==== 関西説 ====
[[赤松文之祐]]<ref>「扶桑国論」(『現代の眼』1977年4月号所載)</ref>や[[いき一郎]]やいき一郎<ref>『扶桑国は関西にあった』</ref>の説では、倭の五王の倭国は今の九州にあったとして、それとは別勢力である扶桑国は関西・近畿地方にあったとしている。
==== 関東説 ====
[[荻生徂徠]]は[[1736年]]の著書『南留別志』(なるべし)に於いて、「上総はかんつふさ、下総は下津房なり、安房もふさといふ字を用ゆ、古の扶桑国なるべしとみえたり」と断じ、扶桑国は房総半島とした。鈴木正知荻生徂徠は1736年の著書『南留別志』(なるべし)に於いて、「上総はかんつふさ、下総は下津房なり、安房もふさといふ字を用ゆ、古の扶桑国なるべしとみえたり」と断じ、扶桑国は房総半島とした。鈴木正知<ref>邪馬台国は房総半島(安房上総地方)にあったとの説を唱えた人。</ref>も同説を唱えた。
==== その他の日本国内説 ====
九州説、東海地方説(前田豊は三河説、[[何新]]は富士山説)、東北地方説、北海道説、樺太説がある。九州説、東海地方説(前田豊は三河説、何新は富士山説)、東北地方説、北海道説、樺太説がある。
=== 日本以外とする説 ===
[[北畠親房]](1293 北畠親房(1293 - 1354)は「東海の中に扶桑の木あり。日の出所なり、と見えたり。東にあれば、よそへていへるか。此国に彼木ありといふ事聞えねば、たしかなる名にはあらざるべし」(『[[神皇正統記]]』)といい、日本と扶桑国は本来は別々の国としていた。1354)は「東海の中に扶桑の木あり。日の出所なり、と見えたり。東にあれば、よそへていへるか。此国に彼木ありといふ事聞えねば、たしかなる名にはあらざるべし」(『神皇正統記』)といい、日本と扶桑国は本来は別々の国としていた。
また[[1712年]]の[[類書]]『[[和漢三才図会]]』も「扶桑」の項で、『[[三才図会]]』からの引用(『梁書』の要約)の後、注釈で
{{Quotation|疑{{sup|ハクハ}}是當{{sup|ルカ}}{{sub|二}}北東{{sup|ニ}}{{sub|一}}乎誤{{sup|チ}}以爲{{sub|二}}日本{{sup|ト}}{{sub|一}}而扶桑{{sup|ノ}}爲{{sup|ル}}{{sub|二}}日本{{sup|ノ}}別號{{sub|一}}者不{{sub|レ}}當{{sup|タラ}}