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* 薔薇の花を折るエスス的な「'''父親'''」(「薔薇の花を折る」とは獣人(薔薇の化身でもある樹木神)を殺し、破壊することを暗示している。)
* いったん破壊され(殺され)、後に獣人から人間へと再生される「'''獣人(樹木神)'''」
の2つに分かれる。「倒され再生される木」の一生としては、「木が育ち倒れることから、加工され別の物に再生される」ことまでがその木の「運命」というか「生涯」といえるが、女神が「倒れろ」と述べたからといって木が勝手に倒れることは現実的ではないので、女神の補助役として「木を切り倒す神」が新たに作られ、それを役割とする職業が創設されて、「ただ倒れ、利用されるだけの獣人(樹木神)(と等価の人間)」から枝分かれして「職人としての人間」の地位が作られたものと考える。彼らは女神の伐採・加工・再生業の補助者として、一般の人々よりも神に近い存在として考えられたことと思う。これが後に「倒す神」として神となったものが[[エスス]]であり、神ほどに昇格しなくても半神半人の英雄のようになったものがヘーラークレースのようなものと考える。神に近い指導者的な英雄から、後に更に社会が階層化してくると「王」というものが発生してくるように思われる。人間の中から、自らの補助者としての「王」を選ぶのも、その地位を奪うのも「女神の役割」とされていたのではないだろうか。それはともかく、「女神」に関わる「男性神」は「(切り)倒す神」と「倒される植物神」の2つに大きく分かれたように思われる。それが「美女と野獣」では「(切り)倒す神」が父親、「倒される植物神」が獣人となる。この物語での「父親」は商人なので、倒した獣から得たものを更に売りさばいて、商業の豊穣をもたらす神としての側面が暗に込められているように思う。この神を北欧神話ではオーディンと呼び、古代のフランス(ガリア)においてはローマ人は、自らの神であるメルクリウスである、と一つにまとめて呼んでいたように思う。であり、神ほどに昇格しなくても半神半人の英雄のようになったものがヘーラークレースのようなものと考える。神に近い指導者的な英雄から、後に更に社会が階層化してくると「王」というものが発生してくるように思われる。人間の中から、自らの補助者としての「王」を選ぶのも、その地位を奪うのも「女神の役割」とされていたのではないだろうか。それはともかく、「女神」に関わる「男性神」は「(切り)倒す神」と「倒される植物神」の2つに大きく分かれたように思われる。それが「美女と野獣」では「(切り)倒す神」が父親、「倒される植物神」が獣人となる。この物語での「父親」は商人なので、倒した獣から得たものを更に売りさばいて、商業の豊穣をもたらす神としての側面も暗に込められているように思う。この神を北欧神話ではオーディンと呼び、古代のフランス(ガリア)においてはローマ人は、自らの神であるメルクリウスである、と一つにまとめて呼んでいたように思う。[[エスス]]のような「(切り)倒す神」であり、「商人の神」でもあるところは、この物語の「父親」は元はオーディンに近い性質を持った神であったことが窺える。獣人はオーディンに倒されたユミルの様な怪物神に近いものといえる。彼らに、このような「死と再生の戦闘儀礼」を行わせたのが「母なる女神」である、という思想がかつてあったと思われる。のような「(切り)倒す神」であり、かつメルクリウスのような「商人の神」でもあるところは、この物語の「父親」は元はオーディンに近い性質を持った神であったことが窺える。獣人はオーディンに倒されたユミルの様な怪物・巨人神に近いものといえる。彼らに、このような「死と再生の戦闘儀礼」を行わせたのが「母なる女神」である、という思想がかつてあったと思われる。
