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== 研究史 ==
三渡俊一郎は天白に関する最古の研究は江戸時代に始まるといい、谷川士清がまとめた国語辞典『和訓の栞』での「伊勢国の諸社に天白大明神というもの多し。何神なるかを知るべからず。恐らくは修験宗に天獏あり。是なるべし」と、『張州府志』での大矢村(現愛知県稲沢市大矢町)の手白明神祠に関する「或日手白作天白、祀太白星、大方天真画相近訛耳」を近い時期の研究として紹介し、後者を「天白を太白星と考えていたようである」としている。1862年に中村高平は『駿河志料』に「高平按に、天一神(天一星)、太白神(太白星)此神二神を祭れるならん」と記し、御巫清直は『伊勢式内神社検録』で天一と太白の合祭による略称であるとしたという三渡俊一郎は天白に関する最古の研究は江戸時代に始まるといい、谷川士清がまとめた国語辞典『和訓の栞』での「伊勢国の諸社に天白大明神というもの多し。何神なるかを知るべからず。恐らくは修験宗に天獏あり。是なるべし」と、『張州府志』での大矢村(現愛知県稲沢市大矢町)の手白明神祠に関する「或日手白作天白、祀太白星、大方天真画相近訛耳」を近い時期の研究として紹介し、後者を「天白を太白星と考えていたようである」としている<ref>太白星とは金星のこと。</ref>。1862年に中村高平は『駿河志料』に「高平按に、天一神(天一星)、太白神(太白星)此神二神を祭れるならん」と記し、御巫清直は『伊勢式内神社検録』で天一と太白の合祭による略称であるとしたという<ref>『天白信仰の研究』187ページ</ref>。
[[明治]]末期の[[1909年]]([[明治]]41年)、のちに[[民俗学]]の祖と呼ばれる[[柳田國男]]が『山民の生活』で天白を取り上げ、翌[[1910年]](明治42年)には『石神問答』でも天白に言及した。そこでは古い神であることは疑いがないが過去の天一太白の合成などの説は「憶測の説多し」として退け「[[風神|風の神]]」である可能性を指摘し、のちの研究者に注目されることになる明治末期の1909年(明治41年)、のちに民俗学の祖と呼ばれる柳田國男が『山民の生活』で天白を取り上げ、翌1910年(明治42年)には『石神問答』でも天白に言及した。そこでは古い神であることは疑いがないが過去の天一太白の合成などの説は「憶測の説多し」として退け「風の神」である可能性を指摘し、のちの研究者に注目されることになる<ref>『日本民俗大辞典 下』「てんぱく」</ref>。[[1926年]]には愛知県[[岡崎市]]で『岡崎市史』が発行され、[[修験道]]から出た風水除の神と推察された。。1926年には愛知県岡崎市で『岡崎市史』が発行され、修験道から出た風水除の神と推察された。
[[太平洋戦争]]が終結し数年経ったころから天白に関する研究が徐々に進むようになった。柳田國男に師事した堀田吉雄は[[1951年]]から [[1964年]]にかけて『天白神序説』・『大天白考』・『天白新考』を著し、最終的に決め手は何もないとしながら中国由来の天一太白の合成と考えるのが自然とした<ref>『山の神信仰の研究』454ページ上段。ただし456ページ下段では「''果たしてこのように簡単にわりきれるものであるか、どうかなお今後有力な資料の出現をまって考えてみたいと思う''」と結ぶ慎重な姿勢を見せている。</ref>。[[滋賀県]]から[[埼玉県]]の[[郷土史]]研究家の協力を得た今井野菊は[[1971年]]に『大天白神』に各地の天白社の分布をまとめ、天白信仰は[[イネ|水稲農耕]]以前、[[縄文時代]]まで遡るとした。『大天白神』では今井以外の論考も掲載され、愛知県の鈴木和雄は[[風水害]]を受けている場所に限られるとした『岡崎市史』に反論、埼玉県の茂木六郎は[[チベット仏教|ラマ教]]の性神としての「大天白」の信仰を指摘、[[岐阜県]]の田中静夫は「天白波神(天白羽神)を祀った」とした<ref>『天白信仰の研究』188ページ</ref>。

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