この場合、若い「妻女神」は時に「植物神」に対する人身御供とみなされることが多いように思う。(そうではないパターンの神話もある。)日本神話でいえば、須佐之男命の妻的立場でありながら岩戸に籠もってしまう天照大御神、明確に殺される稚日女尊、大宜都比売は「植物の豊穣に対する人身御供としての妻神」であると思う。メソポタミア神話のニンリルもこれに相当する。一方、妻となり、次の世代の母となって君臨する萬幡豊秋津師比売命(天火明命の母神)、夫の再生に関わる下光比売命のように殺されない女神も存在するので、何がなんでも「嫁」たる女神を殺さなければならない、ということではないのだが、ともかく「妻女神」には「人身御供」としての要素が含まれる場合があるので、彼女の「結婚」は必ずしも「喜ばしいもの」とばかりは言えないと感じる。「美女と野獣」ではここでもう一つの「要素」が登場する。それは「植物神と若い妻女神の婚姻と若い女神の死」という要素である。
「末娘」は父親が「薔薇の花を折った」ため、その償いとして「野獣の住処(庭園)」に行くこととなるが、そこは彼女の「庭園」ではないので、その行為そのものが「天国へ行く」ということの暗喩である。すなわち、末娘は父親が殺した野獣の再生のために[[人身御供]]となって殺された、といえる。彼女が妻となることを承知しないうちは野獣は再生することができない。しかし、彼女が承知するとその命と引き換えに野獣は生まれ変わり、人間として再生され、結果として若い夫婦は庭園(天国)で「永遠の幸せ」を手に入れることになる。彼らは「庭園の女神(仙女)」の能力で、冥界と人界との境界を乗り越えて人間世界に降臨し、新たな植物の育成者、あるいは人間や神の先祖となったかもしれないが、それは明確には語られない。神話の段階ではそのようなエピソードがあったと思われるが、民間伝承では彼らの「祖神」としての性質は失われ、彼らの「個」としての幸福のみが語られる。しかも、それはハーデースとペルセポネーの幸福に似て「冥界での幸福」のようにも思われる。物語りのこのような点は「天国での永遠の幸福」を謳うキリスト教の影響かもしれない、と思う。となって殺された、といえる。彼女が妻となることを承知しないうちは野獣は再生することができない。しかし、彼女が承知するとその命と引き換えに野獣は生まれ変わり、人間として再生され、結果として若い夫婦は庭園(天国)で「永遠の幸せ」を手に入れることになる。彼らは「庭園の女神(仙女)」の能力で、冥界と人界との境界を乗り越えて人間世界に降臨し、新たな植物の育成者、あるいは人間や神の先祖となったかもしれないが、それは明確には語られない。神話の段階ではそのようなエピソードがあったと思われるが、民間伝承では彼らの「祖神」としての性質は失われ、彼らの「個」としての幸福のみが語られる。しかも、それはハーデースとペルセポネーの幸福に似て「冥界での幸福」のようにも思われる。物語りのこのような点は「天国での永遠の幸福」を謳うキリスト教の影響で改変されているかもしれない、と思う。
ヨーロッパにおける「5月祭」では、若い「メイクイーン(5月の女王)」が立てられ、冬の象徴である植物神を倒した後、子供達の模擬結婚により若い神々の結婚と太陽の再生が祝われるものがある。ここで倒される「植物神」は冬の象徴でもあるし、「美女と野獣」での「野獣」に相当する。(植物神が何故「冬の象徴」とされるのかは別に理由があるように思う。)彼は「冬の象徴」であるので夏を到来させるために、倒されねばならないのだが、倒された後はその息子達(植物の種)は新たな「再生の女神」と婚姻して、発芽し育てられなければならないのである。それが「子供達の模擬結婚」として表されているように思う。メイクイーンは老いた「母女神」が「野獣の死」と引き換えに若返った姿ともいえる。「美女と野獣」は5月祭の思想に沿った物語ともいえ、