「天甕津日女命」の版間の差分
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火雷神社は神武天皇が大和国橿原から山背国へ遷った際、当地に火雷神を祀ったことに始まると伝える。養老2年(718年)の社殿新築にあたり玉依姫命と神武天皇を合祀している。 | 火雷神社は神武天皇が大和国橿原から山背国へ遷った際、当地に火雷神を祀ったことに始まると伝える。養老2年(718年)の社殿新築にあたり玉依姫命と神武天皇を合祀している。 | ||
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+ | 愛知県名古屋市西区稲生町にある神社。旧郷社。主祭神は素盞嗚尊、大年神、伊奴姫神。 | ||
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2024年11月16日 (土) 12:44時点における版
天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)。島根県松江市の多久神社の祭神。島根県出雲市の伊努神社に配祀されている。伊努神社の主祭神は赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおおすみひこさわきのみこと)[1]であり、天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)の夫とされる。岐阜県揖斐郡揖斐川町(旧谷汲村)の花長上神社には天甕津日女命(天甕津媛命)の名で祀られている。同じ旧谷汲村内にある花長下神社の祭神の赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおおすみひこさわきのみこと)である。愛知県一宮市の阿豆良神社では天甕津媛命(阿麻彌加都比女)とされる。
天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)と赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおおすみひこさわきのみこと)は、『出雲国風土記』に記述がある出雲神話の神である。
多久神社では阿遅鉏高日子根神の妻神とされ、天御梶日女命[2]とある。この場合、子神は多伎都比古命という。高鴨神社の表記では天御勝姫命と書くこともある。この場合、子神は鹽冶彦命(主祭神の御子)、瀧津彦命(主祭神の御子)である。高鴨神社のある地は鴨氏一族の発祥の地と言われている。
目次
伊努神社について
伊努神社の近傍には斐伊川、山持川が流れている。主祭神は赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命。出雲国風土記、秋鹿郡伊農郷の由来に
出雲の郡伊農の郷に鎮座される、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の后である天甕津日女の命が、国内をご巡行になった時に、ここにお着きになっておっしゃったことには「ああわが夫よ、伊農よ(伊農波夜)」であった。それで伊努というのだ。(HP:伊努神社、玄松子より)
多久神社について
出雲市多久町にある神社。多久川流域にある。祭神は多伎都彦命と天御梶姫命(あめのみかじひめのみこと)である。天御梶姫命は天甕津日女命と同一視される[3]。「尾張国風土記」逸文における阿麻乃彌加都比売とも同じ女神であろう。
『出雲国風土記』楯縫郡に、「土地の古老が語り伝えて言ったことには、阿遅須枳高日子の命の后、天の御梶日女の命が、多具の村においでになって、 多伎都比古の命をお産みになった。その時、胎児の御子に教えて仰せられたことには、 「おまえの御父上のように元気に泣きなさい。生きてゆこうと思うならば、ここがちょうどいい」とおっしゃった。いわゆる石神は、すなわちこれ、多伎都比古の命の御霊代である。日照り続きで雨乞いをした時は、かならず雨を降らせられるのである。(「日本古典文学全集 風土記」 小学館、p202-203)」とある。
この神社は「大船大明神」とも呼ばれており、大船明神としての縁起としては、安康天皇の御代、近江から松本氏が勧請し、大船山に鎮座したという。その時、船にて勧請したその船が、今、岩となって大船山になったらしい。(HP:多久神社、玄松子より)
多久神社(松江市鹿島町)
松江市鹿島町南講武にある神社。主祭神は天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)。夫神は赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおおすみひこさわきのみこと)とされている。
丹波の多久神社
京丹後市峰山町丹波にある神社。主祭神は豊宇賀能売命(豊受大神)。別名、「天酒大明神」。近傍に竹野川が流れており、豊宇賀能売命は川の女神でもあったことが示唆されると考える(管理人)。
伝承によれば豊宇賀能売命は『丹後国風土記』逸文にいう比治山の天女(羽衣天女)と比定され、天に帰りそびれてこの地(比治の真名井[4])に住み、稲作を行い、万病を癒す酒を作り出した[5]。このため、明治時代までは「天酒大明神」ともよばれた[6]。
