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媽祖は当初福建省の媽祖の故郷にある媽祖祖廟で祀られて、航海など海に携わる事柄に利益があるとされ、泉州、潮州など中国南部の沿岸地方で特に信仰を集めていたが、時代が下るにつれ、次第に万物に利益がある神と考えられるようになった。歴代の皇帝からも媽祖は信奉され、南宋の紹興26年(1156年)には'''霊恵夫人'''に、元世祖の代(1281年)には'''護国明著天妃'''に、清代康熙23年(1684年)には'''天后'''に封じられた。媽祖を祀った廟が「天妃宮」、「天后宮」などとも呼ばれるのはこれが由縁である。
また、明代には[[鄭和]]の遠征により、[[インドネシア]]にも信仰が伝わり、現地の女神「ラトゥ・キドル」にもなった。また、明代には鄭和の遠征により、インドネシアにも信仰が伝わり、現地の女神「ラトゥ・キドル」にもなった。
媽祖信仰は、福建省・潮州の商人が活動した沿海部一帯に広まり、東北の[[瀋陽媽祖信仰は、福建省・潮州の商人が活動した沿海部一帯に広まり、東北の瀋陽や、華北の天津、煙台]]や、華北の[[天津市|天津]]、[[煙台]]、[[青島市|青島]]をはじめとする多くの港町に媽祖廟が建てられた。、青島をはじめとする多くの港町に媽祖廟が建てられた。
こうして広まった媽祖信仰であるが、[[中華人民共和国]]政府は「迷信的・非科学的な活動の温床」ととらえ、厳しく規制した。特に[[文化大革命]]期にはほぼすべての廟祠が破壊され、信者も迫害されたが、改革開放の進展とともにこうした規制は次第に曖昧になり、80年代終わり頃から廟祠の復興が黙認されるようになった。こうして広まった媽祖信仰であるが、中華人民共和国政府は「迷信的・非科学的な活動の温床」ととらえ、厳しく規制した。特に文化大革命期にはほぼすべての廟祠が破壊され、信者も迫害されたが、改革開放の進展とともにこうした規制は次第に曖昧になり、80年代終わり頃から廟祠の復興が黙認されるようになった。
=== 香港・マカオ ===
[[香港]]、[[マカオ]]では文化大革命の影響をほとんど受けなかったこともあり、一貫して民間信仰が盛んである。各地に媽祖を祀った天后廟あるいは[[媽閣廟]]があるが、中でも香港の[[赤柱]](スタンレイ)の天后廟、マカオの媽閣廟は有名で、観光名所ともなっている。マカオの地名の由来は、この媽閣廟([[広東語]] マーコッミウ)近くで「ここはどこか」と尋ねた[[ポルトガル]]人が地名と勘違いしたことによると言われている。香港、マカオでは文化大革命の影響をほとんど受けなかったこともあり、一貫して民間信仰が盛んである。各地に媽祖を祀った天后廟あるいは媽閣廟があるが、中でも香港の赤柱(スタンレイ)の天后廟、マカオの媽閣廟は有名で、観光名所ともなっている。マカオの地名の由来は、この媽閣廟(広東語 マーコッミウ)近くで「ここはどこか」と尋ねたポルトガル人が地名と勘違いしたことによると言われている。
香港では他に、地下鉄の駅名になっている[[銅鑼湾]]の天后廟や、盛んな生誕祭を行う元朗の天后廟も有名である。香港の市街地にある天后廟は、埋め立てによって、海岸からかなり離れた位置になってしまったものが多いが、佛堂門天后廟のように、いまだに船で行かないと容易に近づけない海辺にあるものもある。佛堂門天后廟は、俗に大廟とも呼ばれ、[[1970年代]]までは、ビクトリア湾で生活していた[[蛋民]]の参詣で賑わい、車公廟、文武廟、黄大仙廟と並んで香港の四大廟とされた時代もあったが、現在は訪れる人も少なくなっている。

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