 42](かつての豊浦郡粟野村。江戸時代における長門国豊浦郡粟野2か村、幕藩体制下の長門府中藩知行粟野2か村)まで運ばれる[88][89]。粟野以降の順路は決まっていないものの、最後は、多くの場合は海(油谷湾)に流され[88][89]、時には燃やされる[89]。
- テンプレート:Anchorsサバー送り
四国地方
- テンプレート:Anchors実盛さんの虫送り(テンプレート:Small)
- テンプレート:Anchors肥土山の虫送り(テンプレート:Small、別名:肥土山虫送り[96]、稲虫送り[97])[94][98][99]
- テンプレート:Anchors中山虫送り(別名:中山の虫送り、稲虫送り)[94]
- 香川県小豆郡小豆島町中山[* 48](江戸時代における讃岐国小豆郡中山村、幕藩体制下の讃州津山藩知行中山村)に、350年以上前から伝わる(テンプレート:Small)[102][* 47]。小豆島町指定無形民俗文化財(1970年〈昭和45年〉指定)[100]。少子高齢化による後継者不足のために2005年(平成17年)以降行われていなかったが、松竹映画『八日目の蝉』の撮影で2010年(平成22年)に再現され、翌2011年(平成23年)にはそれを受けて再開された[103][104]。元来は半夏生(夏至から11日目)の日に、現在では新暦7月の第1土曜日に行われる行事で、火手(ほて)と呼ばれる竹製の松明を携え、中山千枚田と呼ばれる棚田の畦道を歩き、害虫駆除と豊作を願う[104]。
- テンプレート:Anchors実盛送り
- 愛媛県西予市城川町の田穂たお・魚成うおなし地区[* 49](旧・東宇和郡の田穂村・魚成村界隈。江戸時代における伊予国宇和郡田穂村・魚成村界隈、幕藩体制下の予州宇和島藩知行田穂村・魚成村界隈)に伝わる。300年以上の歴史があるという(テンプレート:Small)。西予市指定無形民俗文化財[105]。田穂地区は農林水産省の「日本の棚田百選」にも選定されている「堂の坂の棚田」を擁し、実盛送りでもここを練り歩く[106]。当地域の実盛送りは、田穂で木と紙を主材に作られる実盛人形を魚成へ送り継いでゆき[107][105]、最後に道と交わる黒瀬川[* 50]の川辺に着くと河原に人形を置いて、これが大水で流された年は豊作になるという[107]。
九州地方
- テンプレート:Anchors虫追い祭り
- テンプレート:Anchors小松明火祭り(テンプレート:Small、別名:おがた小松明火祭り)
- テンプレート:Anchors除蝗祈願祭(テンプレート:Small)
地名
地名としての「虫送(むしおくり)」は、少なくとも現存するものとしては極めて珍しい。
住居表示上の地名としては、長野県須坂市日滝原の小字「虫送」[* 55][113]が唯一かも知れない例であり、交差点名の「虫送北」と「虫送南」、長電バス北相之島線の停留所名「虫送入口(むしおくりいりぐち)」[114]としても現存する。この地の「虫送」は、江戸時代において信濃国高井郡北部(のちの上高井郡)の須坂村や日滝村に近い、周辺一帯の農民が共用する出作りの村の名であった[113]。
虫送峠(むしおくりとうげ)は、西中国山地東部の広島県域に所在する峠である。現在では国道191号上に位置する。
関連項目
- 住吉踊り
- 田植え終了後にサナボリとなり、虫送りが行われる。九州地方では田植え終了はサノボリという。サナボリ・サノボリが訛り実盛(サネモリ)という。「さ」は民俗学的には田園の神であり、田植え前には、「早降り、さ降り」という田んぼでの神降ろし儀式が行われる。
外部リンク
- テンプレート:Kotobank
- テンプレート:Kotobank
- テンプレート:Kotobank
- 虫送りという行事について知りたい。.2013-10-25 - via {{{via}}}.
- 「虫送り」に関する文献を見たい。石川県および全国のもの。.2013-12-04 - via {{{via}}}.
