南北朝時代以後、鈴鹿山の麓にある坂下では伊勢参宮の盛行を受けて宿場が整備され、往来の増加する中で、旅人を守護する存在として鈴鹿姫=立烏帽子として認識されるようになっていく<ref group="注">奈良絵本『すずか』に「すゝかのたてゑほしは、すゝかのこんけん(権現)といはゝれて、とうかいたう(東海道)のしゆこ(守護)神となり、ゆきゝのたひ(旅)人の身にかはりてまもり給ふ」との記述がある。小林幸夫「大蛇の裔・田村将軍」(『在地伝承の世界【東日本】』三弥井書店、1999年)</ref><ref group="私注">これはいわゆる道祖神ということではないだろうか。日本では道祖神はおおむね下位の神とされているように思う。</ref>。盗賊立烏帽子と女神鈴鹿姫が同一視され、坂上田村麻呂の英雄譚に組み込まれるのは室町時代]入ってからと考えられる<ref>IT版『亀山市史』通史編第4章</ref>。
[[14世紀]]に成立した『[[太平記]]』では、[[源家]]相伝の[[鬼切安綱|鬼切の剣]]の由来を語る場面で、田村麻呂が14世紀に成立した『太平記』では、源家相伝の鬼切の剣の由来を語る場面で、田村麻呂が'''鈴鹿御前'''と戦ったおりの剣が鬼切であり、やがて田村麻呂は鬼切を伊勢神宮に奉納、その後は源頼光に伝えられたとの一節があり、鬼切の剣を介して田村麻呂から頼光への武器継承の説話が創造された。御伽草子の世界は『太平記』での鬼切の剣の由来を語る場面を元にして、『田村の草子』では鈴鹿御前と田村将軍の剣あわせの場面に受け継がれ、また[[酒呑童子|酒呑童子説話]]においても[[童子切安綱|血吸]]の剣の由来として脚色されつつ引用された{{refnest|<ref group="原|name=『太平記』 巻三十二 直冬上洛事付鬼丸鬼切事|">『太平記』 巻三十二 直冬上洛事付鬼丸鬼切事}}{{Sfn|</ref><ef>阿部|, 2004|pages=90, pages90-91}}{{Sfn|</ref><ref>関|, 2019|pages=99, pages99-103}}</ref>。
[[応永]]25年([[1418年]])の[[征夷大将軍]]・[[足利義持]]の伊勢参宮に随行した[[花山院長親]]が著した『[[耕雲紀行]]』に、当時の鈴鹿山の様子が記されており、「その昔勇力を誇った鈴鹿姫が国を煩わし、田村丸によって討伐されたが、そのさい身に着けていた立烏帽子を山に投げ上げた。これが石となって残り、今では麓に社を建て巫女が祀るという」と、この頃には鈴鹿御前と応永25年(1418年)の征夷大将軍・足利義持の伊勢参宮に随行した花山院長親が著した『耕雲紀行』に、当時の鈴鹿山の様子が記されており、「その昔勇力を誇った鈴鹿姫が国を煩わし、田村丸によって討伐されたが、そのさい身に着けていた立烏帽子を山に投げ上げた。これが'''石となって残り'''、今では麓に社を建て巫女が祀るという<ref group="私注">立烏帽子が「死した鈴鹿姫」を暗喩させる。</ref>」と、この頃には鈴鹿御前と[[坂上田村麻呂伝説]]が融合していたことが伺える<ref>『耕雲紀行』(『神宮参拝記大成 大神宮叢書』臨川書店、1971年)</ref>{{Refnest|<ref group="注|鈴鹿峠付近に、三重県指定の天然記念物「鈴鹿山の鏡岩(鏡肌)」がある。また、応永31年([[1424年]])の『室町殿伊勢参宮記』にも、「鈴鹿姫と申す小社の前に、人々祓などし侍るなれば、しばし立よりて、心の中の法楽ばかりに、彼たてえぼしの名石の根元もふしぎにおぼえ侍て、すずかひめおもき罪をばあらためてかたみの石も神となるめり」とある。}}{{Sfn|">鈴鹿峠付近に、三重県指定の天然記念物「鈴鹿山の鏡岩(鏡肌)」がある。また、応永31年(1424年)の『室町殿伊勢参宮記』にも、「鈴鹿姫と申す小社の前に、人々祓などし侍るなれば、しばし立よりて、心の中の法楽ばかりに、彼たてえぼしの名石の根元もふしぎにおぼえ侍て、すずかひめおもき罪をばあらためてかたみの石も神となるめり」とある。</ref><ref>阿部|, 2004|pages=90, pages90-91}}</ref>。
=== 鈴鹿社と田村社 ===