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944 バイト追加 、 2024年11月9日 (土) 00:22
「'''昔は良い人だったのに、悪人になって倒されてしまった。'''」というパターンの伝承は夏の神話の中にも存在する。夏の'''后羿'''である。
<blockquote>太康(夏の第3代帝)の治世、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。羿は、仲間と共に、夏に対して反乱を起こし、太康を放逐して夏王朝の領土を奪った。羿は王として立ち、窮石(現在の河南省洛陽の南)を都とした。しかしその後の羿は、伯封を殺してその母である玄妻を娶り、寒浞という奸臣を重用し、政治を省みずに狩猟に熱中するようになり、最後は玄妻と寒浞によって相王の8年に殺されてしまった。(Wikipedia:太康(夏の第3代帝)の治世、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。后羿は、仲間と共に、夏に対して反乱を起こし、太康を放逐して夏王朝の領土を奪った。后羿は王として立ち、窮石(現在の河南省洛陽の南)を都とした。しかしその後の后羿は、伯封を殺してその母である玄妻を娶り、寒浞という奸臣を重用し、政治を省みずに狩猟に熱中するようになり、最後は玄妻と寒浞によって相王の8年に殺されてしまった。(Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BF 羿]より) </blockquote>
また、一般的な羿神話もこのパターンである。
<blockquote>羿は、人々のために帝夋の意に逆らい、帝夋の子供達である太陽を九個まで射殺した。帝夋は羿を「'''悪人'''」とし、羿と妻の嫦娥を神籍から外して、彼らは不老不死でなくなった。羿は西王母を訪ね、不老不死の薬をもらって帰ったが、嫦娥は薬を独り占めにして飲み、月へ逃げてしまった。羿は、弟子である逢蒙(ほうもう)に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、羿を殺してしまった。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」(逢蒙殺羿)と言うようになった。(Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BF 羿]より) </blockquote>
 
后羿を黄帝とすると、'''太康はまさに「炎帝」そのもの'''といえる。后羿を殺す寒浞は、雷公に認められていた伏羲と同じように后羿に可愛がられていたのに、后羿を殺してしまう。しかも、后羿の子息たちに后羿の遺体を煮たものを食べるように命じ従わぬ者を死罪にした、とのことだ(Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E6%B5%9E 寒浞]より)。とすると、'''寒浞が伏羲であり祝融だった'''と言えるのではないだろうか。むしろ后羿が「偉大な指導者」だったので、死後彼を慕う人たちが后羿を神格化して「黄帝」にしたのではないか、と考える。神格化された黄帝は不老不死の存在かもしれないが、そのモデルとなった后羿は、「'''殺されてしまった人'''」だったのではないだろうか。
=== 私的解説 ===

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