丹後(宮津市由良宮ノ上)には豊宇賀能賣命の終焉の地とされる奈具神社が存在する。奈具神社は竹野川の下流域に位置する。
その他の神社
蘆高神社
出雲市美野町935にある神社。主祭神は赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかふすまいぬおほすみひこさわけのみこと)。葦高神社の向かい側には、妻神・天甕津姫命(あめのみかつひめ)を祀る伊努(いの)神社が建っている[8]。
向日神社
京都府向日市向日町にある神社。主祭神は向日神(御歳神)、火雷大神、玉依姫命。
向日神社は元々は、同じ向日山に鎮座する「向神社」(上ノ社)、「火雷神社」(下ノ社)という別の神社だった。いずれも延喜式神名帳に現れる古社で、「火雷神社」については名神大社「乙訓坐火雷神社(乙訓神社)」の論社である(他の論社は長岡京市の角宮神社)。向日山は小畑川のほとりにある。また神社の境内内に「増井の井戸」という井戸があり、その井戸の水は火事の火をよく消す、という霊験があった、とのことである。元は井戸や水の神を祀っていたことが示唆される。
向神社は御歳神(向日神)が向日山にとどまり、稲作を奨励したことに始まるという。
火雷神社は神武天皇が大和国橿原から山背国へ遷った際、当地に火雷神を祀ったことに始まると伝える。養老2年(718年)の社殿新築にあたり玉依姫命と神武天皇を合祀している。
伊奴神社
愛知県名古屋市西区稲生町にある神社。旧郷社。主祭神は素盞嗚尊、大年神、伊奴姫神。
花長上神社
花長上神社(はなながかみじんじゃ)は、岐阜県揖斐郡揖斐川町(旧谷汲村)にある神社である。祭神は天甕津日女命(天甕津媛命)である。
式内社の美濃國大野郡花長神社とされており、旧社格は郷社。斐川という地名も残っている。同じ旧谷汲村内にある花長下神社の祭神の赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおおすみひこさわきのみこと)である。この2つの神社は、出雲より美濃に入植した人々が赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおおすみひこさわきのみこと)と天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)を祀ったものであろうか。
また、本来の斐伊川の女神は天甕津日女命であることが示唆されないだろうか。あるいは「みかつひめ」の「みか」が食物のことを指し、奇稲田姫が「稲の櫛(魂)」を指すのであれば、天甕津日女命と奇稲田姫は「同じ女神」であるといえないだろうか(管理人)。
阿豆良神社との関係
愛知県一宮市にある阿豆良神社(尾張国丹羽郡式内社の阿豆良神社)とは密接な関係がある。祭神は天甕津日女命(天甕津媛命)であり、阿豆良神社には以下の社伝がある。
- 垂仁天皇の皇子品津別皇子は、7歳になっても言葉が話せなかったという。皇后の夢の中に天甕津媛命が現れ、「今まで私を誰も祀ってくれない。祠を立て神に祭るなら、皇子は言葉を話せるようになり、天寿を全うするだろう。」ということを伝えたという。垂仁天皇は部下の建岡君に、天甕津媛命を探し出すように命じた。
- 建岡君は美濃国花鹿山(花長上神社は花鹿山の麓にある)に登り、榊の枝で縵(あずら)を作って神に祈り、「此の縵の落ちた所が神を祭る所であろう。」と言うと、縵を遠く投げたという。この縵が落ちた地に創建されたのが阿豆良神社という[9]。
尚、丹羽は万葉仮名では、「迩波(には)」と表記された。郡名は神八井耳命の後裔である爾波県君(にわのあがたのきみ)[10]がこの地を統治したことに由来するという説や、『丹(に)』の一字で「赤土・粘土」を意味するという説がある。奈良県明日香村の石神遺跡からは「尓破評佐匹部・ 俵」と書かれた木簡が見つかっており[11]、尓破評が置かれていたことがわかる。その後701年の大宝律令の制定により評は郡となった。927年成立の延喜式には丹羽(には)郡との記載がみられる[12]。
出雲大神の祟り・誉津別皇子について
誉津別皇子は父天皇に大変寵愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったという。
『日本書紀』によると皇子はある日、鵠(くぐい、今の白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発した。天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じる。天湯河板挙(鳥取造の祖)が出雲(一書に但馬)で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発するようになった。ここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けたとある。
