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2,032 バイト追加 、 2022年2月25日 (金) 02:15
 しかし、その考察に入る前に、河姆渡文化は母系の文化でもあったので、羿の妻・嫦娥の神話的役割について纏めてみたい。
== 嫦娥信仰の歴史的変遷 嫦娥信仰の歴史的変遷と乞巧奠(七夕) ==
道教では、嫦娥を月神とみなし、「'''太陰星君'''」さらに「'''月宮黄華素曜元精聖后太陰元君'''」「'''月宮太陰皇君孝道明王'''」と呼び、中秋節に祀っている。
「針」とは裁縫や織物に関するアイテムであり、仙女であった嫦娥がいわゆる「織り姫」のような存在であったことを伺わせる。古代中国の世界樹とも言える扶桑、すなわち桑は絹とも関連する樹木である。
 
『西京雑記』には、前漢の采女が七月七日に七針に糸を通すという'''乞巧奠'''の風習が記されているが、織女については記されていない<ref>『西京雑記』巻1「漢彩女常以七月七日穿七孔針於開襟楼、俱以習之。」</ref>。
 
その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈った。捧げ物の瓜の上に蜘蛛が糸をかければ望みがかなう印とされた、と書かれており、7月7日に行われた乞巧奠(きこうでん)と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝・梁代の殷芸](いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令広義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている<ref>『小説』の原典は失われているが、明代の馮應京(ひょう おうきょう)が万暦年間に著した『月令広義』にこれが引用されている(「七月令」・「牛郎織女」項 [http://japanese.china.org.cn/archive2006/txt/2002-04/18/content_2029605.htm])。</ref>。
== 扶桑と養蚕 ==

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