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太平洋戦争が終結し数年経ったころから天白に関する研究が徐々に進むようになった。柳田國男に師事した堀田吉雄は1951年から 1964年にかけて『天白神序説』・『大天白考』・『天白新考』を著し、最終的に決め手は何もないとしながら中国由来の'''天一太白の合成'''と考えるのが自然とした<ref>『山の神信仰の研究』454ページ上段。ただし456ページ下段では「''果たしてこのように簡単にわりきれるものであるか、どうかなお今後有力な資料の出現をまって考えてみたいと思う''」と結ぶ慎重な姿勢を見せている。</ref>。滋賀県から埼玉県の郷土史研究家の協力を得た今井野菊は1971年に『大天白神』に各地の天白社の分布をまとめ、天白信仰は水稲農耕以前、縄文時代まで遡るとした。『大天白神』では今井以外の論考も掲載され、愛知県の鈴木和雄は風水害を受けている場所に限られるとした『岡崎市史』に反論、埼玉県の茂木六郎はラマ教の性神としての「大天白」の信仰を指摘、[[岐阜県]]の田中静夫は「天白波神(天白羽神)を祀った」とした<ref>『天白信仰の研究』188ページ</ref>。
この今井らの研究を受けた[[山田宗睦]]は三重・愛知・長野・静岡・[[山梨県|山梨]]の5県を重点的に調査した。その結果は[[1977年]]に[[中日新聞]]に『天白紀行』と題して連載され、「この今井らの研究を受けた山田宗睦は三重・愛知・長野・静岡・山梨の5県を重点的に調査した。その結果は1977年に中日新聞に『天白紀行』と題して連載され、「''天白の起原を天ノ白羽に求める''」とされた<ref>『天白信仰の研究』190ページ</ref>。
== 参考文献 ==

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