ただし、「美女と野獣」では、「(切り)倒す神」と「倒される植物神」との戦いは物語の主題ではなく、ただ「父親が薔薇の花を手折った。」ということで片付けられてしまう。植物神を切り倒した後は、倒したものそのものを「加工・再生・再利用する作業」と「新たな植物(神)の栽培作業」の2つが必要となる。どちらを司るのも「母なる女神」の役割と思われる。「倒された植物神」から種を採り、芽吹かせ、育てる作業も「加工・再生・再利用する作業」の内だからである。古代の人々は死んだ植物から新たな芽(命)を発生させる過程に、'''他の生命を捧げなければならない'''、と考えたようである。これは「芽吹かせる役割」を持つ「母女神」の食料という意味もあったかもしれないし、新しい命と引き換えに古い命が必要とされる、と考えたのかもしれない。(そして、もっとあり得そうなことは、「生贄」を捧げなければならない、として政敵といった邪魔な人間を合法的に消してしまうための口実だったのかもしれない。)ともかく、これは人々が結婚して子孫を残すことになぞらえて、「女神と生贄(新たな植物神の(父)親となる「植物神」に見たてられた人間)との結婚」とされたようである。女神が「母女神」しか存在しない場合にはこの女神は夫と結婚しては(植物として成長した)夫を殺し、また夫との間の子(である植物)を育てては夫とした後殺す、といったように神話的には「夫を次々と殺しては、また新しい男と結婚する」ような血なまぐさい性質を負うこととなったと考えられる。しかも、このままでは人間の生活に投影した場合、近親相姦の繰り返し、という倫理的には不謹慎、遺伝子的には不利益という状況がつきまとう。そのため、「母女神」から「妻女神」を新たに分離し、「母女神」を上位、「妻女神」を下位とする神話の再編が行われたものと考える。母女神は息子である植物神の結婚を取り仕切り、その次の世代の繁栄と豊穣を願う。
 この場合、若い「妻女神」は時に「植物神」に対する人身御供とみなされることが多いように思う。(そうではないパターンの神話もある。)日本神話でいえば、須佐之男命の妻的立場でありながら岩戸に籠もってしまう天照大御神、明確に殺される稚日女尊、大宜都比売は「植物の豊穣に対する人身御供としての妻神」であると思う。メソポタミア神話のニンリルもこれに相当する。一方、妻となり、次の世代の母となって君臨する萬幡豊秋津師比売命(天火明命の母神)、夫の再生に関わる下光比売命のように殺されない女神も存在するので、何がなんでも「嫁」たる女神を殺さなければならない、ということではないのだが、ともかく「妻女神」には「人身御供」としての要素が含まれる場合があるので、彼女の「結婚」は必ずしも「喜ばしいもの」とばかりは言えないと感じる。「美女と野獣」ではここでもう一つの「要素」が登場する。それは「植物神と若い妻女神の婚姻と若い女神の死」という要素である。
「特定の娘(末娘)と野獣」の婚姻譚である。これは「「末娘」は父親が「薔薇の花を折った」ため、その償いとして「野獣の住処(庭園)」に行くこととなるが、そこは彼女の「庭園」ではないので、その行為そのものが「天国へ行く」ということの暗喩である。すなわち、末娘は父親が殺した野獣の再生のために[[人身御供譚人身御供]]」の変化したものといえる。怪物退治の要素はない、あるいはほとんどない。娘は父親の失態の身代わりとなって野獣と結婚する<ref group="私注">このような展開は日本の「雉も鳴かずば」と対照的な展開であると思う。「雉も鳴かずば」では娘のために盗みを働いた父親自身が[[人柱]]にされる。「美女と野獣」は本来「雉も鳴かずば」型の神話だったものが、娘が生贄となる型に変更されたものなのではないだろうか、と管理人は疑問に思う。</ref>。野獣は娘の裏切りにあって死にかけるが、娘が妻となって助けることとなっている。'''娘を野獣から助ける英雄は登場しない'''。要は、「クピードーとプシュケー型」でも「エンリルとニンリル型」でも良いのだが、若い娘を「神の妻にする」と称して人身御供にすることに対して肯定的な物語といえる。死んだ野獣を新たに生まれ変わらせるために若い女性を生贄に捧げる、という趣旨は「エンリルとニンリル」の神話の方が理解しやすいかもしれない。となって殺された、といえる。彼女が妻となることを承知しないうちは野獣は再生することができない。しかし、彼女が承知するとその命と引き換えに野獣は生まれ変わり、人間として再生され、結果として若い夫婦は庭園(天国)で「永遠の幸せ」を手に入れることになる。彼らは「庭園の女神(仙女)」の能力で、冥界と人界との境界を乗り越えて人間世界に降臨し、新たな植物の育成者、あるいは人間や神の先祖となったかもしれないが、それは明確には語られない。神話の段階ではそのようなエピソードがあったと思われるが、民間伝承では彼らの「祖神」としての性質は失われ、彼らの「個」としての幸福のみが語られる。しかも、それはハーデースとペルセポネーの幸福に似て「冥界での幸福」のようにも思われる。物語りのこのような点は「天国での永遠の幸福」を謳うキリスト教の影響で改変されているかもしれない、と思う。