『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられている。天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池・軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。天皇は皇子を曙立王・菟上王とともに出雲(現:島根県東部)に遣わして大神を拝させた。出雲から帰る際、肥川(斐伊川)に橋を渡し、仮宮を造営して滞在していると、そこに出雲国造の祖先である岐比佐都美が青葉の木を飾り立てて川下に立て、食事を献上しようとした。その時、皇子が「この川下に青葉の山のように見えるものは、山の様で山ではない。もしかすると、出雲の石硐の曽宮に坐す、葦原色許男大神を仕え奉る祭場ではないだろうか」と問うた。皇子が話せるようになったことを御供の王たちは喜び、皇子を檳榔の長穂宮に移すと、早馬を走らせて天皇に報告した。天皇はこれを喜び、菟上王を出雲に返して大神の宮(出雲大社)を造らせた。また鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を設けたという。
『釈日本紀』に引く『尾張国風土記』逸文では阿麻乃彌加都比女の祟りとする。それによると誉津別皇子は7歳になっても話すことができなかったが、皇后の夢に多具の国の神・阿麻乃彌加都比売が現れて、「自分にはまだ祝(はふり)がいないので、自分を祭祀してくれる者を与えてくれたなら、皇子は話せるようになり、寿命も延びるであろう」と言った。そこで天皇は日置部らの祖・建岡君にこの神がどこにいるかを占わせた。建岡君は美濃国の花鹿山に行き、榊を折って鬘(髪飾り)を作り、ウケイして「この鬘の落ちたところに神はいらっしゃるだろう」と言った。すると鬘は空を飛んで尾張国丹羽郡に落ちたので、建岡君は同地に社を建て、また同地も鬘が訛って阿豆良(あづら)の里と呼ばれるようになったとある。多具の国とは、出雲国の多久川流域とされ、また阿麻乃彌加都比売は『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷にみえる天甕津日女(もしくは楯縫郡神名樋山の項の天御梶日女)と同神とされる。天御梶日女は葦原色許男大神の子である阿遅鉏高日子根神の妻とされ、阿遅鉏高日子根神は『出雲国風土記』において、誉津別皇子と同じく大人になっても子供のように泣き止まなかったとする伝承が掲載されている。
多久町の多久神社は宍道湖の西側にあり、出雲大社はそれよりも更に西にあって、海の近くにある。両者に似たような伝承があることは興味深い(管理人)。
関連項目
参考文献
- 葛木坐火雷神社(最終閲覧日:22-06-23)
- Wikipedia:賀茂別雷命(最終閲覧日:22-06-23)
- Wikipedia:多久神社(最終閲覧日:22-06-19)
- Wikipedia:花長上神社(最終閲覧日:22-06-16)
- Wikipedia:聖(最終閲覧日:22-06-21)
- Wikipedia:向日神社(最終閲覧日:22-06-23)
- 増井の井戸、京都府向日市歴史・観光サイト(最終閲覧日:22-06-23)
- 「日本古典文学全集 風土記」 小学館、1997、p202-203
- 伊努神社、玄松子(最終閲覧日:22-06-16)
- 赤衾伊努意保須美比古佐倭気命、玄松子(最終閲覧日:22-06-18)
- 多久神社、玄松子(最終閲覧日:22-06-21)
- 鉄の女神Ⅱ、瀬織津姫神(最終閲覧日:22-06-18)
- 葦高神社、出雲市(最終閲覧日:22-06-18)
参照
- ↑ 『出雲国風土記』に登場する神。淤美豆奴神の子神とされる。
- ↑ 『出雲國風土記・楯縫郡』の表記。
- ↑ 天甕津日女命が「御梶姫」とも呼ばれるとすると、諏訪大社の神紋である「梶の葉」紋と何か関係はあるのだろうか?(管理人)
- ↑ 「聖(ひじり)」の語源は「日知り(日を知る者)」という意味である、と言われるが「比治」の語源はどうなのだろうか?(管理人)
- ↑ https://www.city.kyotango.lg.jp/top/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/3/1/1/3405.html , デジタルミュージアムF10多久神社本殿 , 京丹後市 , 2020-09-21
- ↑ 6.0 6.1 丹後新風土記 , 丹後広域観光キャンペーン協議会 , 2008 , page239
- ↑ 峰山郷土史 上 , 峰山町 , 1963 , page460
- ↑ 地元では両社を結ぶ道を「恋人ロード」と呼んでいる。
- ↑ 丹後国には阿良須神社という神社がある。女神を祀る神社である。関連は?(管理人)
- ↑ 尾張氏の者か?
- ↑ https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AMDRL73000209 , 木簡庫 , 奈良文化財研究所 , 2020-11-07
- ↑ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442231/177 , 延喜式 : 校訂. 下巻 国立国会図書館デジタルコレクション , 2020-11-2 , 巻二十二 民部式 上 29ページ