== 概要 ==
『三国史記』<ref><blockquote>阿蘭弗遂勸王,移都於彼,國號東扶餘。其舊都有人,不知所從來,自稱天帝子解慕漱,來都焉。及解夫婁薨,金蛙嗣位。於是時,得女子於太白山南優渤水,問之,曰:「我是河伯之女,名柳花。與諸弟出遊時,有一男子,自言天帝子解慕漱,誘我於熊心山下鴨邊室中,私之。</blockquote><br />(三国史記, 巻十三)</ref>や『三国遺事』<ref><blockquote>古記云。前漢書宣帝神爵三年壬戌四月八日。天帝降于訖升骨城〈在大遼醫州界〉乘五龍車。立都稱王。國號北扶餘。自稱名解慕漱。生子名扶婁。以解為氏焉。</blockquote><br />(三国遺事, 巻一)</ref>によれば、解慕漱は天帝の子でありによれば、解慕漱は'''天帝の子'''であり<ref name="解慕漱"/>、五龍車に乗って紀元前59年に訖升骨城(医巫閭山とする意見もある。)に降り立ち、北夫余を建国した。解慕漱は弓の名手で優れた戦士であり、自らの王国である北夫余の多くの敵を征服したという。
王権起源神話であって実在した人間ではないとみられている。解慕漱は高句麗の建国を述べた中国の古記録や『好太王碑』にも現れないが、それは高句麗が夫余を征服したのちにその伝説を取り込んだためとみられる。