 妹に意地悪して(一応)罰せられる姉がいるのも「クピードーとプシュケー」的だが妹と野獣の婚姻を邪魔しようとしたから罰せられたのであって、動機は単なる'''妬み'''となっている。日本の「[[うりこひめとあまのじゃく]]」も、一連の騒動のあまのじゃく側の原因は妬みであるように思う。姉達が「人身御供に賛成していたから罰せられた」という要素はない。 ヨーロッパにおける「5月祭」では、若い「メイクイーン(5月の女王)」が立てられ、冬の象徴である植物神を倒した後、子供達の模擬結婚により若い神々の結婚と太陽の再生が祝われるものがある。ここで倒される「植物神」は冬の象徴でもあるし、「美女と野獣」での「野獣」に相当する。(植物神が何故「冬の象徴」とされるのかは別に理由があるように思う。特にヨーロッパではこの植物神は秋に植える麦と関連するかもしれないと思う。)彼は「冬の象徴」であるので夏を到来させるために、倒されねばならないのだが、倒された後はその息子達(植物の種)は新たな「再生の女神」と婚姻して、発芽し育てられなければならないのである。それが「子供達の模擬結婚」として表されているように思う。メイクイーンは老いた「母女神」が「野獣の死」と引き換えに若返った姿ともいえる。「美女と野獣」は5月祭の思想に沿った物語ともいえ、
 物語中に登場する「仙女」は、本来[[西王母型女神|西王母型]]の格の高い女神であって、野獣は、この女神に仕える存在であり、場合によってはタンムーズ的な生贄だったと思われる。よって、物語は'''上位の女神に対する生贄であった下位の男神を再生させるために、更に若い女性の生贄を捧げる'''、という重層化した[[人身御供]]の物語となっているように思える。女主人公は野獣を直接再生させるための女神でもあり、元は上位の女神である「仙女」と同じもので、そこから別れたものと考える。* 母女神の能力による野獣(冬の象徴の植物神)の死と、それによる母女神の再生(若返り)。母女神による野獣から発生した新たな種(次の世代の植物神)の再生・生育の暗示。それを補助するエスス的神の活動。* 野獣(植物神)の再生のために「花嫁」という人身御供を捧げるという思想。
 古いタンムーズ神話で、'''イナンナの身代わりとして冥界に落とされようとするドゥムジ(タンムーズ)を更に助けるために姉妹のゲシュティンアンナが冥界に下る'''というエピソードがある。要は野獣はドゥムジ(タンムーズ)であり、女主人公(末娘)はゲシュティンアンナである、というのが物語の骨格である。ゲシュティンアンナも元はイナンナと同じ女神であったものが、イナンナから別れて、その地位が低下したものと考える。という2つの要素が組み合わされた物語といえる。
 野獣は金持ちであり「バラの花」の化身である。よって、植物神でもあり、樹木神でもある、といえる。折ってはいけない(殺してはいけない)樹木神を殺してしまったから、神を再生させるために娘の生贄が必要とされる、とそのような思想が崩れたもののように思われる。あるいは、これは'''寡婦殉死'''の思想が変化したものかもしれないと思う。印欧語族には、夫が亡くなると妻が殉死する、という伝統がところどころに垣間見える気がする。そして、樹木神であること、動物神であることなどから、野獣はそれ以外に、妹に意地悪して(一応)罰せられる姉がいる、という「罰を受ける女神」の要素も小エピソードとしてつけ加えられている。グノーシス神話では[[炎帝型神プシューケー]]であり、いったん死んでいる[[饕餮エロース]]のような神である、ともいえる。ただし、本物語の場合は、に自らの血を注いで「最初の[[饕餮薔薇|バラ]]のような化け物になるのではなく、いったん死んで人間に変化する。」を生じさせた、とするものがあるようである([[エロース]]参照のこと)。野獣の化身である[[薔薇]]の発生あるいは再生には、花嫁としての若い女性の[[生贄]]が必要である、と広く考えられていた可能性がある。これらの一連の祭祀は、元は[[マイア]]に相当する「太母」的な女神が取り仕切ることとされていたと考えるが、グノーシス神話の段階では、「太母」と「[[人身御供|生贄]]」の役割の混在が見られ「太母」的な女神の地位の低下が窺える。また、グノーシス神話は、女性が自ら犠牲になることを賛美するもので、自己犠牲を求める危険な思想により近づいているように感じる。
