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、 2022年10月24日 (月) 01:26
'''アグラオニケ'''(Ἀγλαονίκη、Aglaoníkē)あるいは'''テッサリアのアガニケ'''は、古代ギリシアのテッサリア出身の女性で、天文学者として認識される歴史上最初の女性でもある。月食の発生を予報し、月を天上から引き下ろした魔女とも言われていた。
== 記録 ==
アグラオニケに関する[[伝記]]的な資料はほとんど存在しないが、2つの著作の合わせて3ヶ所に、短い記述があることは確認されている。著作の一つは、[[古代ローマ]]の著述家[[プルタルコス]]の随想集『倫理論集(モラリア)』、もう一つは、[[ヘレニズム]]の詩人[[ロドスのアポローニオス]]の[[叙事詩]]『[[アルゴナウティカ]]』の[[古註]]である{{R|ogilvie86|bicknell83}}。
『モラリア』の中では、『結婚訓』と『神託の衰微について』の2篇にアグラオニケについての記述がある。
{{Quote|アグラオニケが経験から月食の起こる満月の周期を知って月が大地の影に占められる時を予測し、彼女が月を引き降ろしたと女たちを欺き信じさせた|プルタルコス|『結婚訓』48 145c(瀬口昌久訳){{R|moralia2}} }}
{{Quote|ヘゲトルの娘で天文学に長けたアグラオニケは、月蝕のさいにいつも呪文をかけて月を引きずり下ろすふりをしていた|プルタルコス|『神託の衰微について』13 417a(丸橋裕訳){{R|moralia5}} }}
また、『アルゴナウティカ』の古註には、以下のような記述がある。
{{Quote|ヘゲモンの娘アグラオニケは、天文学に通じ、月食の何たるかと、それがいつ起きるかを知っており、女神を引き下ろし、そしてただちに家人の一人を失う不幸に見舞われた、といわれたものである。||『アルゴナウティカ』古註 4巻 59-61{{R|hill73}} }}
『結婚訓』には「テッサリアのヘゲトルの娘」とあり、『アルゴナウティカ』の古註でも「テッサリアの魔女」の記述に続けてアグラオニケが登場することから、アグラオニケはテッサリアの出身とされている{{R|ogilvie86|lightman2|moralia2|hill73}}。そしてこれらの記述から、アグラオニケは天文学の知識に通じ、[[朔望月|朔望]]の周期を知り、月食が起きる日時を予測することができたと考えられ、しばしば歴史上最初の女性天文学者として引き合いに出される{{R|ogilvie86}}{{Refnest|group="注"|「[[天文学者]]」として言及される最古の女性ではあるが、[[天文学]]に通じた女性はもっと古い時代から居たと考えられる。例えば[[サルゴン (アッカド王)|サルゴン]]の娘[[エンヘドゥアンナ]]は、[[神官]]で[[文学者]]という位置付けだが、[[バビロニア]]の高位の神官は、現在の天文学や[[数学]]の源流に近い存在であり、立場上[[天体]]の観測や[[暦]]の作成に関わっていたものと考えられる<ref name="howard98">{{Citation |last=Howard |first=Sethanne |date=1998-06 |title=4,000 Years of Women in Science, Engineering and Other Altogether Creative Stuff |journal=International Amateur-Professional Photoelectric Photometry Communication |volume=72 |pages=1-25 |bibcode=1998IAPPP..72....1H }}</ref>。}}。天文学の知識に基づいて、月食の予報をしていたのだとすると、おそらくその計算はアグラオニケの独創ではないと考えられ、アグラオニケは、月食の予報を可能としていた[[バビロニア]]の天文学者の知識がギリシアに伝わった[[セレウコス朝]]期以降の人物であり、その評判を記述したプルタルコスよりは前の時代の人物であることになる{{R|bicknell83}}。
ただし、月食の予報と、月を引き下ろす魔術をそのまま結び付けてよいかどうかには、疑問もある。通常の皆既月食では、満月の明るさを大幅に減じ変色するが、月は依然として[[肉眼]]で容易にみえるからで、月を引き下ろしたと信じさせるには程遠い状況と考えられる。ただ、まれに目にはみえなくなる程暗くなる皆既月食も起こることがあり、[[モナシュ大学]]の[[西洋古典学]]者ビックネルはこの点に着目し、アグラオニケが予報した月食も同様のものだったと考え、プルタルコスや[[キケロ]]の文献から月が消える程の月食の見当を付けることで、アグラオニケの年代を[[紀元前2世紀]]から[[紀元前1世紀]]のどこかがもっともらしいとしている{{R|bicknell83}}{{Refnest|group="注"|皆既[[月食]]が非常に暗くなる原因としては、大規模な[[火山]][[噴火]]による[[大気]]中の[[エアロゾル|塵粒子]]の増加が知られ、例えば、1913年3月22日の月食と{{仮リンク|1913年9月15日の月食|en|September 1913 lunar eclipse}}は[[ノバルプタ|カトマイ山]]の1912年の噴火、{{仮リンク|1963年12月30日の月食|en|December 1963 lunar eclipse}}は同年の[[アグン山]]の噴火、{{仮リンク|1982年12月30日の月食|en|December 1982 lunar eclipse}}は同年の[[エルチチョン]]の噴火の影響があったものと推測されている。