入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。
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原文: 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
訳: ''相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ……''
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: 弟橘比売は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、比売の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。
; 日本書紀
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[[ファイル:Sakaorimiya zenkei.jpg|thumb|「酒折宮」に比定される可能性のある現在の酒折宮([[山梨県]][[甲府市]]酒折)]]
; 古事記
: その後倭建命は、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を平定する。[[足柄坂]](神奈川・静岡県境)の神の白い鹿を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「その後倭建命は、荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を平定する。足柄坂(神奈川・静岡県境)の神の白い鹿を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「'''吾妻はや'''」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また[[甲斐国]]の[[酒折宮]]で[[連歌]]の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また甲斐国の酒折宮で連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、[[信濃国|科野]](しなの=長野県)で坂の神を服従させ、倭建命は[[尾張国|尾張]]に入る。日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しなの=長野県)で'''坂の神'''を服従させ、倭建命は尾張に入る。
; 日本書紀
: ルートが大きく異なる。上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。[[陸奥国]]に入った日本武尊は船に大きな鏡を掲げていた。[[蝦夷]]の首魁の島津神・国津神らはその威勢を恐れ、拝礼した。日本武尊が「吾は是、[[現人神]]の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、自ら縛につき服従した。そして日本武尊はその首魁を捕虜とし従身させた。蝦夷平定後、日高見国より帰り西南にある常陸を経て『古事記』同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。現在の場所としては碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、「あづまはや……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。信濃の山の神の白い鹿を蒜で殺した後、白い犬が日本武尊を導き美濃へ出る。ここで越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る。ルートが大きく異なる。上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。陸奥国入った日本武尊は船に大きな鏡を掲げていた。蝦夷の首魁の島津神・国津神らはその威勢を恐れ、拝礼した。日本武尊が「吾は是、現人神の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、自ら縛につき服従した。そして日本武尊はその首魁を捕虜とし従身させた。蝦夷平定後、日高見国より帰り西南にある常陸を経て『古事記』同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。現在の場所としては碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、「あづまはや……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。信濃の山の神の'''白い鹿'''を蒜で殺した後、'''白い犬'''が日本武尊を導き美濃へ出る。ここで越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る。
'''常陸国風土記'''
: 倭武天皇もしくは倭建天皇と表記される。巡幸に関わる記述が17件記述されている。従順でない当麻の郷の佐伯の鳥日子や芸都の里の国栖の寸津毘古を討つ話はあるが、殺伐な事件はこの2件のみで、他は全て狩りや水を飲み御膳を食すなど、その土地の服属を確認を行っている。