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<br />壬戌(紀元前239年)、解慕漱は熊心山にやってきて兵を起こした。その先は槀離国人である。癸亥(紀元前238年)、…古列加王は遂いに位を棄て山に入り修道する。ここに於いて五加(五部族)は国事を共治すること六年。是れより先、宗室大解慕漱は密かに須臾(番朝鮮)と約束をして檀君の地を襲い、故都白岳山に據り、称して天王郎となる。四境の内は皆命令を聴くようになる。ここに於いて諸将を封じ、須臾侯箕丕を陞て番朝鮮王となす。往きて上下雲障を守らしむ。蓋し北夫餘の興りはこれより始まる。而して高句麗は乃ち解慕漱の生郷なり。故、亦高句麗と称す<ref name="佃収233"/>。<br />(桓檀古記)</blockquote>
{{quotation|{{lang|zh-Hant|<blockquote>丙午四十五年,燕盧綰叛漢,入凶奴。其黨衛滿求亡於我,帝不許,然帝以病不能自斷,番朝鮮王箕準多失機,遂拜衛滿爲博士,劃上下雲障而封之。是歲冬,帝崩,葬于熊心山東麓,太子慕漱離立。丁未元年,番朝鮮王箕準…爲流賊所敗,亡入于海而不還。}}<br /><br />丙午(解慕漱)四十五年(紀元前195年)、燕の盧綰は漢に背き匈奴に入る。その黨の衛満は我(夫余)に亡命してくることを求めた。帝は聞き入れない。然るに帝は病気であり、自ら断ることができない。番朝鮮王箕準は多く機を失い、遂に衛満を拝して博士となし、上下雲障を劃いて衛満に与えた。この歳の冬、帝は崩じた。熊心山の東麓に埋葬する。太子の慕漱離が立つ。丁未(紀元前194年)元年、番朝鮮王箕準は…流賊のために敗られ亡げて海に入り而して還えらず<ref>{{Cite book|和書|author=[[佃収]]|date=, 1997-12-01|title=, 倭人のルーツと渤海沿岸|series=, 「古代史の復元」シリーズ|publisher=[[, 星雲社]]|, isbn=:4795274975|page=234}}, page234</refblockquote>。<br />(桓檀古記)== 家族 ==建国神話によれば、解慕漱と河伯]の娘の[[柳花夫人]]の間の息子に[[東明聖王|桓檀古記}}{{Wikisourcelang|zh|桓檀古記朱蒙]]がいる<ref name="解慕漱"/北夫餘紀#上}}>。[[朱蒙]]は高句麗の伝説上の建国者である。
== 家族 私的考察 ==建国神話によれば、解慕漱と解慕漱は弓の名手であり、[[河伯黄帝型神]]の娘のといえる。天の神の子ともされている。 == 関連項目 ==* [[柳花夫人]]の間の息子に:妻* [[東明聖王|朱蒙]]がいる<ref name="解慕漱"/>。朱蒙は[[高句麗]]の伝説上の建国者である。:息子
== 参照 ==

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