== 私的解説 ==
小栗判官が照手姫と関係することで殺される、という点は、1つには照手姫が女神で、小栗判官が女神に捧げられた生贄であることを示す名残であると思う。小栗判官が照手姫と関係することで殺される、という点は、1つには照手姫が女神で、小栗判官が女神に捧げられた生贄であることを示す名残が存在すると思う。[[天稚彦草子]]と同様、日本の伝承にはこの点の「名残」が強いように思う。照手姫の職業は「遊女」とされる。この職業は近世(江戸時代)に近づくにつれ「売春婦」と同様の意味になり、社会的地位の低い女性の職業とされるようになったが、古代においては旅人をもてなす職業の女性であって社会的地位は必ずしも低くなかった。(何故なら古代社会は一般庶民には旅行などする余裕も必要性もなく、旅をするのは高貴な立場の人がほとんどだったので、地方で旅人を接待する女性には、都の教養高い人々と交流できるだけの教養や人間性が必要とされたからである。)照手姫は横山という主人の下で旅人をもてなす役目を負っており、近世の売春婦というよりは、古代の「遊女」の面影を残している。ただし、小栗判官は中世の物語であるので、当然照手姫の社会的地位は古代の「遊女」よりも低いと思われる。小栗判官と比べた場合には、「似たような地位」であったかもしれないと思う。と同様、日本の伝承にはこの点の「名残」が強いように思う。
2つめの要点として、小栗判官の死はおそらく[[黄帝]]の異界流譚と再生の前段階として語られているように思う。小栗判官は「悪しき横山」と戦う立場であるので、非業の死を早くに遂げてしまうが、どちらかといえば元は[[黄帝型神]]とすべきと思う。ただし、横山にあっさりと殺されて、非業の死を遂げる点は[[蚩尤]]的でもある。対する照手姫の職業は「遊女」とされる。この職業は近世(江戸時代)に近づくにつれ「売春婦」と同様の意味になり、社会的地位の低い女性の職業とされるようになったが、古代においては旅人をもてなす職業の女性であって社会的地位は必ずしも低くなかった。(何故なら古代社会は一般庶民には旅行などする余裕も必要性もなく、旅をするのは高貴な立場の人がほとんどだったので、地方で旅人を接待する女性には、都の教養高い人々と交流できるだけの教養や人間性が必要とされたからである。)照手姫は横山という主人の下で旅人をもてなす役目を負っており、近世の売春婦というよりは、古代の「遊女」の面影を残している。ただし、小栗判官は中世の物語であるので、当然照手姫の社会的地位は古代の「遊女」よりも低いと思われる。小栗判官と比べた場合には、「似たような地位」であったかもしれないと思う。
2つめの要点として、小栗判官の死はおそらく[[黄帝]]の異界流譚と再生の前段階として語られているように思う。小栗判官は「悪しき横山」と戦う立場であるので、非業の死を早くに遂げてしまうが、どちらかといえば元は[[黄帝型神]]とすべきと思う。ただし、横山にあっさりと殺されて、非業の死を遂げる点は[[蚩尤]]的でもあり、[[炎帝型神]]であるともいえる。
照手姫が川に投げ込まれて生贄にされ、小栗判官の再生に関わる、という点は人間の「死と再生」に関わる神が「'''川の神'''」であり「'''冥界神'''」であることを示している。物語の中には出てこないが、「」であることを示している。'''川の神冥界神'''」であり「は照手姫の命を得て、小栗判官の命を再生させる、ともいえる。この場合の「'''冥界神'''」であるものとは」とは「'''閻魔大王'''」のことである。ただし、物語の中では、照手姫の入水と小栗判官の再生は直接の関連性があるようには描かれていない。「再生の女神」としての照手姫の性質は非常に弱められ、「'''閻魔大王'''」や'''熊野の神々'''にほぼとって変わられている、といえる。伝承によっては、照手姫が死した小栗判官を熊野へ導いたことになっており、照手姫の役割は「再生の女神」の主体として働くことではなく、冥界と現世の「境界神」のような役割となっている。それは彼女が死者であるからこそ可能なことともいえる。 物語の中には出てこないが、「'''川の神'''須佐之男」であり「'''冥界神'''か、あるいは彼が仕えるその母・」である「'''伊邪那美命閻魔大王'''と思われる。」とは'''熊野信仰須佐之男'''を前面に出している物語であるので、この点は分かりやすくなっているように思う。か、あるいは彼が仕えるその母・'''閻魔大王とは須佐之男の別名に過ぎない伊邪那美命'''扱いといえる。「[[美女と野獣]]」では、女主人公が結婚の約束をした途端に野獣が王子に再生されてしまっており、どのような「に相当すると思われる。'''神熊野信仰'''」が野獣を再生させたのかが分かりにくくなっているように思う。そして、中世におけるを前面に出している物語であるので、この点は分かりやすくなっているように思う。'''須佐之男が「川の神」とみなされていた閻魔大王とは須佐之男の別名に過ぎない'''ことが明確となる物語ともなっている。扱いといえる。
また、照手姫が'''遊女'''とされている点、小栗判官と照手姫が夫婦のようであって必ずしも夫婦ではない点など、いわゆる「原始キリスト教」の影響を受けたと思われるキリスト教譚、すなわち小栗判官をイエスになぞらえて、その死と再生のために若い女性を生贄にする、として生贄を正当化するような思想が内包されているのではないか、と疑われる。
「[[禁忌]]」については、「(毒が入っているから)酒を飲むな」という「飲むな」の[[禁忌]]が物語に含まれているが、中世の物語らしく現実的な[[禁忌]]となっている。また、[[禁忌]]が破られるのではなく、守られることが小栗判官の命を救う、というように変更されている。
全体としては熊野の神々が小栗判官を再生させる、という物語なのだが、本物語では「下位の女神」である'''照手姫'''が、'''入水して死なないと'''女神としての力を発揮できない、という点が非常に問題と考える。「死んだ者」に何か人の役に立つ特殊な霊的な作用がある、とすることは、その作用を求めるために人を殺すこと、すなわち'''「[[禁忌人身御供]]」については、「(毒が入っているから)酒を飲むな」という「飲むな」の」を正当化'''させるからである。そして、熊野の神々は「[[禁忌人身御供]]が物語に含まれているが、中世の物語らしく現実的な[[禁忌]]となっている。また、[[禁忌]]が破られるのではなく、守られることが小栗判官の命を救う、というように変更されている。」を正当化'''する神々であることが分かる。
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