- 共済総研レポート 2016.12:地方創生と伝統行事 土地の記憶を行動で共有する (2)「肥土山と中山の虫送り」.2016-12 - via {{{via}}}.
注釈
- ↑ 和暦の大宝元年8月1日と8月29日(同月最終日)は、西暦(ユリウス暦)では701年9月7日と10月5日。
- ↑ 五所川原市相内(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 由利本荘市八森城跡(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 鶴岡市三瀬(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 大沼郡会津美里町高田(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 袖ケ浦市野田(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 横浜市都筑区川和町(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 五泉市赤海(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 三条市下田(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 氷見市床鍋(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 南砺市利賀村百瀬(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 白山市横江町(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 鯖江市莇生田町(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 長野市篠ノ井有旅犬石区(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 長野市篠ノ井横田東横田区(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 諏訪郡富士見町先達(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 下伊那郡阿南町和合日吉(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 美濃市上野(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 美濃市御手洗(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 常滑市矢田(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 稲沢市祖父江町(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 犬山市城東地区(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 犬山市五郎丸(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 四日市市富田(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 近江八幡市島町(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 近江八幡市北津田町(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 竜王町岡屋(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 服部(1978) が示す、竜王町で存続させている集落と廃絶した集落のリストは、同資料内で一部に食い違っている箇所がある。本項には最初に示されているリストを反映させた。
- ↑ 野洲市大篠原(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 2015年4月に記された資料で「15年ほど前」と言及していることを論拠に換算。
- ↑ 京都市左京区久多(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 京都市左京区久多(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 天理市山田町(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 邑南町鹿子原(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 福山市神村町(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 福山市駅家町服部永谷(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 広島県府中市栗柄町(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 三次市君田町西入君(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 北広島町新庄(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 飯山八幡宮(長門市東深川藤中1832)(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 長門市日置上長崎(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 下関市豊北町粟野(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 阿南市長生町上荒井(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 伝法川水系.{{{date}}} - via {{{via}}}.
- ↑ 肥土山農村歌舞伎保存会会長の話によれば、この年には日本列島で稲虫(※この時の害虫は、生物学的にはワタリバッタと推定される)が大発生し、農作物を食害されることによって全国で100万人近い餓死者を出していて、伝法川流域の虫送りはこの惨事に大きく関係しているということであるが、裏が取れないので、本文に書き込まず、注釈に留める。 出典:タイマツの火で水田の害虫を海まで誘いだす伝統行事「虫送り」 - B&G財団、2016年7月15日。
- ↑ 土庄町肥土山(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 47.0 47.1 寛文元年(1661年)に始まったということで、2018年時点では 357年前 ( 2018-1661=357 )。
- ↑ 小豆島町中山(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 西予市城川町(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 黒瀬川.{{{date}}} - via {{{via}}}.
- ↑ 久留米市田主丸町田主丸(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 豊後大野市緒方町原尻(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 延岡市北川町家田(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 宮崎市神宮(テンプレート:Googlemap)
- ↑ 須坂市日滝原虫送(テンプレート:Googlemap)
私的注釈
脚注
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- ↑ https://kotobank.jp/word/御霊信仰-66557, 御霊信仰, 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』, コトバンク, 2017-12-18
- ↑ https://kotobank.jp/word/%E5%BD%A2%E4%BB%A3-44940, 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』, コトバンク, 2017-12-18
- ↑ 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 http://www.dydo-matsuri.com/archive/2017/kaneko/ , 次代へ送る太鼓囃子 〜鹿子原の虫送り踊り〜, ダイドーグループ 日本の祭り, ダイドードリンコスペシャル 日本の祭り(公式ウェブサイト), ダイドードリンコ, 20180526185908, 2018-05-26, ダイドードリンコスペシャル 日本の祭り
- ↑ 山田野理夫, 怪談の世界, 1978, 時事通信社, p99
- ↑ 『角川俳句大歳時記』「夏」
- ↑ https://kotobank.jp/word/実盛送り-511554 , 実盛送り, 『デジタル大辞泉』, コトバンク, 2017-12-18
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- ↑ この場合も虫を一種の「祖霊」とみなしていたのであれば、虫送りの原型の祭祀として興味深いと感じる。
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