しかし、[[グリーンランド]]で採取された[[氷床コア]]の分析から、アグラオニケの時代に世界規模の噴火が起きた証拠はみつかっていない<ref name="bicknell83">{{Citation |last=Bicknell |first=Peter |date=1983-06 |title=The witch Aglaonice and dark lunar eclipses in the second and first centuries BC |journal=Journal of the British Astronomical Association |volume=93 |issue=4 |pages=160-163 |bibcode=1983JBAA...93..160B }}</ref><ref name="le070828">{{Cite web |url=https://www.nao.ac.jp/phenomena/20070828/color.html |title=皆既月食中の月の色について |website=2007年8月28日「皆既月食どんな色?」キャンペーン |publisher=[[国立天文台]] |accessdate=2020-05-26 }}</ref>。}}。
== テッサリアの魔女 ==
アグラオニケは、月を引き下ろしたと主張したことから、テッサリアの魔女として知られる女性の一人であったとみられる。アグラオニケに触れてはいないが、テッサリアの魔女に月を引き下ろす力があるという噂は、いくつもの文献に記述されている{{R|bicknell83|ogilvie86}}。
[[アリストパネス]]の喜劇『[[雲 (戯曲)|雲]]』には、
{{Quote|テッサリアの魔女をやとってさ、夜のうちに、お月さんをはずして、取ってしまうことにしたら、どうだろうね。|アリストパネス|『雲』750-755([[田中美知太郎]]訳){{R|cloud}} }}
という記述があり、アリストパネスの時代には既に噂が広まっていたものと考えられる。
以後、[[プラトン]]の『[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]]』{{Refnest|group="注"|…あの魔法によって月を引きおろす女たち、つまりテッタリアの魔女たちが、その代償としてこうむったと伝えられるような災難に… —[[プラトン]]、『[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]]』513A([[加来彰俊]]訳)<ref name="gorgias">{{Cite book |和書 |author=プラトン |author-link=プラトン |translator=[[加来彰俊]] |date=1967-06-16 |title=[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]] |page= |publisher=[[岩波書店]] |isbn=9784003360125 }}</ref>}}、[[ホラティウス]]の『{{仮リンク|エポディ|fr|Épodes}}』{{Refnest|group="注"|…星や月などを/かのテッサリアの呪文により/天からもたらす… —[[ホラティウス]]、『エポディ』5.45([[鈴木一郎 (西洋古典学者)|鈴木一郎]]訳)<ref name="epodi">{{Cite book |和書 |translator=[[鈴木一郎 (西洋古典学者)|鈴木一郎]] |date=2001 |title=ホラティウス全集 |page=242 |publisher=[[玉川大学]]出版部 |isbn=9784472119019 }}</ref>}}、[[ウェルギリウス]]の『[[牧歌 (ウェルギリウス)|牧歌]]』{{Refnest|group="注"|まじないは、天から月を引き下ろすことさえできる。 —[[ウェルギリウス]]、『牧歌』8.69([[小川正廣]]訳)<ref name="eclogae">{{Cite book |和書 |translator=[[小川正廣]] |date=2004-05 |title=[[牧歌 (ウェルギリウス)|牧歌]]/[[農耕詩]] |pages=58-59 |series=西洋古典叢書 |publisher=京都大学学術出版会 |isbn=9784876981519 }}</ref>}}なども、(テッサリアの)魔女が月を天上から引き下ろす、と言及している{{R|ogilvie86|bea}}。
== 波及 ==
自らの能力を誇るアグラオニケにちなんで、[[ギリシア語]]には「月がアグラオニケに従うように」という[[俚諺]]が伝わっている{{R|bea}}。