 これは、九玄天女が[[黄帝]]に味方して勝利を与えた、という神話と関連しており、[[黄帝]]が女神の恩寵を得て、輝かしい勝利者へと変化したことになぞらえているのだと思われる。要は、この物語の「2つめの要素」ともいえるが、「勝利者」としての[[黄帝]]の要素が、[[炎帝型神]]である野獣の物語に入りこんで、「[[饕餮]]のような化け物に変化する」という話から置き換えられているのである。
 そして、植物神でもある 物語中に登場する「仙女」は、本来[[饕餮西王母型女神|西王母型]]の格の高い女神であって、ガリアの女神としては[[マイア]]が一番適当である、と考える。薔薇は[[マイア]]に関連する花ともされている。ただし、古代のヨーロッパは熊信仰が広く行われていたので「熊の母」とされていた女神であればどの女神でも対応し得る、ともいえよう。野獣は息子神の「熊神」そのものである。「末娘」は[[マイア]]から完全に独立した女神として確立していれば、[[スメルトリオス](あるいは川の神)に生贄として妻を与えて]の妻神である[[黄帝アンカンマ]]のような素晴らしい神として再生させよう、という趣旨の神話に変貌してしまっているのである。野獣は中国神話ののような河川の女神が考え得る。こちらも候補は複数挙げられるであろう。独立した女神として存在していなければ、[[炎帝神農|炎帝マイア]]に相当するので、クピードーもエンリルも自身と考えられていた可能性もある。[[炎帝神農|炎帝マイア]]が変化したものといえよう。「仙女」は[[西王母マイア]]あるいは(かつ)で、「野獣の死」により若返る女神である、といえる。そもそも[[女媧マイア]]が変化したものといえ、かつて母系が盛んであった時代には、古代中国でも女神の方がの遠い起源は語源的には[[炎帝神農|炎帝女媧]]よりも上位に来る存在だったことが示唆されるのではないだろうか。と考える。近い起源としてはエジプト神話のヌトやネイトのような女神が考えられるのではないだろうか。ただし
*「冬という野獣の死」により母女神も若いメイクイーンとして再生される。(メイクイーンが種と若い妻神達との婚姻を取りしきる。)
 よって、「美女と野獣」は「殺されたという点は「太陽の再生」と連動しており、[[饕餮マイア]]を立派な人間として再生させるために若い娘を妻として生贄に捧げる」という[[黄帝]]神話と[[炎帝神農|炎帝]]神話の折衷的な合成神話から成立した物語といえると考える。が本来は「太陽女神」であったことが示唆される。ただ、ヨーロッパではスキタイなどの例を見るに、慣例的にこれを「太陽女神」とはせず「火」や「竈」の女神として現すことが多いように思う。5月祭でも人々が火の上を飛び越えて健康などを祈る(火の女神に清めてもらう、という意味か。)ということが行われるようである。  ウィッカーマンと呼ばれる人形を生贄と共に焼くのは、まさに太陽女神を若返らせるためのための儀式といえよう。これを行うから人々は若い「メイクイーン」を得ることができるのである。ただし、このような要素は「美女と野獣」からは省かれている。この点もキリスト教の影響といえようか。(キリスト教はキリスト教で焼き殺すことはキリスト教の専売特許である、とでも言いたげな面がある。)
== 派生作品 ==
== 関連項目 ==
* [[プシューケー|クピードーとプシューケー]]
** [[エロース]]
* [[小栗判官]](キリスト型)
* [[天稚彦草子]](炎帝型)

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