[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[マゼラン (探査機)|金星探査機マゼラン]]によって、[[金星]]に多数の衝突[[クレーター]]が確認され、[[国際天文学連合]] (IAU) にそれらの命名が求められた{{Refnest|group="注"|[[金星]]は、愛と美の女神[[ウェヌス]](アプロディーテー)に象徴される[[惑星]]であり、それゆえ金星の地名の命名については、女性の名前という制約が課されている<ref name="magellan_guide">{{Cite web |url=https://www2.jpl.nasa.gov/magellan/guide8.html |title=Chapter 8 What's in a Name? |website=The Magellan Venus Explorer's Guide |publisher=NASA / [[ジェット推進研究所|JPL]] |accessdate=2020-05-22 }}</ref>。}}。その中で、1991年の[[ブエノスアイレス]]総会にIAUから提案された名前の一つが「アグラオニケ」であり、そのまま公式な名称として採用された{{R|rs93|gpn}}。
[[ジャン・コクトー]]が、[[ギリシア神話]]の[[オルペウス]]に取材して著した[[戯曲]]『オルフェ』、及び後に自身が監督した[[オルフェ (1950年の映画)|映画『オルフェ』]]には、名前をアグラオニケにちなんだ女性アグラオニスが登場する。アグラオニスは、戯曲『オルフェ』では月を崇拝する信仰の指導者で、主人公オルフェの妻[[エウリュディケ|ユリディス]]を[[冥界]]送りにする役回りであったが、一転して映画『オルフェ』では、ユリディスの友人として登場した{{R|strauss97|cm14|palumbo18|cocteau}}。
[[ファイル:Judy Chicago The Dinner Party.jpg|thumb|[[ジュディ・シカゴ]]『ディナー・パーティー』]]
[[アメリカ]]の美術家[[ジュディ・シカゴ]]の[[インスタレーション]]作品『{{仮リンク|ディナー・パーティー|en|The Dinner Party}}』では、中央部分の[[タイル]]が敷き詰められた三角形の床に、999人の勇敢な女性の名前が描かれており、その一人としてアグラオニケの名前も含まれている{{R|eascfa|levin04|tjapan}}。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist |group="注" |refs=
}}
=== 出典 ===
{{Reflist |2 |refs=
<ref name="lightman2">{{Cite book |last1=Lightman |first1=Marjorie |last2=Lightman |first2=Benjamin |date=2008 |title=A to Z of Ancient Greek and Roman Women |page=9 |publisher=Infobase Publishing |place=[[ニューヨーク|New York, NY]] |isbn=9781438107943 |url=https://books.google.co.jp/books?id=2esYJJUETiYC }}</ref>
<ref name="bea">{{Citation |last=Saridakis |first=Voula |date=2014 |contribution=Aganice of Thessaly |title=Biographical Encyclopedia of Astronomers |pages=29-30 |publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer]] |place=New York, NY |isbn=978-1-4419-9917-7 |doi=10.1007/978-1-4419-9917-7_9215 |bibcode=2014bea..book...29S }}</ref>
<ref name="moralia2">{{Cite book |和書 |author=プルタルコス |author-link=プルタルコス |translator=瀬口昌久 |date=2001-12 |title=モラリア 2 |series=西洋古典叢書 |pages=192-193 |publisher=[[京都大学学術出版会]] |isbn=9784876981328 }}</ref>
<ref name="moralia5">{{Cite book |和書 |author=プルタルコス |translator=丸橋裕 |date=2009-03 |title=モラリア 5 |series=西洋古典叢書 |page=261 |publisher=京都大学学術出版会 |isbn=9784876981823 }}</ref>
<ref name="ogilvie86">{{Cite book |last=Ogilvie |first=Marilyn Bailey |date=1986 |title=Women in Science |publisher=[[マサチューセッツ工科大学出版局|MIT Press]] |place=[[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|Cambridge, MA]] |page=25-26 |isbn=0-262-15031-X |url=https://archive.org/details/womeninscience00mari }}</ref>
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<ref name="palumbo18">{{Citation |last=Palumbo |first=Valeria |date=2018 |title=L’epopea delle lunatiche: Storie di astronome ribelli |chapter=Capitolo 1 Le madri delle stelle |publisher=Ulrico Hoepli Editore |place=[[ミラノ|Milano]] ([[イタリア|Italy]]) |isbn=978-88-203-8607-8 |language=it }}</ref>
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}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |last=Mozans |first=H. J. |date=1913 |title=Woman in science |pages=167-168 |publisher=D. Appleton and Company |place=New York |url=https://archive.org/details/womaninscience00zahmuoft/ }}
* {{Citation |contribution=Aglaonike (c. 200 BC) |title=Encyclopedia of Astronomy and Astrophysics |date=2000-11 |editor-last=Murdin |editor-first=Paul |id=3401 |doi=10.1888/0333750888/3401 |bibcode=2000eaa..bookE3401. }}
== 関連文献 ==
* {{Cite book |last1=Vittachi |first1=Nury |last2=Cheung |first2=Step |date=2017 |title=Scientific Pioneers — Five Incredible Tales of People Who Helped Develop the Scientific Method |series=The Young Scientists Series |volume=5 |publisher=World Scientific |doi=10.1142/9789813221291_0005 }}
== 関連項目 ==
* [[女性科学者に関する年表]]
* [[ヒュパティア]]
* [[メーデイア]]
* [[金星のクレーター一覧]]
* [[ジュリエット・グレコ]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Aglaonike}}
* {{Cite web |url=https://referenceworks.brillonline.com/entries/brill-s-new-pauly/aglaonice-e108240 |title=Aglaonice |last=Graf |first=Fritz |website=Brill’s New Pauly |publisher=[[ブリル (出版社)|Brill]] |accessdate=2020-05-22 }}
* {{Cite web |url=https://4kyws.ua.edu/AGLAONIKE.html |title=Aglaonike |website=4000 Years of Women in Science |publisher=[[アラバマ大学|University of Alabama]] |accessdate=2020-05-23 }}
* {{Cite web |url=https://upstagestiger.weebly.com/aglaonikes-history.html |title=About Aglaonike or Aglaonice |website=Aglaonike's Tiger |accessdate=2020-05-22 }}
* {{Cite web |url=https://www.lpi.usra.edu/resources/vc/vcinfo/?refnum=37 |title=Aglaonice |website=Venus Crater Database |publisher=Lunar and Planetary Institute |accessdate=2020-05-20 }}
== 参照 ==
{{DEFAULTSORT:あくらおにけ}}
[[Category:ギリシア神話]]
[[Category:月神]]
[[Category:イグニス系]]
[[Category:月食]]